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2017.07.17 (Mon)

【メネス】
おおむね紀元前3000年頃の古代エジプトのファラオ。伝承によると上下エジプトを統一し、第1王朝を興した。首都としてメンフィスを建設したとも。1898年に発見された「ナルメルのパレット」に記載されたナルメル王またはその子ホル・アハと同一人物であるとする説がある。

【サナクト】
前27C前、エジプト古王国第3王朝の初代ファラオ(位:前2686-68)。ネブカー。ジョセル王の兄または父。第2王朝の王位継承者の女性と結婚して即位。メンフィスを都とし第2王朝末期の内乱を収め、シナイ半島のトルコ石、銅を採掘して財政を潤し王朝繁栄の基礎を築いた。

【ジョセル】
前27Cエジプト第3王朝のファラオ。ネチェリケト王。シナイ半島の鉱物資源によって得た富を用いて勢力を拡大した。イムホテプを宰相に起用。サッカラに史上初のピラミッドとされる階段ピラミッドを建設した。 王家のホルス信仰、ファラオの神格化も彼の時代に確立された。

【イムホテプ】
前27Cエジプト古王国第3王朝のジョセル王に仕えた宰相。トト神の神官出身。王のために世界初のピラミッドと言われる階段ピラミッドを設計し、サッカラに建設した。博学で特に医学に優れ、死後医学の神として崇拝された。その知識の先進性から、シュメール人の移民との説も。

【スネフェル】
前27C-前26Cエジプト古王国第4王朝の初代ファラオ。クフ王の父。父王の階段ピラミッドを作り直したが後に崩壊したメイドゥームの崩れピラミッド、ダフシュールの屈折ピラミッド(途中で傾斜角が変わる)と赤いピラミッドと、試行錯誤が伺えるユニークなピラミッドを建設した。

【カフラー】
前26C-25Cエジプト古王国第4王朝のファラオ。クフ王の子。ギーザ三大ピラミッドのうち2番目に大きいピラミッドと大スフィンクスを建設。ピラミッドに使われた赤色花崗岩はアスワン産で、ナイル川上流域に支配が及んでいたことがうかがえる。王の彫像は古王国時代の彫刻の傑作。

【メンカウラー】
前25Cエジプト第4王朝のファラオ。父はカフラー。ギーザの第3ピラミッドを建造した。他の2つのピラミッドと比較してはるかに小さく、財政の逼迫がうかがえる。1837年玄室から石棺と遺体の一部が発見されたが、大英博物館への輸送中に船が沈没し行方不明となった。

【ウセルカフ】
前25C前、エジプト古王国第5王朝の初代ファラオ(位:前2494-87)。第4王朝の血を引き、メンカウラーの王女と結婚して即位したが、王朝交代とみなされた。ラー神官を権力基盤とし、ラー信仰を重視した。硬砂岩製の胸像が残る。サッカラに高さ49mのピラミッドを建設。

【サフラー】
前25C前、エジプト古王国第5王朝の最盛期のファラオ。レバノンに海上遠征隊を送り杉と奴隷を獲得。東アフリカのプント国では没薬と孔雀石、リビア砂漠では家畜を得た。ピラミッドは小規模、粗雑で現在は崩壊しているが列柱を備えレリーフで装飾されたた先駆的な葬祭殿を建設した。

【プタハヘテプ】
前25C後-前24C前、エジプト古王国第5王朝の宰相。ジェドカラー王に仕えた。王の依頼で王子に授けた「宰相プタハヘテプの教訓」が名高い。「智者だけでなく愚者にもたずねよ」など哲学的な格言集で後世の王や官僚の必修テキストとなり彼はイムホテプと並ぶ賢人と評された。

【ウェニ】
前24C後-前23C前、エジプト古王国第6王朝を支えた宰相。ペピ1世とメルエンラー2世に仕えた。下級官吏出身だが権勢を誇る有力貴族に対抗したい王の「便利屋」を担って出世した。5度に渡りパレスチナに遠征。ヌビアの総督としてはナイル川上流域に5本の運河を開通させ。

【メリカラー】
前21C前、エジプト第1中間期に上エジプト北部を支配した第10王朝(ヘラクレオポリス政権)のファラオ。父王ケティ3世が彼に授けた「メリカラー王への教訓」が名高い。同書では第11王朝(テーベ政権)との友好を説くが結局メンチュヘテプ2世に攻め込まれ彼の死後王朝は滅亡。

【メンチュヘテプ2世】
前21Cエジプト第11王朝(上エジプト)の王で、中王国最初の王。北進して下エジプトの第10王朝を滅ぼし、エジプトを再統一して140年に及ぶ分裂時代(第1中間期)を終結させた。このため中王国では第11王朝の首都であったテーベが首都となった。

【アメンエムハト1世】
前20C前、エジプト中王国第12王朝のファラオ。子はセンウセレト1世。第11王朝の将軍だったがクーデタで王位を奪う。王位継承の安定化を図り初めて子との共同統治システムを導入。最期は暗殺されたが事件は「アメンエムハト1世の教訓」と「シヌへの物語」に描かれる。

【センウセレト1世】
前20C、エジプト中王国第12王朝の第2代ファラオ。父は王朝創始者アメンエムハト1世。父王の生前から共同統治。父王暗殺後の混乱を収拾。ヌビアに恒久的な駐屯地を築き、オアシス地帯にも進出。多くの新たな鉱山を得て経済的に繁栄し大規模な建設事業を展開した。

【アメンエムハト2世】
前20C後-前19C初、エジプト中王国第12王朝第3代ファラオ。センウセレト1世の子。王領の穀倉地帯が王権強化に不可欠と考え大湿地帯ファイユーム地方の干拓に着手。事業は曾孫アメンエムハト3世の代に完成。国際化が進みメソポタミアやエーゲ海から人・物が流入。

【センウセレト3世】
前19C、エジプト中王国第12王朝最盛期のファラオ。官僚制を整備して第1中間期以降権勢を誇った諸侯の所領自治権を奪い王権を絶対化した。領土は最大版図に達し経済的にも繁栄して大葬祭殿とピラミッドを建設。ヘロドトスが伝える大王セソストリスは彼の伝承が基とされる。

【アメンエムハト3世】
前19C後-前18C初頃、エジプト中王国第12王朝最盛期のファラオ。父はセンウセレト3世。治世中曽祖父アメンエムハト2世が始めたファイユーム干拓事業が完成。シナイ半島の鉱山開発と併せ莫大な利益をもたらす。巨大な葬祭殿はクノッソス宮殿を上回る迷宮と呼ばれた。

【イアフメス1世】
前16C、エジプト新王国第18王朝の初代ファラオ(位:前1570-46)。父と兄は第17王朝(上エジプト)のファラオ。ヒクソス系の第15王朝(下エジプト)を滅ぼしてエジプトを再統一、新王国時代の幕を開けた。ヒクソスを追ってパレスチナ、南はヌビアにも遠征。

【トトメス1世】
前16C末-前15C初、エジプト新王国第18王朝のファラオ(位:前1506-前1493)。父王アメンホテプ1世が保護した新興のアメン神官団を支持基盤とした。シリアに遠征してミタンニを破り戦利品を基に父が始めたアメン神を祀るカルナック神殿の造営を続けた。

【ハトシェプスト】♀
前15Cエジプト新王国第18王朝のファラオ。トトメス3世の継母。夫トトメス2世の死後、ファラオは男性という慣例を破り王位についた。平和外交をすすめ、交易でエジプトに繁栄をもたらした。ルクソールの女王葬祭殿は名高い。王家の谷で発見されたミイラが残る。

【トトメス3世】
前15C古代エジプト第18王朝のファラオ。最大版図を築いた「エジプトのナポレオン」。継母ハトシェプスト女王の治世下で長期間軍隊で過ごす。即位後、女王時代の平和外交から転換し周辺諸国への遠征を繰り返した。前1479年メギドの戦いでシリア・パレスチナに覇権を確立。

【トトメス4世】
前15C後-14C前、エジプト新王国第18王朝のファラオ(位:前1419-前1386)。アメンホテプ3世の父。ギザの大スフィンクスを修復した経緯を示す「夢の碑文」で知られる。強大になったアメン神官団と対立。ヒッタイトに対抗してミタンニと同盟し平和を回復。

【アメンホテプ3世】
前14Cエジプト新王国第18王朝のファラオ。アメンホテプ4世の父。絶頂期にあった王国を継ぎ、貢納、交易で得た莫大な富を使ってマルカタ宮殿で豪奢な宮廷生活をを送った。アメン神を篤く信仰し、ルクソール神殿を建設。自身の葬祭殿は破壊されたが、メムノンの巨像が残る。

【ハプの子アメンホテプ】
前14C前、エジプト新王国第18王朝の建築家。父ハプも建築家。アメンホテプ3世に仕え王の大建築事業を取り仕切った。マルカタ宮殿、ルクソール神殿、メムノンの巨像のみが現存する王の葬祭殿を建設。彫像にも優れ後世にイムホテプの兄弟神として崇拝された。

【ネフェルティティ】♀
前14Cエジプト新王国第18王朝アメンホテプ4世の妃。ツタンカーメンの義母。6人の王女を生んだ。熱烈なアトン神崇拝者で、アマルナ革命の主導者とされる。前1336年以降記録から姿を消すが、その後ファラオになったとの説も。美しい彩色石灰岩彫刻の胸像で知られる。

【ツタンカーメン】
前14C古代エジプト第18王朝のファラオ。即位後父王アメンホテプ4世が廃止したアメン信仰を復活させ、首都をアマルナからメンフィス、テーベに戻した。若くして死に、王位は大臣のアイが継いだ。1922年考古学者ハワード・カーターが王のミイラと副葬品が残る王墓を発見。

【アンケセナーメン】♀
前14Cエジプト新王国第18王朝ツタンカーメン王の妻。父はアメンホテプ4世、母はネフェルティティで、父の生前は父の妻だった。夫との間に子はなく、夫の早世後はファラオを継いだアイの夫となる。アイとの結婚を避けるためにヒッタイト王子との結婚を画策したとの説も。

【アイ】
前14Cエジプト新王国第18王朝のファラオ。ケペルケペルウラー王。ミタンニ系の神官出身。 ツタンカーメン王の時代に大神官となり、その死後アンケセナーメン王妃と結婚して自ら即位した。ツタンカーメンを暗殺したとの俗説があったが、現在ではツタンカーメン自然死説が有力。

【ホルエムヘブ】
前14C後-前13C初、エジプト新王国第18王朝最後のファラオ。宰相アイとともにアメンホテプ3世、アメンホテプ4世、ツタンカーメン王に仕えた将軍だった。先に即位したアイの死後即位。アマルナ革命の痕跡を一掃。配下の将軍だったラムセス1世に禅譲(第19王朝開始)。

【ラムセス1世】
前13C初、エジプト新王国第19王朝の初代ファラオ(位:前1295-94)。子はセティ1世。宰相、将軍として第18王朝最後のファラオ、ホルエムヘブに仕え、その遺言により後継者として即位。行方不明となっていたミイラが2000年米国で発見されエジプトに返還された。

【セティ1世】
前13C前、エジプト新王国第19王朝のファラオ(位:前1294-79)。父はラムセス1世、子は大王ラムセス2世。シリアに遠征してヒッタイトと争う。アマルナ文化を一掃し伝統的なエジプト文化を復興。彼の葬祭殿のヒエログリフが近代兵器に見えるというオカルト話も知られる。

【ネフェルタリ】♀
前14C-前13Cエジプト新王国第19王朝ラムセス2世の王妃。若くして死去したが、ラムセス2世は碑文で彼女の美しさを讃えている。アブ・シンベル小神殿は彼女に捧げられた神殿で、彼女の2体の巨大石像がある。王妃の谷にある墓も名高い。

【メルエンプタハ】
前13C末、エジプト新王国第19王朝のファラオ(位:1212-02)。父はラムセス2世。父王の長期在位のため60歳を超えて即位。前1200年のカタストロフの影響で飢饉が発生。海の民とリビュア人が連合して侵入するが撃退。イスラエルに言及する最古の戦勝碑文が残る。

【ラムセス3世】
前12Cエジプト新王国第20王朝のファラオ。北東から侵入する「海の民」を撃退し、その一部をパレスチナに入植させ緩衝地帯とした。西から侵入するリビア人も撃退し、その後傭兵として取り込んだ。神官勢の影響力には抗えず、多額の奉納を行った。最期は家臣により暗殺された。

【ヌビアのピイ】
前8C、エジプト第3中間期の第25王朝の初代ファラオ(位:前747-22)。ピアンキ。クシュ(ヌビア)の王だったがエジプトに侵攻し占領。王都ナパタ近郊のゲベル・バルカルのアメン神殿拡張、エル=クッルにピラミッドを建設。これ以降ヌビアにピラミッドが盛んに作られる。

【メスアンネパダ】
前27C頃、シュメール人のウル第1王朝の創設者と推定される王。シュメール王名表だけでなく円筒印章など複数の出土品に名が刻まれ実在が確認された。ウルクの王ギルガメッシュと同時代の人物の可能性が高い。覇王の称号であった「キシュ王」を名乗った。

【エアンナトゥム】
前25C頃、シュメール初期王朝時代の都市国家ラガシュの最盛期の王。穀倉地帯グ・エディン・ナ(エデンの園のモデルとも)を巡ってウンマ市と戦い、和平を結んだ。その他の都市国家やエラムとも戦いレリーフと楔形文字で世界最古の戦争記録を残す(「ハゲワシの碑」)。

【エンメテナ】
前25C頃、シュメール初期王朝時代の都市国家ラガシュの王。ウルク市と同盟してウンマ市の侵攻を撃退し講和。粘土釘に記録した外交文書が残る。慶事に際して徳政令を発し債務奴隷を解放した。首の欠けた立像が知られたが2003年イラク戦争時の博物館略奪で行方不明となった。

【ウルイニムギナ】
前24C-前23C頃、シュメール初期王朝時代のラガシュの王。将軍であったが前王をクーデタで打倒して王位につき腐敗役人を粛清して王権を強化し貧民救済を含む諸々の行政改革を行った。最古の徴兵記録を残す。結局ウンマ市のルガルゲザシ王に敗れてラガシュ第1王朝は滅亡。

【ルガルザゲシ】
前24C頃、シュメールのウルク第3王朝の王。ウンマ王だったがラガシュのウルイニムギナ王打倒を皮切りに諸都市を征服しウルクを拠点に領域支配(シュメール都市国家時代の終焉)。碑文によると支配領域は地中海に至ったというが真偽は不明。アッカド王サルゴンに敗れた。

【ナラム・シン】
前22C、アッカド帝国の大王(位:前2155-19頃)。サルゴンの孫。エラム、アナトリア、シリアに遠征し祖父を上回る領土を築き「四方領域の王」を名乗ったが反乱も続発。後にエラムに略奪され1901年スーサでハンムラビ法典とともに発見された戦勝記念レリーフが名高い。

【グデア】
前22C、グティ朝シュメールの都市国家ラガシュの最盛期の王(位:前2144-前2124)。強大な蛮族のグティ人への貢納を継続して平和を保ち、無政府状態で荒廃したシュメール文化を復興。優れた文学、彫刻、建築が生まれた。特に閃緑岩製の彼の坐像は名高く30体が出土している。

【ウトゥ・ヘガル】
前21C、シュメールのウルク第5王朝の王(位:前2055-48)。グティ人の王を山岳地帯に追い返し、アッカドのサルゴンによる征服以来約300年ぶりにシュメール人の王朝を復興したが、在位7年でより実力のあるウル第3王朝のウル・ナンムに禅譲した。

【ウル・ナンム】
前22C後-前21C初、シュメール系のウル第3王朝の初代王。分裂状態にあったメソポタミアをほぼ統一した。各地に巨大なジッグラトを建設しシュメール文明を復興。世界最古の法典ウル・ナンム法典を制定。刑罰と損害賠償を定め、約350年後のハムラビ法典の同害復讐と異なる。

【シュルギ】
前21C、ウル第3王朝の王(位:前2094-47)。父は建国者ウル・ナンム。5か国語を操る教養人で、官僚組織・常備軍を整備し、度量衡・文字・暦を統一。膨大な行財政文書が残る。交易ルートを支配し王朝は繁栄。王権の神格化を進めた。「シュルギの自賛」が名高い。

【イビ・シン】
前21C後、ウル第3王朝最後の王。治世中大規模な飢饉が発生。アムル人の将軍イシュビ・エッラに穀物買い付けを命ずるが将軍は裏切ってイシン第1王朝を建国。東方からエラムに侵攻され連れ去られた(ウル第3王朝滅亡)。これ以降シュメール人は政治の舞台から姿を消す。

【リピト・イシュタル】
前20C前、アムル系のイシン第1王朝の王。ウル第3王朝を範とし、奴隷、租税、相続などを定めた民事・行政法典(リピト・イシュタル法典)をシュメール語で定めハムラビ法典の先駆を成す。減税や徳政令を発して社会の安定を図った。台頭したラルサ市にウル市を奪われた。

【リム・シン1世】
前19C後-前18C前、古代メソポタミア南部の都市国家ラルサの最後の王(前1822-前1763)。ウルク、イシンを破って強国となる。運河の建設や既存の農地の塩害の対策として農地拡大を進めたことで知られる。バビロンのハンムラビ王に敗れて王国は滅亡。

【ジムリ・リム】
前18C、古代メソポタミアの都市国家マリの王(位:前1775頃-61)。アムル人。バビロンのハンムラビ王の支援でアッシリアを撃退しマリの王座を奪還。長年同盟関係にあったハンムラビにマリを征服された。彼の文書庫から発見された粘土板はメソポタミア史解明に大きく寄与。

【シャムシ・アダド1世】
前19C後-前18C前、古アッシリア王国の王。外部から侵攻して王位を簒奪したアムル人。王位の正統性を主張するため初めてアッシリア王名表を作成。北メソポタミアに覇権を確立しバビロンのハンムラビ王も一時臣従させた。息子達との300通の粘土板書簡が残る。

【アッシュール・ウバリト1世】
前14C、アマルナ時代の中アッシリア王国の王(位:前1365-30)。長年アッシリアを支配していたミタンニ王国をヒッタイトのシュッピルリウマ1世と挟撃して打倒し独立。エジプトのアメンホテプ4世と対等な外交関係を結ぶ。バビロニアの王位継承に干渉。

【トゥクルティ・ニヌルタ1世】
13C後、中アッシリア王国の王。北方のウラルトゥに遠征して銅を、東方のザグロス山脈に遠征して瑠璃、錫、馬を獲得。南方のバビロニア(カッシート朝)、西方のヒッタイトも破る。バビロニアから連行した知識人に自らの英雄叙事詩を書かせ文化振興にも寄与した。

【ティグラト・ピレセル1世】
前12C後-前11C前、中アッシリア王国の王(位:1115-1077)。前1200年のカタストロフによって衰退した国勢を一時的に盛り返し各地に遠征。バビロニア北部にも侵入。中期アッシリア法典を制定。晩年は飢饉とアラム人の侵入で国は混乱し最期は暗殺。

【トゥシュラッタ】
前14C前、アマルナ時代のミタンニの王。弟はシャッティワザ。娘はエジプトのアメンホテプ4世に嫁いだ美女タドゥキパ(一説によると王妃ネフェルティティ)。ヒッタイト王シュッピルリウマ1世の内政干渉によるクーデタで打倒されミタンニはヒッタイトの属国となる。

【ムルシリ1世】
前14C、ヒッタイト古王国の大王。祖父はハットゥシリ1世。貴族会議で選出され即位。前1531年頃長駆バビロンまで遠征し弱体化していたバビロン第1王朝を崩壊させたが占領せず、戦利品を略奪して帰還。遠征中にクーデタを起こされ、帰還後すぐに暗殺。

【シュッピルリウマ1世】
前14C、アマルナ時代のヒッタイト新王国の大王(位:前1355-22)。ムルシリ2世の父。周辺部族を制圧して国土を3倍に広げ、古王国以来の大国として復興。ミタンニを打倒。エジプトの第18王朝とは友好を望んだが将軍ホルエムヘブに邪魔され戦争となった。

【ムワタリ2世】
前13C前、ヒッタイト新王国の大王(位:前1290-72)。 父はムルシリ2 世。弟はハットゥシリ3世。シリアの交易ルートの支配権をめぐってエジプト新王国第19王朝のセティ1世、ラムセス2世と戦い、前1274年カデシュの戦いで激突。シリアでの影響力を保持した。

【ハットゥシリ3世】
前13C、ヒッタイト新王国の大王(位:前1266-36)。父はムルシリ2世、兄はムワタリ2世。アッシリアへの対抗上エジプトとの和平が必要と考え前1259年ラムセス2世と世界最古の成文化した平和条約を締結。条文を記した粘土板のレプリカは国際連合本部ビルに展示。

【シュトルク・ナフンテ1世】
前12C前、イラン高原南西部のエラム王国の最盛期の王。バビロニアを征服してカッシート王朝を滅ぼす。この際バビロンのマルドゥク神殿から神像とハンムラビ法典が刻まれた閃緑岩石柱を王都のスサに持ち去った。1901年に石柱が同地で発見されたのはそのため。

【ヨシュア】
前13C頃、「旧約聖書」に登場するユダヤ人の指導者。出エジプトに際してモーセに重用され、モーセの死後後継の指導者となる。パレスチナ東部のエリコを攻略して住民を聖絶(ジェノサイド)し、「約束の地」とされるカナンを征服、抵抗運動を粉砕して土地を十二支族に分配したという。

【デボラ】♀
前12C頃、「旧約聖書」の「士師記」に登場するユダヤ人の預言者。第4の士師。名はヘブライ語で「ミツバチ」を意味する。ユダヤ人がカナン人の王に20年間抑圧されていた時期を率いた。士師バラクとともにタボル山に北部6部族の軍勢を集めてカナン人の将軍シセラを破った。

【サムソン】
前11C頃、「旧約聖書」に登場するユダヤ人の指導者。「士師記」に登場する最後の大士師(民族的英雄)。怪力。愛国心よりも個人的な感情からペリシテ人と戦い、最期は計略にはまり捕縛されるがガザのダゴン神殿を破壊して死んだという。19Cカミーユ・サン=サーンスがオペラ化。

【サムエル】
前11C、ユダヤ人の預言者、士師。エフライム族。旧約聖書「サムエル記」に記される。前1021年頃、民が戦争指導者としての王を求めるとベニヤミン族のサウルに油を注いで王に擁立した(イスラエル王国成立)。しかしサウルに失望し死の直前ユダ族の牧童ダビデに油を注いだという。

【サウル】
前10C、イスラエル王国の初代王。ベンヤミン族。周辺民族と戦うには王が必要と考えた諸族長老に求められ預言者サムエルが彼を神に選ばれた王とした。ペリシテ人、アマレク人と戦い最期は戦場のギルボア山中で子のヨナタンとともに自決。少年のダビデの人気を妬んで殺そうとしたという。

【レハブアム】
前10C後、ユダ王国の初代王(位:前930-13)。ソロモンの子。父王から統一イスラエル王国を継ぐが重税と賦役を続けたため前931年ヤロブアム1世率いる北部10部族が離脱して王国は南北に分裂。25年エジプトの侵攻を受けてエルサレム神殿を略奪・破壊される。

【ヤロブアム1世】
10C後、北イスラエル王国の初代王(位:前931-10)。ソロモン王の時代に賦役の監督官だったが苛烈な治世に身の危険を感じエジプトに亡命。ソロモンが死ぬとその子レハブアムの治世を嫌う北部10部族に推戴され北王国を建国。ダンに新たなヤハウェ神殿を建設した。

【オムリ】
前9C前、北イスラエル王国の王(位:前876-69)。将軍として別の将軍ジムリのクーデタを鎮圧して即位。預言によらない力による支配で建国以来不安定だった王権を安定させ王位の世襲を始める。南のユダ王国の関係を改善。サマリアに遷都しそこにカナン人の神々を祀った。

【アハブ】
前9C前、北イスラエル王国オムリ王朝の王(位:前869-50)。オムリの子。王妃はフェニキアのシドンの王女イゼベル。周辺諸国と同盟し前853年カルカルの戦いでアッシリアを撃退。積極外交により王国を地域大国としたが宗教も国際化したため預言者エリヤに非難された。

【ベン・ハダト2世】
前9C、アラム・ダマスカスの王。アッシリア文書ではハダドエゼル。アッシリアのシャルマネセル3世の脅威に対抗して北イスラエル王国を含む周辺諸国を結集。前853年カルカルの戦いでアッシリアを撃退。「旧約聖書」には北イスラエル王アハブとの熾烈な抗争が描かれる。

【イエフ】
前9C後、北イスラエル王国の王(位:前842-15)。エヒウ。オムリ王朝のヨラムをクーデタで打倒し即位。革命は預言者エリシャら宗教保守派に後押しされオムリ王朝が導入した異教崇拝を廃止したため「旧約聖書」では評価が高い。周辺諸国を敵視して超大国のアッシリアに臣従した。

【エリシャ】
前9C、北イスラエル王国の預言者。農民の子で、預言者エリヤの弟子。師の遺志を継いでオムリ王朝が導入する異教崇拝を非難。イエフによるクーデタを後押しして異教崇拝を廃止させた。アラム・ダマスカスのクーデタにも介入している。42人の子供を熊に襲わせた呪いでも知られる。

【イスラエル王ホセア】
前8C後、北イスラエル王国の最後の王(位:前731-22)。王国はアッシリアの属国となっていたが前727年ティグラト・ピレセル3世の死を好機と捉えエジプトを頼ってアッシリアに反く。25-22年サマリアに籠城して抵抗するが降伏(北イスラエル王国滅亡)。

【アハズ】
前8C後、ユダ王国の王(位:前735-15)。アッシリアに臣従。アッシリアの神を祀って預言者イザヤに非難された。前734年頃アラム・ダマスカスと北イスラエル王国が反アッシリア同盟を募るも参加を拒否。同盟軍に責められアッシリアに援軍を求めた(シリア・エフライム戦争)。

【ヒゼキヤ】
前8C後-前7C前、ユダ王国の王(位:前740-前687)。ヤハウェ信仰を重視し異教崇拝を廃止。富国強兵策を推進。前701年アッシリア王センケナリブに攻められるがイザヤの預言どおり敵は撤退。インフラ整備に努め、ギボンの泉から地下水路を通したシロアムの貯水池が名高い。

【イザヤ】
前8Cユダ王国の預言者。「旧約聖書」の3大預言者の一人。前740年頃から預言者として活動し、アッシリアの圧迫は国民の不信心の結果だと説き、ヤーウェ以外の神の信仰を批判した。前701年にアッシリア王センナケリブがユダ王国を攻めた際にはエルサレムの不落を予言した。

【ヨシヤ】
前7C後、ユダ王国の王(位:前640-09)。アッシリア帝国の崩壊に乗じて独立を回復。ナショナリズムの高揚を背景にヤハウェ信仰を絶対視し異教崇拝を徹底的に弾圧した(申命記改革)。エジプト王ネコ2世のバビロニア遠征軍に一方的に戦いを仕掛け敗れて戦死(メギドの戦い)。

【エホヤキン】
前6C初、ユダ王国の王(位:前597)。父王が新バビロニア王国のネブカドネザル2世に捕囚されて即位するが3ヶ月後に自らも捕囚される。多数の上層市民がバビロンに連行されたのはこの時。38年の捕囚に耐え次代の新バビロニア王アメル・マルドゥクによって解放、厚遇された。

【エレミヤ】
前7C末-前6C前、ユダ王国の預言者。「心の預言者」。「旧約聖書」の3大予言者の一人。王国の滅亡は神の意志であるとし、侵略者ネブカドネザル2世を「神の僕」と呼んだ。最期はエジプトで殉教。キリスト教徒は彼が予言した神との「新約」がイエスによる福音であると解釈する。

【エゼキエル】
前6C、バビロン捕囚時代のユダヤ人の預言者。「旧約聖書」の3大予言者の一人。前597年新バビロニア帝国の都バビロンに強制連行された後、市内の難民コミュニティの指導者として預言活動を開始。前587年のユダ王国の滅亡を預言。その後は一転してイスラエルの復活を預言した。

【ティグラト・ピレセル3世】
前8C後、新アッシリア王国の王(位:前744-27)。旧約聖書ではプル王。中央集権化を行い常備軍を整備して王国の世界帝国化の基礎を築いた。前732年アラム・ダマスカス、29年バビロニアを征服。ユダ王国のアハズ王は預言者たちの反対をよそに彼に臣従した。

【サルゴン2世】
前8C末、新アッシリア王国の王(位:前722-05)。即位当初の支持基盤は脆弱であったが、オリエント各地に遠征し領土を拡大した。前721年イスラエル王国を滅ぼし、上層民を各地に強制移住させた(失われた十部族)。新都ドゥル・シャルキン(コルサバード遺跡)を建設。

【センナケリブ】
前8C末-前7C初アッシリアの王(位:前705-681)。サルゴン2世の子。ニネヴェに遷都。前701年ヒゼキヤ王時代のユダ王国を攻めたがイザヤの預言通りに撤退。メロダク・バルアダン2世やムシェズィプ・マルドゥクらバビロニア王と戦い、前689年バビロンを破壊した。

【メロダク・バルアダン2世】
前8C後、バビロニア王国の王。カルデア人。西方のエラム人の力を借りてアッシリアのバビロニア支配に敢然と抵抗した。前721王位につくが10年サルゴン2世に敗れてエラムに逃れる。03年バビロンに戻って王位を奪還するが直後にセンナケリブに敗れて再び亡命。

【ナキア】♀
前7C前、新アッシリア王国のセンナケリブ王の側室でエサルハドン王の母。王の愛を受け後宮で権勢を誇ったが前694年王太子がエラムに捕縛されると息子を立太子し81年の王暗殺後王位につけた。息子の治世中も政治に関与し69年息子の死後孫のアッシュールバニパルを擁立した。

【エサルハドン】
前7C前、新アッシリア王国の王(位:前681-69)。父はセンナケリブ、母はナキア、異母兄はアッシュール・ナディン・シュミ、子はアッシュールバニパル。父王が破壊したバビロンを再建。キンメリア人、エラム、ウラルトゥと戦い、前671年エジプトに遠征し征服。

【シャマシュ・シュム・ウキン】
前7C、アッシリア帝国内のバビロニア王。父はエサルハドン、弟はアッシュールバニパルでともにアッシリア王。前652年カルデア人、アラム人、エラム人の支援を受けて弟王に反乱するがウル市、ウルク市など主要都市は呼応せず48年バビロンが陥落し戦死。

【ナボポラッサル】
前7C後、新バビロニア王国の建国者、初代王(位:前625-05)。ネブカドネザル2世の父。アラム人。アッシリア帝国の属州総督だったが反乱して王位につきメディア王国のキュアクサレス2世と同盟して帝国中枢のアシュール、ニネヴェを陥落させ前609年帝国を滅ぼす。

【ナボニドゥス】
前6C、新バビロニア王国の最後の王(位:前555-39)。神官と対立し前552年から10年間政治を皇太子に一任してアラビアに退避。最後はアケメネス朝ペルシアの大王キュロス2世に打倒された。粘土板の年代記と円筒形碑文が名高い。史上初めて考古学的発掘、展示を行った。
【ネコ2世】
前7C末-前6C初、エジプト第26王朝のファラオ(位:前610-前595)。ネクタネボ。アッシリア帝国崩壊のさなか王位につき前609年アッシリア救援を試み途上でユダ王国を破る(メギドの戦い)。05年カルケミシュの戦いで新バビロニアに敗れた。ギリシア人との関係を強化

【ゴルディアース】
前8C頃、ギリシア神話に伝わる中央アナトリアのフリギア王国の伝説的王。ミダースの養父。首都ゴルディオンの建設者。貧農だったが牛車に乗っていたところ神託により王になったという。その牛車を結んだのが前334年に大王アレクサドロス3世が切断したゴルディアスの結び目。

【ミダース】
前8C後頃、中央アナトリアのフリギア王国の王。ゴルディアース王の養子。ギリシア神話には触れたものが黄金に変わる、耳がロバの耳に変わる(「王様の耳はロバの耳」)など、神々に翻弄される説話が伝わる。黄金の伝説はパクトーロス川の砂金産出からイメージしたものと考えられる。

【ギュゲス】
前7C、リュディア王国の王。前王の王妃と密通した上共謀して王を倒し王位を奪う。その際透明人間になれる「ギュゲースの指輪」を用いたといい、プラトンが「国家」の中で倫理問題として扱う。「キュロス・シリンダー」によるとアッシリアへの貢納を渋ってキンメリア人に征服された。

【アリュアッテス】
前7C末-前6C前、リュディア王国の王(位:前605-前561)。王国を東方に拡大し前590-85年ハリュス川でメディア王国と戦うが皆既日食により講和。イオニア都市群も服属させ東西交流を促進。バクトーロス川の砂金から世界初の貨幣(エレクトロン貨)を鋳造。

【クロイソス】
前6C、リュディア王国の最後の王(位:前561-47)。経済的に繁栄し富豪の代名詞となった。前548年新バビロニアやエジプトと同盟してアケメネス朝の大王キュロス2世を攻めるが反撃される。ラクダ騎兵に苦戦し翌年サルディスが陥落し捕縛された(リュディア王国滅亡)。

【キュアクサレス2世】
前7C後-前6C前、メディア王国の王(位:前625-前584)。王国を支配していたスキタイを撃退。バビロニア王国のナボポラッサル王と同盟して前612年ニネヴェを陥しアッシリアを滅ぼす。リュディア王国のアリュアッテス王と戦うが前585年皆既日食により講和。

【アステュアゲス】
前6C前、メディア王国の最後の王(位:前585-50)。王妃はリュディア王アリュアッテスの王女。将軍ハルパゴスに裏切られ属国だったペルシア王国のキュロス2世の反乱に敗れた(メディア王国滅亡、アケメネス朝ペルシア成立)。キュロス2世の祖父と伝わるが信憑性は低い。

【マンダネ】♀
前6C、イラン高原南西部の小国アンシャンの王だったアケメネス朝の父祖カンビュセス1世の王妃。大王キュロス2世の母。ギリシア側の伝承ではメディア王国のアステュアゲス王の王女で予知夢により危険視され小国に嫁がされたというが楔形文字文書にそのような記録はない。

【ヒュスタスペス】
前6C頃、アケメネス朝ペルシアの王族で、大王ダレイオス1世の父。ウィシュタースパ。彼をゾロアスター教の聖典「アヴェスター」に登場し開祖ザラスシュトラを保護し自ら改宗した同名の王と同一人物とする説がザラスシュトラを6Cの人物とする説の根拠だが異論が多い。

【スメルディス】
前6C、アケメネス朝ペルシアの王族。大王キュロス2世の子でカンビュセス2世の弟。前522年エジプト遠征中の兄王の死後即位。同年大王ダレイオス1世は彼を打倒した後、本人は25年兄王に殺されており打倒されたのは偽物だと発表。碑文と伝承によりそのまま後世に伝わる。
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【クセルクセス1世】
前5Cアケメネス朝の王(位:前486-65)。ダレイオス1世の子。前480年、海・陸の大軍をもって自らギリシア遠征。テルモピュライの戦いでスパルタ王レオニダス1世を敗死させアテネを占領するが、サラミスの海戦で敗れ帰国。ペルセポリスに万国の門を建設。

【マルドニオス】
前5C前、ペルシア戦争で活躍したアケメネス朝ペルシアの将軍。前492年第一次ギリシア遠征に派遣されるが失敗。80年第三次遠征に参加。クセルクセス1世の帰国後30万の将兵とともに前線に残ってテッサリアで越冬するが翌年プラタイアの戦いでスパルタ軍に敗れ戦死。

【アルタクセルクセス1世】
前5C、アケメネス朝の王(位474-24)。父はクセルクセス1世。エジプトの反乱を支援するデロス同盟軍との戦いにメガビュゾス将軍を派遣。陸海の激闘の末449年カリアスの和約を結ぶ。ペロポネソス戦争には介入せず。旧約聖書にも寛大な王として記載される。

【ダレイオス2世】
前5C後、アケメネス朝ペルシアの王(位:前422-04)。子はアルタクセルクセス2世と小キュロス。前王の暗殺後犯人を誅殺して即位。反乱でエジプトを失うが、ペロポネソス戦争でスパルタと結んだとサトラップのティッサフェルネスとファルナバゾスの活躍で帝国を維持。

【パリュサティス】♀
前5C、アケメネス朝ペルシアのダレイオス2世の王妃。アルタクセルクセス2世と小キュロスの母。夫とは異母兄妹の関係でもあった。小キュロスを溺愛し小キュロスの反乱の原因を作った。クテシアスが「ペルシア誌」に息子の王妃スタテイラの毒殺など典型的な悪女として描く。

【アルタクセルクセス2世】
前5C末-前4C前、アケメネス朝ペルシアの王(位:前404-前358)。前402年スパルタの支援を受けてギリシア人傭兵を集めた弟の小キュロスが反乱(クセノフォン「アナバシス」に描かれる)。コリントス戦争に介入して西方の覇権を維持。60年を越す長期在位。

【小キュロス】
前5C後、アケメネス朝ペルシアの王子。父はダレイオス2世、兄はアルタクセルクセス2世。前404年父王の死後兄が即位し自らはサルディス総督となるが01年兄王に反乱。1万人の傭兵を集め優位に立つがクナクサの戦いで戦死。従軍したクセノポンの「アナバシス」が知られる。

【クテシアス】
前5C後-前4C前、ギリシア人の医師、歴史家。イオニア地方のクニドス出身。アケメネス朝ペルシアのアルタクセルクセス2世の侍医として宮廷に住んだ。著作はオリエント史書「ペルシア誌」23巻や「インド誌」など。いずれも断片のみが残る。幻獣ユニコーンの記述も知られる。

【ネクタネボ1世】
前4C前、エジプト末期王朝第30王朝の初代ファラオ(位:前380-62)。第29王朝のファラオを追放して即位。エジプト再征服を狙うアケメネス朝のアルタクセルクセス2世と対峙。アテナイやスパルタの支援を受けて王国を守った。フィラエ島のイシス神殿の基礎を建造。

【ネヘミヤ】
前5C、アケメネス朝ペルシアに仕えたユダヤ人。エズラとともにユダヤ文化を復興させ第二神殿次代の幕を開けた。バビロン捕囚民の1人であったがアルタクセルクセス1世に仕えユダヤ属州総督となる。エルサレムの城壁を再建。債務奴隷廃止など社会改革を行うとともに戒律を復活させる。

【エズラ】
前5C頃、アケメネス朝ペルシア時代のユダヤ人の祭司。アルタクセルクセス2世に信任されユダヤ教は免税や助成金などの特権を与えられた。帝国政府公認で神殿儀礼から祭司職の組織、生活規範にまで至る律法を整備。自治組織としてのサンヘドリン(長老会)が生まれたのもこの頃

【航海者ハンノ】
前5C、カルタゴの航海者。前450年頃、西アフリカの植民市候補地調査のためジブラルタル海峡を渡り、ギニア湾岸にまで達し帰国した。現地語で「ゴリラ」と呼ばれる毛むくじゃらの野人を発見。航海記録はカルタゴのバアル神殿に刻まれていたが、ギリシア語訳が後世に残った。

【コライオス】
前7C頃、ギリシア大植民時代のサモス島の商人。ヘロドトスによるとエジプトに向かう途中に遭難して漂流の末ジブラルタル海峡を越えイベリア半島南西部のタルテッソスへ漂着。積荷と交換した大量の金を持ち帰り巨万の富を得た。その収益でヘラ神殿に巨大な青銅の甕を奉納したという。

【ペリアンドロス】
前7C後-前6C前、コリントスの僭主。僭主キュプセロスの子。残虐な暴君とも伝わるが画期的な政策でポリスに経済的、文化的繁栄をもたらした。税を軽減。奴隷の輸入を廃止。植民市を建設しマケドニア、エジプトなどと広く交易。彼をギリシア七賢人に数える文献もある。

【僭主ヒッピアス】
前6C後-前5C前、アテナイの僭主。ペイシストラトスの子。弟はヒッパルコス。父の独裁政治を引き継いだが、前510年スパルタ王クレオメネス1世の支援を受けた貴族アルクメオン家のクレイステネスらによって追放された。アケメネス朝の支援を受けて権力奪回を試みるが失敗。

【クレオメネス1世】
前6C後-前5C前、スパルタの王(位:前520-前489)。レオニダス1世の義父。アテナイの内紛に介入してクレイステネスを支援し僭主ヒッピアスを打倒。前494年セペイアの戦いで巨人アルゴスの神域の森を敵軍もろとも焼き払う。最期は狂死したが神罰と噂された。

【アリスタゴラス】
前5C初、ミレトスの指導者。ナクソス遠征に絡んでアケメネス朝リュディア総督の怒りを買い保身のため前498年アケメネス朝に対するイオニアの反乱を扇動。アテナイの支援を取り付けてサルディスを焼き払うが帝国軍の反撃を受けて敗北し亡命。ペルシア戦争の原因を作った。

【レオニダス1世】
前5Cペルシア戦争期のスパルタ王(位:前489-80)。前480年わずかな兵を率いてクセルクセス1世率いるアケメネス朝の大軍を隘路で迎撃し、奮戦するが敗北して戦死した(テルモピュライの戦い)。2007年の映画「300 〈スリーハンドレッド〉」に描かれる。

【将軍パウサニアス】
前5C前、ペルシア戦争で活躍したスパルタの王族、将軍。前479年プラタイアの戦いを指揮しマルドニオス将軍を破りアケメネス朝遠征軍を撤退に追い込む。翌年要地ビュザンティオンを奪回。ここで僭主となることを望みクセルクセス1世と内通。本国で弾劾され解任。

【アリステイデス】
前5C、アテナイの政治家、将軍。名門出身の保守派で民主派テミストクレスの政敵。陶片追放を受けたがペルシア戦争前に大赦を受け帰国。前490年マラトンの戦い、83年サラミスの海戦で活躍。公明正大で清廉潔白な人物として知られデロス同盟軍資金負担額の差配を担った。

【ミルティアデス】
前6C-前5C初アテネの軍人。子はキモン。クリミア半島の植民市ケルソネソスに派遣され僭主となるがペルシア戦争に際して帰国。民会で将軍に選出されて前490年マラトンの戦いを指揮し、大勝して英雄となる。翌年パロス島遠征失敗の責任を問われ民会に告発された。

【キモン】
前5C前、アテナイの軍人。貴族派。ミルティアデスの子。デロス同盟を率いて前475年エイオン包囲戦、66年エウリュメドン川の戦いでアケメネス朝に勝利し、アテナイ海上帝国の基礎を築く。63年トラキア遠征も成功。61年陶片追放。51年帰国しスパルタとの休戦協定をまとめる。

【アテナイのエピアルテース】
前5C、アテナイの急進民主派の指導者。ペリクレスとともに大貴族キモンの打倒と貴族の牙城アレオパゴス会議の無力化を目指した。前461年スパルタ救援に失敗したキモンの陶片追放に成功するとアレオパゴス会議から五百人評議会に権力を移すが直後に暗殺された。

【アスパシア】
前5Cアテネで活躍したミレトス出身の女性で、ペリクレスの恋人。美貌と教養でアテナイ市民のアイドルとなり、彼女の家はソクラテスなどの知識人が集まる一種のサロンをなした。保守派は彼女を非難し、民会に告発したが、ペリクレスはあくまで彼女を弁護した。

【ブラシダス】
前5C後、ペロポネソス戦争前期(十年戦争)に活躍したスパルタの将軍。前429年ナウパクトスの海戦、27年ケルキュラ内戦介入に従軍するがいずれも敗北。24年からトラキア遠征を率い22年アンフィポリスの戦いで勝利するが戦死。主戦派の彼の死はニーキアスの和約につながる。

【提督リュサンドロス】
前5C末-前4C初、スパルタの提督。ペロポネソス戦争末期の前405年アイゴスポタモイの海戦でアテナイ艦隊を壊滅させボスポロス王国からの穀物供給ルートを遮断してアテナイの無条件降伏を決定的にした。戦後アテナイのクリティアスらを支援し三十人政権樹立を幇助。


【アルキビアデス】
前5C後、ペロポネソス戦争時代のアテナイの政治家、軍人。代表的なデマゴーグ。ソクラテスの弟子。主戦派としてニキアスの和約の破棄を画策し前415年シチリア遠征を主導。遠征中政敵に弾劾されるとスパルタに寝返る。11年政変後のアテナイに復帰するが06年再度亡命

【三十人僭主クリティアス】
前5C後、アテナイの政治家。ペロポネソス戦争中は衆愚政治に与したが前404年の無条件降伏後スパルタの支援を受け三十人政権を樹立して恐怖政治を主導。翌年民主派のクーデタで打倒され戦死。ソクラテス裁判は弟子である彼の行動に対する責任論が背景にあるとされる。

【アゲシラオス2世】
前4C前、スパルタの王(位:前400-前360)。前399-95年小アジアのアケメネス朝領内に侵入し勝利を重ねスパルタ帝国を築く。アケメネス朝が反スパルタのポリスを結集させコリントス戦争を招く。テバイと激しく抗争するが次第に覇権を失いスパルタは衰退した。

【キナドン】
前4C初、スパルタの反乱首謀者。前398年ヘイロタイ(奴隷)、ネオダモデス(解放奴隷)、ペリオイコイ(半自由民)を糾合してホモイオイ(市民)への蜂起を計画したが露見して摘発された(キナドンの陰謀)。帝国化するスパルタのリュクルゴス体制の動揺を示すとされる。

【エパメイノンダス】
前4C前、古代ギリシアのテーバイの将軍、政治家。同性愛カップルから成る軍団「神聖隊」を率いた。前371年無敵と思われたスパルタ率いるペロポネソス同盟軍をレウクトラの戦いで粉砕。その後も遠征を重ねてスパルタとアテナイを脅かし一時的なテーバイの覇権を確立した。

【フェライのアレクサンドロス】
前4C前、テッサリアのフェライの僭主(位:369-58)。僭主イアソンの甥。伯父の死後政権に就く。テッサリア連邦諸ポリスを脅かし、連邦の救援要請を受け介入したマケドニアやテーバイと戦った。アテナイの支配海域をも脅かしたが最期は身内により暗殺。

【サテュロス1世】
前5C後-前4C初、黒海北岸のボスポロス王国の王(位:前433-前393)。アテナイと友好関係を結び、後背地の穀倉地帯の穀物をアテナイに供給する交易で王国は繁栄。アテナイは市場に彼の像を立てた。スキタイ人には金細工や工芸品を供給。イクソマタイ人との戦いで戦死。

【レウコン1世】
前4C前、黒海北岸のボスポロス王国の王(位:前393-53)。サテュロス1世の子。テオドシアを征服するなど王国を拡張。アテナイの食糧危機に際してアテナイへの穀物輸出を免税として優遇し約1万3000トンの緊急輸出行う。アテナイは彼に感謝し名誉市民権を与えた。

【ゲロン】
前5C、シチリア島のゲラとシュラクサイの僭主。ゲラの軍人だったがクーデタで政権を掌握し前485年シュラクサイの身分闘争に介入して僭主となる。アクラガスと同盟し80年ペルシア戦争に乗じて侵入したカルタゴをヒメラの戦いで撃退。7年間の統治でシュラクサイは飛躍的に発展した。

【ディオニュシオス1世】
前5C末-前6C、シュラクサイの僭主(位:前405-前367)。将軍であったが民主政を崩壊させて恐怖政治を敷いた。ペロポネソス戦争ではスパルタ側につく。アドリア海を支配して沿岸に拠点を建設。カルタゴ勢力とも争った。太宰治「走れメロス」の暴君のモデル。

【ヒエロン1世】
前5C前、 シュラクサイの僭主(位:前478-67)。前474年南イタリアのクマイと同盟してエトルリア人を撃破(クマイの戦い)。市民の強制移住を行い、権力維持のために秘密警察を創設。アイスキュロスをはじめ多くの文化人を保護。馬車レースの選手で競技大会で優勝。

【シュラクサイのアガトクレス】
前4C後-前3C初、シュラクサイの僭主(位:前317-前289)。クーデタを起こして寡頭政を転覆。強力な陸海軍でほぼシチリア全島を支配。前311-07年カルタゴと戦う。シュラクサイを包囲されるがアフリカに上陸して反撃し講和(第三次シケリア戦争)。

【アナクシマンドロス】
前6Cミレトスの哲学者。タレスの弟子で、西洋哲学史上タレスに次ぐ二番目の哲学者とされる。万物の根源(アルケー)は、「無限なるもの」(ト・アペイロン)であるとした。人間は魚から変化したという一種の進化論や、平行世界(パラレルワールド)の存在を提唱したとも。

【アナクシメネス】
前6C、ミレトスの自然哲学者。師のアナクシマンドロスが万物の根源(アルケー)とした「無限定なもの」(ト・アペイロン)は空気である考え、ミレトス学派の一元素説を完成させた。空気が濃くなると液体となり、さらに濃くなると固体となると主張。地球や天体は円盤だと考えた。

【エレアのゼノン】
前5C古代ギリシアの自然哲学者。南イタリアのエレア出身でエレア派の始祖パルメニデスの弟子であり、愛人。感覚よりも理性を重視し、「弁証法」を創始。「アキレウスと亀」などのパラドックスを用いて「雑多」や「運動」を否定し、師の「不生不滅」の考えを擁護した。

【アナクサゴラス】
前5Cイオニア自然哲学の末期の哲学者であり、移住によりアテネに哲学を持ち込んだ。物体は無数の微小な「スペルマタ」から構成され、「ヌース」によって世界は秩序づけられるとして、原子論の先駆けをなした。天体は神ではなく巨大な石だと主張し、涜神の罪に問われた。

【クサンティッペ】♀
前5C頃アテナイ、哲学者ソクラテスの妻。クセノフォン「ソクラテスの思い出」やプラトン「パイドン」に断片的に記述があるのみで詳細な実態は不明だが、後世に口うるさい悪妻の代名詞となった。

【クセノポン】
前5C-前4Cアテナイ出身の哲学者、歴史家。ソクラテスの弟子。アケメネス朝の小キュロスの反乱(前401)に傭兵として参加。前399年に脱出するまでの冒険を「アナバシス」に著わした。「ソクラテスの思い出」「ギリシア史」「キュロスの教育」など歴史書、伝記も多数残す。

【アリスティッポス】
前5C後-前4C前、北アフリカのキュレネ出身、ギリシアで活動した哲学者。快楽主義哲学のキュレネ派の祖。ソクラテスの弟子。感覚以外のすべての真理に懐疑的で、刹那的で肉体的な快楽を享受することこそ人生の唯一の目的であると説き、自身も自由で享楽的な生活を実践した。

【アンティステネス】
前5C後-前4C前、アテネ出身の哲学者。キュニコス派(犬儒派)の祖。ソクラテスの弟子でデュオゲネスの師。アテネ隣接の公共体育場キュノサルゲスで講義を行った。欲望、財産、地位、権力を徹底的に蔑み禁欲的な生活の実践こそ人間の善(アレテー)であり学問も不要とした。

【ディオゲネス】
前4C古代ギリシアの哲学者。黒海南岸のシノペ出身。犬儒派(キュニコス派)思想の体現者として大樽を住処とし犬のような生活を送った。欲望から解放されるために、知識や教養よりも肉体的・精神的な鍛錬を重んじた。ポリス間抗争の時代にあってコスモポリタニズムを主張した。

【ゴルギアス】
前4C前、シチリア出身、ギリシア各地で活躍した哲学者、修辞学者。ソフィスト。「詭弁の父」。聴衆を魅了する弁論術(レトリック)に革新をもたらし、法廷や議会で弁論を必要とする上層市民に教師として人気を博した。のちにプラトンは対話編「ゴルギアス」で彼を批判。

【ミレトスのヘカタイオス】
前6C-前5C古代ギリシア、ミレトスの歴史家。ペルシア戦争前後には外交面で活躍。イオニアの反乱に反対。ヨーロッパ、アジア、アフリカが描かれた円盤状の世界地図が付された「世界概観」で知られる。「系譜」では神話と事実の混同を批判しヘロドトスに影響を与えた。

【アルカイオス】
前7C後-前6C、古代ギリシアの抒情詩人。レスボス島出身。島の内戦に中心人物として参加しエジプト亡命も経験。アルカイオス風韻文はローマ詩にも多大な影響を与えた。戦争や政争を激情を込めて描く。酒宴や少年愛を歌う作品も多い。サッポーと親交し、恋愛関係にあったとも。

【コリンナ】♀
前5C頃、ギリシア中央部ボイオチア出身の詩人。故郷に伝わる山岳伝説や妖精伝説を題材にした抒情的な女性合唱隊歌を残す。アイオリス方言を用いた素朴な作風と美貌で人気を博し、テーベでのコンテストではピンダロスとたびたび争い勝ったという。ヘレニズム時代の人物とする説も。

【アイソーポス】
一般には「イソップ」として知られる前6Cの寓話作家。サモス島の奴隷だったが解放された。現在伝わっている「イソップ寓話」すべてがアイソーポスの創作ではない。「アリとキリギリス」「田舎のネズミと町のネズミ」「ウサギとカメ」「オオカミ少年」「北風と太陽」など。

【イクティノス】
前5C、ギリシアの建築家。前447-431年カリクラテスとともにアテナイのパルテノン神殿を設計、建設を指揮した。正面八柱式ドーリス式建築で内部はイオニア式。古典古代の最高傑作。バッサイのアポロ・エピクリオス神殿の建設も行い部分的に初めてコリント式を用いた。

【ポリュクレイトス】
前5C-前4C古代ギリシアのブロンズ像彫刻家。アルゴス出身。現存作品はないが、ローマ時代の大理石複製が残る。人体各部の最も美しい比例を数的に算出し「カノン」を著わした。代表作は「ドリュポーロス」(槍を持つ男)、「ディアドゥメノス 」(勝利の紐を頭に結ぶ男)。

【スコパス】
前4Cポリス衰退期に活躍した古代ギリシアの彫刻家、建築家。パロス島出身。激しく感情を表現する人物彫刻を得意とし、後世に多大な影響を与えた。ハリカルナッソスのマウソロス霊廟のレリーフ、テゲアーのアテーナー・アレア神殿など。「ポトス像」はローマ人による複製が残る。

【イソクラテス】
前4C、古代ギリシア、アテナイの修辞学者、ソフィスト。ロゴグラポス(法廷演説代作者)として活躍。優れた散文を残した。増大した傭兵によるポリス間抗争を憂い、ギリシアの統一とマケドニア主導によるペルシア討伐・東方大植民を主張したがアテナイ市民は受け入れなかった。

【デモステネス】
前4Cアテナイの政治家。優れた弁論術を生かし、ピリッポス2世のマケドニア王国に対する諸ポリスの自立を訴えて遊説を重ね反マケドニア運動を展開した。その後も前336年ピリッポス2世暗殺時、前323年アレクサンドロス3世急死時と機を見てはマケドニアからの自立を訴えた。

【ネアルコス】
前4C、アレクサンドロス大王の武将。クレタ島出身。東征の帰途、インダス川からユーフラテス川まで航海を指揮し、各地の地誌を詳細に記録した。アラビア遠征の艦隊総指揮官に予定されていたが、前323年大王の死により中止。ディアドコイ戦争ではアンティゴノスの部将となった。

【クラテロス】
前4C、大王アレクサンドロス3世の武将でディアドゴイの1人。東征に参加し主要な会戦で重装歩兵を指揮。大王の信頼厚く将兵からの人気も高く大王のペルシア傾倒に苦言を呈した。大王の死後前321年ヘレスポントスの戦いで旧友のカルディアのエウメネスに敗れ戦死。

【アレクサンドロス4世】
前4C後、 マケドニアの王(位:前323-09)。大王アレクサンドロス3世と王妃ロクサネの子。父王の急逝時には胎児であり誕生とともに王位についたがディアドゴイ戦争の中摂政アンティパトロスが政務を代行。前309年カッサンドロスの命で暗殺された。享年14。

【アンティパトロス】
前4C、大王アレクサンドロス3世のディアドゴイの1人。カッサンドロスの父。東征には参加せずギリシアの統治を担った。前323年大王急逝後ペルディッカス、アンティゴノスらと対立。前321年トリパラディソスの軍会で摂政となりマケドニアとギリシアを領地とした。

【カッサンドロス】
前4C後-前3C初、大王アレクサンドロス3世のディアドゴイの1人で、アンティパトロス朝マケドニアの初代王(位:前325-前297)。アンティパトロスの子。大王の母、妻、遺児を次々に殺害し王位を奪う。ディアドゴイ戦争を生き抜くが彼の死後20年で王朝は滅亡。

【リュシマコス】
前4C-前3C前、アレクサンドロス大王に仕えたマケドニア王国の将軍で、ディアドゴイ。大王の側近として東方遠征に従軍し、インドではカラノスに師事。ディアドコイ戦争ではトラキアを拠点にアンティゴノス1世-デメトリオス1世親子やセレウコス1世と戦ったが遺領は残せず

【マケドニア王デメトリオス1世】
前3C前、ディアドゴイ戦争の武将、アンティゴノス朝マケドニアの王(位:前294-88)。父はアンティゴノス1世、子はアンティゴノス2世。プトレマイオス1世、カッサンドロス、セレウコス1世、リュシマコス、ピュロスらと戦う。攻城戦が得意だった。

【アンティゴノス2世】
前3C、アンティゴノス朝マケドニアの王(位:前277-39)。アンティゴノス1世の孫で、デメトリオス1世の子。アンティパトロス朝の断絶後王位に就く。一時エピロス王ピュロスに追放されるが復位。スパルタとアテナイがエジプトと同盟して彼に反乱するが鎮圧した。

【ピュロス】
古代ギリシアのエピロス王兼マケドニア王(位:前286-84、前273-72)。戦術の天才。デメトリオス1世やリュシマコスとマケドニア王位を争う。王位を追われていた時期は南イタリアのタラスの要請でローマと、シチリアの覇権を狙ってカルタゴと戦いいずれも勝利した。

【ピリッポス5世】
前3C後-前2C前、アンティゴノス朝マケドニアの王(位:前221-前179)。前214-05第一次マケドニア戦争でカルタゴと結んでローマ・アッタロス朝と戦うが敗北。前200-前197第二次マケドニア戦争でもローマに敗北。その後はローマとの従属的な友好を維持。

【マケドニア王ペルセウス】
前2C前、アンティゴノス朝マケドニア最後の王(位:前179-68)。父はピリッポス5世。親ローマ派の弟を処刑。反ローマの旗色を鮮明にして国際的に孤立。前178年第三次マケドニア戦争となり68年ピュドナの戦いで敗れ降伏、廃位(アンティゴノス朝の滅亡)。

【アギス4世】
前3C後、スパルタ末期の王(位:前244-41)。腐敗した貴族を抑え、借金の帳消しと土地の再分配によって市民身分を増やしリュクルゴス体制を復興しようとしたが不十分で市民の不興を買い、守旧派に巻き返されて処刑された。その遺志はクレオメネス3世に引き継がれる。

【クレオメネス3世】
前3C後、スパルタ末期の王(位:前235-22)。腐敗貴族を粛清、土地を再分配してリュクルゴス体制を復興。前229-22年ギリシアに覇権を唱えるがアカイア同盟・マケドニアの連合に敗れエジプトに亡命(クレオメネス戦争)。戦時の緊迫を国内改革に利用した典型例。

【アンティオコス1世】
前3C前、セレウコス朝シリアの王(位:前281-61)。救済王。父は建国者セレウコス1世。ケルト系のガラティア人の侵入を撃退。エジプトとペルガモンの同盟には苦戦。パルティアへの対抗上ギリシャ人の東方入植を推進し結果的にヘレニズム文化拡大に寄与した。

【アンティオコス3世】
前3C後-前2C前、セレウコス朝の王(位:前223-前187)。大王。前212-06年東方遠征を行いパルティア、グレコ・バクトリアを服属させインドに到達。西方はバルカン半島まで進出した結果ローマと敵対し前190年マグネシアの戦いで大敗。王国は再び衰退。

【アンティオコス4世エピファネス】
前2C前、セレウコス朝シリアの王(位:前175-63)。プトレマイオス朝エジプトを攻めて追い込むがローマの介入で断念。西方ではパルティアにも勝利。ユダヤ人に対する圧政を敷いたがユダ・マカバイを指導者とする大反乱を招き、鎮圧に向かう途上で死去

【ディオドトス・トリュフォン】
前2C後、セレウコス朝の将軍、王(位:前142-38)。海賊出身で奴隷貿易を資金源とした。デミトリオス2世二カトルが軍隊を粛清すると兵士の不満を背景に別の王を擁立し実権を握る。ハスモン朝のヨナタンを捕縛し処刑。即位後は反乱が続発し打倒された。

【プトレマイオス2世】
前3C、プトレマイオス朝エジプトのファラオ(位:前288-46)。父はプトレマイオス1世。エーゲ海とシリアに遠征して通商ルートを支配。ギリシア人の支配体制を強化。ムセイオンと大図書館を充実させた。ユダヤ人に神話のギリシア語訳を命じる(七十人訳聖書)。

【プトレマイオス3世】
前3C後、プトレマイオス朝エジプトのファラオ(位:前246-22)。恩恵王。前246-41年第三次シリア戦争でセレウコス朝に大勝し最大版図を成す。美女で知られた王妃はかみのけ座の由来に。事跡を記したカノプス碑文はロゼッタストーン同様古代文字解読に寄与。

【フィレタイロス】
前3C前、アッタロス朝ペルガモン王国の建国。ディアドゴイ戦争中リュシマコス将軍にアナトリア北西部の岩山ペルガモンに隠した莫大な財宝の番を任される。前281年の将軍の戦死後財宝を流用して王国を建国。宦官であったため子はなく甥のエウメネス1世を後継者とした。

【エウメネス1世】
前3C、アッタロス朝ペルガモン王国の王(位:前263-41)。創始者フィレタイロスの甥。プトレマイオス朝エジプトを後ろ盾に自立を図り前261年サルディス近郊でセレウコス朝の軍を破る。伯父の肖像入りの貨幣を鋳造。ガラティア人の脅威に対しては貢物で対処した。

【アッタロス1世】
前3C後-前2C初、アッタロス朝ペルガモン王国の王(位:前241-前197)。救済王。エウメネス1世の子。東方ではガラティア人とセレウコス朝を破り一時アナトリアの大部分を支配。西方ではローマと同盟してマケドニアのピリッポス5世を挟撃。ペルガモンに大建築事業。

【エウメネス2世】
前2C前、アッタロス朝ペルガモン王国の王(位:前197-59)。父はアッタロス1世、弟はアッタロス2世。ローマの軍事力を利用してマケドニアの脅威を取り払い、セレウコス朝の大王アンティオコス3世を撃退。ペルガモンの図書館を拡張。アテナイにエウメネスの柱廊を建設。

【アッタロス2世】
前2C、アッタロス朝ペルガモン王国の王(位:前159-38)。愛兄王。「ローマの番犬」。父はアッタロス1世、兄はエウメネス2世。ローマとの友好関係を背景にビテュニアなど周辺国と戦う。治世は長期の安定を保ち文化を振興した。アテネにアッタロスの柱廊を寄贈。

【アッタロス3世】
前2C前、アッタロス朝ペルガモン王国最後の王(前138-33)。エウメネス2世の子、アッタロス2世の甥。統治に関心がなく文芸に没頭。男子はなく死に際して王国をローマに遺贈した。アリストニコスの反乱を経て王国はローマの属州に編入された(アッタロス朝の滅亡)。

【アリストニコス】
前2Cペルガモン王国の王族で、反ローマ闘争の指導者。前133年異母兄アッタロス3世が死に際して王国を共和制ローマに遺贈したが、彼はこれに異を唱えて王を名乗った。奴隷や隷農の解放を宣言し、理想国家「ヘリオポリス」(太陽の国)を標榜したが、前129年に鎮圧された。

【ニコメデス4世】
黒海南岸のビテュニア王国の最後の王(位:前94-72)。ポントス王ミトリダテス6世に侵略され同盟国ローマに救援される(第一次ミトリダテス戦争)。最期は王国をローマに遺贈。後に青年期のガイウス・ユリウス・カエサルとの関係が噂され「ビテュニアの女王」と渾名される。

【ミトリダテス6世】
前2C後-前1C前、黒海南岸のポントス王国の王(位:前120-前63)。大王。黒海周辺を征服しスキタイ、サルマタイをも征服。ビテュニアとの抗争からローマと対立し前88年アナトリア全土を占領して在留ローマ人を虐殺。3次に渡るミトリダテス戦争でローマを苦しめた。

【ティグラネス2世】
前1C、アルメニア王国の王(位:前95頃-前55)。大王。パルティアの大王ミトラダテス2世の傀儡だったがその死後ポントス王国のミトラダテス6世と同盟して自立。セレウコス朝からシリアを奪って大帝国を形成するが内乱とローマ、パルティアの攻撃によって征服地を喪失。

【コンマゲネ王アンティオコス1世】
前1C、シリア北端のヘレニズム国家コンマゲネ王国の王(位:前69-36)。政治的にはローマに従属したがギリシアとペルシアの両文化を尊崇。ゾロアスター教を信仰。ネムルト山山頂に巨大古墳と8m級の石像群、レリーフ群、長大なギリシア語碑文を建設。

【ユダ・マカバイ】
前2C、ユダヤ人の反乱指導者。前166年以降セレウコス朝に対するマカバイ戦争を指導し弟のヨナタンとともにハスモン朝の基礎を築いた。ゲリラ戦術で勝利を重ね65年アンティオコス4世エピファネスによってゼウスが祀られていたエルサレム神殿を奪回(ハヌカー祭の起源)。

【ハスモン朝のヨナタン】
前2C、ユダヤ人の独立指導者、大祭司(位:前160-42)。アッフス。ハスモン朝。ユダ・マカバイの弟。兄の戦死後セレウコス朝に対するマカバイ戦争の指導を引き継ぐ。セレウコス朝の内乱に乗じ、エジプトやローマと同盟して優勢に戦っては有利な条件で講和した。

【アレクサンドロス・ヤンナイオス】
前2C末-前1C前、ハスモン朝イスラエル王国の王(位:前103-76)。ソロモン王以来の最大版図を成す。ヘレニズムに傾倒してユダヤ文化との融合を推進しサドカイ派に支持される一方ファリサイ派を弾圧した。エッセネ派には支持され死海文書で讃えられる。

【アレタス4世】
前1C末-1C前、ヨルダン渓谷のペトラを拠点としたアラビア系商業国家ナバテア王国の最盛期の王(位:前9-紀元39)。ペルシャ湾、紅海、地中海を結ぶ隊商交易路を掌握して繁栄。娘がイスラエル王国のヘロデ・アンティパスに嫁ぐが離縁されるなど「新約聖書」にも登場。

【ヒッパルコス】
前2Cヘレニズム時代の天文学者。ニケーア出身で、ロードス島で観測を行った。クラウディオス・プトレマイオスに影響を与え、「トレミーの48星座」は彼の星表を基にしている。歳差による春分点移動を発見。地理学にも業績があり、緯度と経度による座標を初めて用いた

【ヘロフィロス】
前4C-前3Cヘレニズム時代の医学者。カルケドン出身。アレクサンドリアのムセイオンで人体に対する解剖学的研究を行ない、脳神経、眼球、臓器についての先駆的な解明を行った。多数の囚人を人体実験に用いたとも。著作は散逸したが、ローマ時代の医学書に頻繁に引用されている。

【作家メナンドロス】
前4C後-前3C初、ヘレニズム時代のギリシアの喜劇作家。アテナイ出身。多くの格言的名台詞を生み作品が散逸した後は格言のみが知られていた。1907年以降エジプトでパピルス写本が次々に発見され刊行された。作品は人間嫌いのティモンを題材にした「デュスコロス」など。

【カリマコス】
前3C、ヘレニズム時代のギリシア詩人。北アフリカのキュレネ出身。プトレマイオス朝に保護されアレクサンドリア図書館の蔵書目録「ピケナス」120巻を作成。エピグラム(警句)などの短詩を好み、壮大な叙事詩を好んだロドスのアポローニオスと論争。縁起詩集「アイティア」など。

【ポセイドニオス】
前1C前、ヘレニズム時代末期の哲学者。シリア出身のギリシア人。ローマ貴族の学校となっていたロドス島を拠点に地中海各地で活動。ストア派。コスモポリタニズムによって世界国家ローマの東方進出に思想的根拠を提供した。諸学に通じた万能人で天文学、地理学にも業績を残す。

【セルウィウス・トゥッリウス】
前6C、王政ローマの王(位:前578-35)。伝承によるとエトルリア系の奴隷出身で、先王タルクィニウス・プリスクスの娘と結婚して王位についた。エトルリア人の都市ウェイイを攻略。プレブス(平民)の支持を集めたがパトリキ(貴族)には不評だった。

【タルクィニウス・スペルブス】
前6C後、王政ローマ最後の王(位:前535-09)。傲慢王。義父である先王セルウィウス・トゥッリウスを殺害して即位。元老院を弾圧。息子の起こした強姦事件を機にルキウス・ユニウス・ブルトゥスらのクーデタで打倒されエトルリアに亡命した。

【ルキウス・ユニウス・ブルトゥス】
前6C末、ローマの初代執政官。前609年王族による強姦スキャンダルを利用して市民を扇動しタルクィニウス・スペルブス王をエトルリアに追放。元老院と執政官による共和政を創始した。その後も共和政の維持に尽力し後世共和政理念の象徴となった。

【ガイウス・マルキウス・コリオラヌス】
前5C頃、ローマの伝説的英雄。ウォルスキ族の都市コリオリを攻略。身分闘争でパトリキの利益代弁者としてプレブスと敵対。飢饉に際して穀物配給と引き換えに護民官の廃止を主張。訴追されウォルスキ族に寝返る。後世ウィリアム・シェイクスピアが戯曲化。
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【マルクス・フリウス・カミルス】
前4C前、ローマの将軍、政治家。「第二のローマ建国者」。前396年エトルリアのウェイイを攻略。その後市民に追放されるが87年ローマがケルト人に敗れ滅亡の危機に陥ると帰国して市民を率いケルト人を撃退。独裁官としてローマの復興に尽力した。

【プブリウス・デキウス・ムス2世】
前4C後-前3C初、ローマの将軍、政治家。イタリア統一事業の山場第3次サムニウム戦争を執政官、独裁官として指揮。サムニウム人、ケルト人ら反ローマ勢力と戦った。前295年センティウムの戦いで玉砕。彼の特攻精神はローマ軍国主義の象徴となる。

【アッピウス・クラウディウス・カエクス】
前4C-前3Cローマの政治家。監察官、執政官、独裁官を歴任。貴族出身だが下層階級のために尽力し解放奴隷の子に市民権を与えた。彼らの支持を得てインフラ整備に努め、アッピア街道、アッピア水道を建設した。晩年に失明。「カエクス」は「盲」の意。

【ハミルカル・バルカ】
前3C、カルタゴの将軍。ハンニバルの父。第一次ポエニ戦争に末期の前249年から参加。シチリア島の支配権を取り戻すが本国艦隊が海戦に敗れ41年敗北。有力貴族の大ハンノと対立。報酬をめぐる傭兵の反乱を鎮圧。37年南スペインを征服し植民地カルタゴ・ノヴァを建設。

【美男子ハスドルバル】
前3C、カルタゴの将軍。ハミルカル・バルカの娘婿で後継者。第一次ポエニ戦争敗北後ヒスパニアの攻略に従軍。ハミルカルの死後はカルタゴ・ノヴァの建設を主導し、ローマとエブロ川を境界とする相互不可侵条約を締結。最期は先住民のケルティベリア人に暗殺された。

【ガイウス・フラミニウス】
前3Cローマの政治家。平民出身の新興の政治家として台頭し貴族に対抗。第一次ポエニ戦争後のイタリアの復興に尽力。北イタリアのポー平原とローマを結ぶフラミニウス街道に名を残す。第二次ポエニ戦争中の前217年トラシメヌス湖畔の戦いでハンニバルに敗れ戦死。

【クィントゥス・ファビウス・マクシムス】
前3Cローマの軍人。「ローマの盾」。第二次ポエニ戦争前期を独裁官として指揮。ハンニバルの侵攻に消耗戦で対抗。反対論も強かったが次第に形勢はローマ有利へと逆転していった。漸次的に社会主義を実現しようとしたフェビアン協会の名は彼にちなむ。

【エウヌス】
前2C前、ローマの奴隷、反乱指導者。シリア出身。シチリア島で農耕に従事させられていたが口から火を噴くなどの妖術で仲間の奴隷たちの心を捉え前135年蜂起。牧人奴隷の軍勢も合流して南西部のエンナを拠点に拠点に大反乱となるが32年鎮圧された(第1次奴隷戦争)。

【マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス】
前3C末-前2C前ローマの政治家。政敵スキピオ・アフリカヌスを弾劾。対カルタゴ強硬派で、演説の最後を必ず「カルタゴ滅ぶべし」で結んだが、第3次ポエニ戦争の直前に没。ギリシア語文化への傾倒を嫌い、ラテン語で「農業論」「起源論」を著した

【マシニッサ】
前3C後-前2C前、カルタゴの東隣に位置したヌミディアの王。ユグルタの祖父。第二次ポエニ戦争にカルタゴ側で参戦中、本国での支配権を失いローマに投降。ローマの協力で復位。前202年ザマの戦いでローマの勝利に貢献。戦後もカルタゴを攻撃し第三次ポエニ戦争の引き金となる。

【ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス】
前3C末-前2C前、ローマの軍人、元老院議員。前198年から執政官。第2次マケドニア戦争を指揮し97年キュノスケファライの戦いでマケドニア王ピリッポス5世率いるファンクラスを粉砕。レギオーの優位を示した。ギリシアは彼を解放者と歓迎。

【ユグルタ】
前2C末、北アフリカのヌミディアの王(位:前118-06)。マシニッサの孫。前112年王位争いに介入するローマ軍を攻撃し戦争となる。買収工作とゲリラ戦で長期間抵抗するが最期は執政官ガイウス・マリウスとルキウス・コルネリウス・スッラの謀略に敗れた(ユグルタ戦争)。

【ルキウス・コルネリウス・キンナ】
前1C前、ローマの政治家。民衆派。同派の盟友ガイウス・マリウス将軍と結び閥族派のルキウス・コルネリウス・スッラ将軍と激しく抗争した。マリウスの死後前86-84年は政権を維持するが国賊認定したスッラに討伐軍を吸収され苦境に立たされた末暗殺された。

【クィントゥス・セルトリウス】
前2C末-前1C前、ローマの反乱指導者。ルキウス・コルネリウス・スッラと対立。前80年ルシタニア人と同盟してイベリア半島を拠点にローマに反乱。各地の反ローマ勢力と連携。スッラの独裁から逃れた民衆派を受け入れて対抗元老院を作り前72年まで抵抗した。

【ルキウス・セルギウス・カティリナ】
前1C前、ローマの政治家、軍人。ルキウス・コルネリウス・スッラの民衆派大量粛清に加担。執政官を目指すが2度落選。前63年クーデタを計画。発覚してマルクス・トゥッリウス・キケロの弾劾演説を受け市外へ逃れ再起を図るも翌年戦死(カティリナの陰謀)。

【プブリウス・クロディウス・プルケル】
前1C前、ローマの政治家。名門パトリキのクラウディウス氏族出身ながらユリウス・カエサルに心酔し名を変えてプレブスとして行動したポピュリスト。前58年から護民官。同年マルクス・トゥッリウス・キケロを弾劾。前52年護民官同士の抗争で殺害された。

【ウェルキンゲトリクス】
前1Cガリア人アルウェルニ族の族長。ガイウス・ユリウス・カエサルのガリア戦争に際して諸部族を統率して頑強に抵抗した。前52年アレシアの戦いに敗れて捕らえられ前46年ローマで処刑された。近代ナショナリズムの高揚期以降フランスの英雄とされた(ガリア起源説)。

【マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス】
前1Cローマの元老院議員。小カト。大カトの曾孫。ストア派を信奉し頑固・清廉潔白で知られ、汚職や専横、陰謀の追求に活躍した。このためガイウス・ユリウス・カエサルと対立し、前49年カエサルのローマ進軍後アフリカ属州のウティカで自害した。

【セクストゥス・ポンペイウス】
前1C後、ローマの軍人。グナエウス・ポンペイウスの子。父の死後兄の小ポンペイウスとともに元老院の支持を得てヒスパニアでガイウス・ユリウス・カエサルに抵抗。前45年ムンダの戦いで敗れるとシチリア島に逃れカエサル暗殺後も前35年まで抵抗を続けた。

【プトレマイオス13世】
前1Cプトレマイオス朝エジプト王国のファラオ(位:前51-前47)。クレオパトラ7世の弟。姉と共同統治をしていたが宦官ポティノスに教唆され姉の追放を図る。前47年ナイルの戦いで姉の愛人となったガイウス・ユリウス・カエサル率いるローマ軍に敗れ自害した。

【カエサリオン】
前1Cプトレマイオス朝エジプト王国最後のファラオ(前44-前30)。プトレマイオス15世。ガイウス・ユリウス・カエサルとクレオパトラ7世の子。叔父のプトレマイオス14世の死後3歳で即位し母が摂政となるが前30年アクティウムの海戦後ローマ軍に捕らえられ処刑された。

【デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌス】
前1Cローマの軍人、政治家。ガイウス・ユリウス・カエサルの腹心だったが前42年ポンペイウス劇場でのカエサル暗殺に加わった。「ブルータス、お前もか」は首謀者で従兄弟の元老院議員マルクス・ユニウス・ブルトゥスではなく彼に向けたとの説も。

【ガイウス・カッシウス・ロンギヌス】
前1Cローマの軍人、政治家。共和派としてガイウス・ユリウス・カエサルの帝政を危惧。マルクス・ユニウス・ブルトゥスとともに前44年のカエサル暗殺を首謀した。主導権を失いシリアに逃れ、前42年フィリッピの戦いでマルクス・アントニウスに敗れて自決。


【ガイウス・マエケナス】
前1C後、ローマの政治家。カエサル暗殺後前40年オクタウィアヌスの腹心としてマルクス・アントニウス、マルクス・アエミリウス・レピドゥスとの協定を仲介し第2回三頭政治をお膳立てした。文化の保護者としても知られ企業の芸術支援活動「メセナ」の語源となった。

【マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ】
前1Cローマの軍人。早くからアウグストゥスの腹心として帝政樹立期の歴戦に活躍。前21年アウグストゥスの唯一の実子である大ユリアと結婚。後継者と目されたが前12年病死した。パンテオンやアグリッパ浴場、水道橋ポン・デュ・ガールを建造。

【プブリウス・クィンクティリウス・ウァルス】
前1C後、ローマの軍人。アウグストゥスの治世下で出世。7年ゲルマニア総督となり皇帝の意向を受けて2万5000人の兵力でゲルマン人の討伐に向かうが、沼沢地の森林でゲリラ攻撃にあい部隊は全滅し自決した(トイトブルク森の戦い)。

【ゲルマン人アルミニウス】
1C前、ゲルマン人のケルスキ族の族長。青年期はローマ軍に属し騎士階級まで昇進。9年トイトブルク森の戦いでプブリウス・クィンクティリウス・ウァルス率いるローマ軍を粉砕。諸部族と同盟して反撃に備え、14-16年ゲルマニクスの侵攻を撃退(ゲルマニア戦争)。

【リウィア】♀
前1C-1Cローマ、アウグストゥスの皇后。クラウディス氏族出身。前夫ティベリウス・クラウディウス・ネロとの間の子が第2代皇帝ティベリウスと大ドルスス。夫帝の死後息子の治世に「祖国の母」として大きな影響力を持った。死後、孫であるクラウディス帝により神格化された。

【ティベリウス・クラウディウス・ネロ】
前1Cのローマ貴族。アウグストゥスの妻リウィアの前夫で、第2代皇帝ティベリウスと大ドルススの父。妻とともにクラウディス氏族出身。軍人、政治家として活躍。リウィアと離婚後も2人の息子を養育したが死後2人はアウグストゥスの養子に取られた。

【ティベリウス】
1C第2代ローマ皇帝(位14-37)。アウグストゥスの養子で妻はアウグストゥスの一人娘・大ユリア。母はリウィア。カプリ島に隠棲しながらも陰謀を企てたルキウス・アエリウス・セイヤヌスを粛清するなど権力を奮い、元首政を確立。イエスが活動していたのは彼の治世。

【大ドルスス】
前1Cユリウス・クラウディウス朝のローマ貴族。アウグストゥスの妻リウィアの連れ子で第2代皇帝ティベリウスの弟。兄とともにアウグストゥスの養子となる。第4代皇帝クラウディウスとゲルマニクスの父。ゲルマン人との戦いに活躍するが前9年兄の即位を見ることなく29歳で死去。

【ゲルマニクス】
前1C-1Cユリウス・クラウディウス朝のローマ貴族。父は大ドルスス。第4代皇帝クラウディウスの兄。妻は大アグリッピナ。第3代皇帝カリグラや小アグリッピナの父。父と同様ゲルマン人との戦いに活躍。伯父ティベリウス帝の後継者と目されたが34歳で病死した。

【カリグラ】
1C第3代ローマ皇帝(位37-41)。父はゲルマニクス、母は大アグリッピナ。晩年のティベリウス帝に信任され、その死後民衆と元老院の支持を得て24歳で即位。側近の粛清、大建築事業による財政の悪化など悪政が目立ち暗殺された。残忍、狂気、放蕩を示す多くの逸話が残る。

【クラウディウス】
1C第4代ローマ皇帝(41-54)。父は大ドルスス、母は小アントニア。妻・小アグリッピナの連れ子が第5代皇帝ネロ。歴史家だったがカリグラ暗殺後共和制復活を恐れた近衛隊に担がれて50歳で即位。43年自ら遠征しブリタンニアを属州にする。最期は妻に毒殺されたとも。

【ヘロデ大王】
ローマ支配下のユダヤ王(位:前37-前4)。ローマの後ろ盾でハスモン朝を破って王位に就くと、エルサレムのヘロデ神殿、カイサリア・マリティマ、マサダ要塞、ヘロディウム要塞などの大建築を行った。「新約聖書」ではイエス生誕時にベツレヘムの幼児虐殺を命じた人物とされる。

【ヘロデ・アンティパス】
ローマ支配下のガリラヤとペレアの領主(位:前4-39)。ヘロデ大王の子で他の兄弟と父王の領地を四分割した。ヘロディアとの結婚を非難した洗礼者ヨハネを処刑したが、「新約聖書」ではこれを義娘サロメの要求によるとする。39年カリグラ帝によりガリアに追放。

【洗礼者ヨハネ】
「新約聖書」に登場する預言者。ヨルダン川河畔の荒野で救世主の到来を主張し、イエスの教義を先駆けるような教えを説いていた。ヨルダン川でイエスらに洗礼(バプテスマ)を授けた。ヘロデ・アンティパスの結婚を非難したため処刑された。彼をエッセネ派の修道者とする説もある。

【使徒ヨハネ】
使徒の一人。兄は使徒ヤコブ。兄とガリラヤ湖で漁師をしていたが、イエスと出会い最初の弟子の一人となった。ペトロとともに初代教会を指導。聖母マリアを連れエフェソスに移住。キリスト教では「新約聖書」中の「ヨハネの黙示録」「ヨハネによる福音書」などの記者とされる。

【イスカリオテのユダ】
使徒の一人。「新約聖書」によると教団の会計係で、祭司長たちに自ら持ちかけ、キスでイエスを示して引き渡した。銀貨三十枚を得たが、悔いて首を吊って自殺したという。ところが外典「ユダの福音書」によるとイエスが最も信頼する彼に「裏切り」を指示したという。

【アンデレ】
十二使徒の一人。ペトロの兄弟。ガリラヤ湖の漁師出身。元はペトロとともに洗礼者ヨハネの信者だった。伝承ではイエスの死後黒海、ヴォルガ川方面で伝道し、コンスタンディヌーポリ総主教庁を創設。最期はギリシャでX字型の十字架で処刑されたという。スコットランド国旗は彼にちなむ。

【ゼベダイの子ヤコブ】
十二使徒の一人。大ヤコブ。使徒ヨハネの兄弟。ガリラヤ湖の漁師出身。イエスの死後はエルサレム教会を指導し、最期はアグリッパ1世によって処刑されたという。スペインに運ばれたという遺体が9Cになって「発見」され巡礼地となった(サンティアゴ・デ・コンポステーラ)。

【マタイ】
十二使徒の一人。元の名はレビで、ローマ帝国の徴税人を務めていた知識人。イエスの死後伝道先のエチオピアないしペルシアで殉教したという。「マタイによる福音書」の記者とされる。当時非難の的であった徴税人をイエスが受け入れたことは「罪の自覚」を重視する教義の上で重要である。

【使徒トマス】
十二使徒の一人。イエス復活を、自分の目で見て体に触れるまで信じなかったという逸話で知られる。インドに渡り、インド・パルティア王国のゴンドファルネス王に伝道したという。1945年エジプトでナグ・ハマディ写本の中に異端とされていた「トマスによる福音書」が見つかる。

【フィリポ】
十二使徒の一人。ガリラヤ湖の漁師出身。同郷のペトロ、アンデレ兄弟と同じく元は洗礼者ヨハネの信者だったという。新約聖書の最期の晩餐でイエスが彼に自らの神性を示唆する場面が知られる。黒海方面に伝道。小アジアのヒエラポリスでマルス神の信者に攻撃され87歳で殉教したという。

【バルトロマイ】
十二使徒の一人。元の名はナタナエル。友人フィリポの勧めで入信した。タダイとともにアルメニアに伝道したという。皮剥の刑で殉教したとされ、ミケランジェロの「最後の審判」には皮を持った姿で描かれている。1572年フランスのサン・バルテルミの虐殺は彼の祝日に起こった。

【アルファイの子ヤコブ】
十二使徒の一人。小ヤコブ。イエスの兄弟ヤコブと同一視する説もあるが、定説では別人とされる。タダイの兄弟とも。イエスの死後エルサレム教会の初代司教となる。最期はファリサイ派に攻撃されて殉教した。隣人愛や献身などの実践を伴わない信仰を戒める訓戒で知られる。

【タダイ】
十二使徒の一人。ヤコブの子ユダ。「忘れられた聖人」。イエスの兄弟とも。バルトロマイとともにアルメニアに伝道し殉教したという。イスカリオテのユダとの混同を避け西方教会では軽視されたが近代に入り絶望的な状況にある人の守護者として米国や中南米で篤く崇拝されるようになった。

【熱心党のシモン】
十二使徒の一人。ユダヤ民族主義集団・熱心党のメンバーだったか定かではないが、熱心な民族主義者であった可能性が高い。イエスを民族独立の指導者とみていたと考えられる。伝道先、殉教地も不明でペルシア、エジプト、アルメニア、ブリテン島等の伝承がある。イエスの兄弟とも。

【マティア】
使徒の1人。イエスの復活・昇天後、エルサレム戻った使徒たちが自殺したイスカリオテのユダに代わる12人目の使徒をたてることを決め、2人の候補がいたがくじで彼が選ばれた。「新約聖書」の記述はこれのみ。伝承ではエルサレムで斧で斬首され殉教。絵画では斧とともに描かれる。

【ピラト】
1Cローマ帝国のユダヤ属州総督(任26-36)。30年ごろ、サンヘドリン(ユダヤ最高法院)が死刑を決定したナザレのイエスを審問した末、釈放を試みるが、群集の求めに屈して十字架刑を命じた。コプト正教会の伝承では罪を悔いキリスト教に改宗したとして聖人とされる。

【マグダラのマリア】♀
イエスの弟子。イエスに七つの悪霊を追い出され、イエスの最期を見守り、復活したイエスに初めて会ってそれを十二使徒に伝えたという。キリストの妻とする伝承があるが異端とされた。グレゴリウス1世によって「罪深い女」と同一視され、カトリックでは娼婦とみなされた。

【イエスの兄弟ヤコブ】
イエスの4人の兄弟の1人。義人ヤコブ。イエスの生前の活動に理解を示さなかったが十字架刑後に豹変して信徒となる。アラム語話者(ヘブライスト)の代表としてエルサレム教団を指導。律法にこだわり異邦人伝道を推進するギリシア語話者(ヘレニスト)と対立。62年殉教。

【ステファノ】
1C、原始キリスト教の指導者。最初の殉教者。使徒からアラム語話者(ヘブライスト)とギリシア語話者(ヘレニスト)の信徒間対立解消を依頼され指導力を発揮。最高法院でユダヤ教を批判して35年頃石打ちの刑に処される。彼の殉教を受けヘレニストはエルサレムを脱出し各地に伝道。

【シモン・マグス】
1C、サマリア人の神秘思想家。魔術師シモン。グノーシス主義の開祖とも。「新約聖書」の「使徒言行録」や聖書外伝によると使徒たちに屈服しキリスト教に改宗したとされるが、民間伝承では元売春婦のヘレナとともに神秘主義教団を率いサマリア人の絶大な支持を得たという。

【小アグリッピナ】♀
1C古代ローマ第5代ネロ帝の母。兄は第3代カリグラ帝。ネロを産んだあと、異母弟である第4代クラウディス帝の妃となる。54年、クラウディス帝を毒殺してネロを擁立するが、59年にネロの命で暗殺された。ネロとの近親姦の伝承から、後世に母子相姦の代名詞となる。

【ポッパエア・サビナ】♀
1C第5代皇帝ネロの2番目の妃。財務長官オトの妻だったがネロの愛人となる。ネロは再婚に反対した母・小アグリッピナを殺害、前妻クラウディア・オクタウィアを処刑して彼女と再婚した。最期はネロのDVが原因で死去。ミルク風呂や美顔パックなどの美容術でも知られる。

【ブーディカ】♀
1C、ブリタンニア東部のケルト人イケニ族の女王。ネロ帝時代の60年頃周辺部族を糾合してローマの駐留軍に反乱を起こした。ロンディウムなどの植民市を破壊し多数のローマ人を殺戮。ワトリング街道の戦いでローマ軍に敗れた。後世に英国のヴィクトリア女王になぞらえられた。

【ガイウス・ユリウス・ウィンデクス】
1C、ローマの政治家。ガリア系。属州ガリア・ルグドゥネンシスの総督だったが67年ネロ帝に対して反乱を起こす。ガルバを皇帝に擁立するが、ルキウス・ウェルギニウス・ルフスに制圧された殺された。しかし反乱は帝国各地に飛び火し翌年ネロ帝は自殺。

【ガルバ】
1C後、ローマ皇帝(位68-69)。「四皇帝の年」の最初の皇帝。ヒスパニア・タラコネンシス属州総督だったがネロ帝に対して反乱を起こしたガイウス・ユリウス・ウィンデクスに擁立され即位。ローマに入城してネロ帝を自殺に追い込んだが親戚のオトの手配で暗殺された。

【オト】
1C後、ローマ皇帝(位69)。「四皇帝の年」の2番目の皇帝。エトルリア系貴族出身。ネロ帝の親友で皇妃ポッパエア・サビナの元夫。ルシタニア属州総督時代は評判が良かった。親戚のガルバ帝を暗殺して即位。ゲルマニア軍団を率いる将軍アウルス・ウィテッリウスに敗れ自決。在位3ヶ月。

【アウルス・ウィテッリウス】
1C後、ローマ皇帝(位69)。「四皇帝の年」の3番目の皇帝。68年ガルバ帝即位後にゲルマニア軍団の司令官となり気前の良さで人望を得る。69年軍団に推されて反乱。オト帝を破って自殺に追い込み即位。治世は不評でウェスパシアヌスの軍に敗れ殺された。

【ウェスパシアヌス】
1C後、ローマ皇帝(位69-79)。即位前はユダヤ戦争を指揮した軍人。「四皇帝の年」の内乱を勝ち抜き即位。3代27年間続くフラウィウス朝を創始。75年コロッセオの建設を開始。財政再建に努め多くの間接税を導入したためケチのイメージが流布された。

【ティトゥス】
1C後、ローマ皇帝(位79-81)。フラウィウス朝。父はウェスパシアヌス帝、弟はドミティアヌス帝。即位前の70-73年ユダヤ戦争を指揮。この際ユダヤの王女ベレニケと結婚。治世2年で死去したがこの間にコロッセオ完成、ヴェスヴィオ火山噴火によるポンペイの埋没があった。

【フラウィウス・ヨセフス】
1C、ユダヤ人の指導者、歴史家。66年ユダヤ戦争に従軍するが敗れてローマ軍司令官ウェスパシアヌスに投降。その息子ティトゥスの幕僚となり70年のエルサレム陥落まで従軍。主著は聖書外の資料を広く参照したユダヤ人の歴史書「ユダヤ古代誌」「ユダヤ戦記」。

【ドミティアヌス】
1C後、ローマ皇帝(位81-96)。3代続いたフラウィウス朝最後の皇帝。父はウェスパシアヌス帝、兄はティトゥス帝。元老院と対立し貴族階級を弾圧したため暴君と伝えられる。最期は暗殺され元老院がネルウァを擁立した(五賢帝時代開始)。ドミティアヌス競技場を建設。

【グナエウス・ユリウス・アグリコラ】
1C後、フラウィウス朝時代のローマの軍人。歴史家タキトゥスの義父。ブリタンニア属州総督として続発していた反乱を抑えて上層民のローマ化を進めた。支配領域はスコットランドにまで及び83年グラウピウス山の戦いでカレドニア人を破りほぼ全島を征服。

【アンティノウス】
2C、ローマ皇帝ハドリアヌスの愛人として寵愛を受けた男性。小アジア出身のギリシャ人とみられる。11歳の頃にハドリアヌスに出会い、19歳頃の130年皇帝のアフリカ巡行に随行した際ナイル川で溺死した。皇帝は彼を神格化し、数多くの彫像が作られ、星座にもなった。

【デケバルス】
1C末-2C初、ダキア人の王(位87-106)。ローマの属州モエシアに侵入。87年コルネリウス・フスクス率いるローマの討伐軍を粉砕。101年からトラヤヌス帝が親征。断続的に抵抗するが06年首都サルミゼゲトゥサが陥落し自決、ダキアも属州となる(ダキア戦争)。

【バル・コクバ】
2C前、ユダヤ人の反乱指導者、王(位132-35)。131年ローマがエルサレムからユダヤの痕跡を一掃するアエリア・カピトリナ建設計画を知り蜂起。独立を宣言。ラビ・アキバは彼をメシアと認めた。2年半の統治の末ローマ軍に鎮圧され戦死(第二次ユダヤ戦争)。

【アキバ・ベン・ヨセフ】
1C末-2C前、ユダヤ教のラビ(律法学者)。ミシュナー(聖書の註解)を基礎づけたタンナーイーム(賢者)の1人。ローマの圧政に対するメシア待望論の中で彼がバル・コクバを支持したことで全面的な反ローマ蜂起が発生(第二次ユダヤ戦争)。135年敗れて処刑

【ルキウス・ウェルス】
2C後半、ローマ皇帝(位161-69)。五賢帝のマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の共同皇帝で、ともにアントニヌス・ピウス帝の養子。161-66年第六次パルティア戦争を指揮してセレウキア・クテシフォンを一時占領、アルメニアを奪回した。在位8年で死去。

【ガイウス・アウィディウス・カッシウス】
2C後半、ローマの軍人、反乱指導者。五賢帝のマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の治世に出世。第二次パルティア戦争で英雄となる。175年マルクス帝が死去したとの誤報を受けて皇帝即位を宣言。帝国東方を抑えるが自軍の兵士に暗殺された。

【プラウトゥス】
前3C後-前2C前、ローマの劇作家。貴族の保護する文芸サークルに属さず、粉挽の仕事をしながら創作した庶民派。ギリシア新喜劇をローマ風に翻案。エンターテインメント性を重視し言葉遊びを多用した。「うそつき軍人」など滑稽だが憎めないキャラクターを生み出し人気を博した。

【プビリウス・テレンティウス・アフェル】
前2C前、ローマの劇作家。北アフリカ出身の奴隷であったが後に解放され奴隷主の元老院議員の氏族名をもらい受けた。6つの戯曲はいずれもギリシア新喜劇に原作を取り、ラテン語で翻案したもの。格言的名台詞に富み中世・ルネサンス期に盛んに上演された。

【ガイウス・ウァレリウス・カトゥルス】
前1C、ローマの抒情詩人。ギリシア抒情詩の形式を学び、ラテン文学にエレギア詩の分野を確立。特にサッポーを崇拝した。北イタリアの故郷ウェロナを賛美するなど日常の喜怒哀楽を詩を素朴な技巧で表現。レスビアという女性に捧げた恋愛詩が名高い。

【ルクレティウス】
前1C共和政ローマ期の詩人、エピクロス派の哲学者。詩「事物の本性について」を著した。自然や死に対する恐怖が神を生んだとして唯物論的自然哲学と無神論を説いた。15Cポッジョ・ブラッチョリーニがドイツの修道院で同書の写本を発見。ルネサンス思想に大きな影響を与えた。

【ユウェナリス】
1C後-2C前、ローマの風刺詩人。ローマ社会の退廃を痛烈に風刺した。ポピュリズム政治を揶揄した「パンとサーカス」の言葉を残す。「健全な身体には健全な精神が宿る」もローマ市民の過度な欲望を諌めたものだがジョン・ロックによる引用後異なる解釈で使用された。

【ルキアノス】
2C、ローマの風刺作家。ギリシア語で執筆したシリア出身のアッシリア人。聴衆を魅了する演説で帝国各地で人気を博した。「ペレグリーノスの昇天」でキリスト教徒を変人を盲信する愚か者として風刺。「本当の話」は月旅行を扱う荒唐無稽なファンタジーだが史上初のSFされる。

【アプレイウス】
2C、ローマの哲学者、小説家。北アフリカ出身。代表作は「黄金のろば」で、これは完全に現存する唯一のローマ時代の小説。ロバに変身してしまった主人公の冒険物語で、シニカルな人間観察を含む。北アフリカ各地で演説し、主要都市に彼の彫像が立つほど名声を博した

【マルクス・テレンティウス・ウァロ】
前1C、ローマの学者、著述家、政治家。護民官、財務官、法務官などを歴任。ローマ内戦では元老院派を率いるが前48年カエサル派に降伏。諸学に通じた知識人であったが現存する著作は「ラテン語論」「農業論」のみ。病気を引き起こす細菌の存在を指摘。

【ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス】
1Cローマの文人。小プリニウス。大プリニウスの甥で養子。トラヤヌス帝と交わした書簡集が知られ、当時のキリスト教徒に対する処遇を知ることができる。友人タキトゥスの求めに応じてヴェスヴィオ火山の噴火で死んだ伯父の最期を伝える。

【コルメラ】
1C、ローマの文筆家。ヒスパニア出身。主著は「農業論」。耕作、穀物、果樹、畜産、養蜂、養魚、造園、経営論などにわたる実践的で科学的な総合農書。ウェルギリウスの「農耕詩」を理想とし、外国穀物の流入と不在地主制度を嘆き、地主による直接管理によるローマ農業の復活を説いた。

【ガイウス・サッルスティウス・クリスプス】
前1C、ローマの政治家、歴史家。財務官や護民官を歴任。ポプラレス(民衆派)として常にユリウス・カエサルとともに行動した。カエサル暗殺後引退。主著は共和制ローマの腐敗を批判的に描出する「カティリナ戦記」「ユグルタ戦記」。

【アッリアノス】
2C前、五賢帝時代のローマの政治家、歴史家、ストア派の哲学者。ニコメディア出身のギリシア人。執政官、カッパドキア属州総督を歴任。伝説を排した実証主義的な「アレクサンドロス東征記(アナバシス)」と付属の「インド誌」が最も知られる。他に「パルティア史」など。

【カッシウス・ディオ】
2C後-3C前、ローマの政治家、歴史家。元老院議員。アレクサンデル・セウェルス帝に重用され執政官を勤めた。主著は「ローマ史」全80巻。政界引退後22年間かけて建国伝説から同時代までを叙述。部分的に散逸しているが、特に同時代の記述は貴重な史料となった。

【ディオゲネス・ラエルティオス】
3C前、 ローマの哲学史家。ギリシア語の著者「ギリシア哲学者列伝」のみが知られる。古代ギリシア哲学者たちの生涯、学説、著書、逸話などを網羅的に集成。キリスト教の台頭の中で哲学を非ギリシア人(バルバロイ)発祥とする説への反論のために書いたという。

【法学者ガイウス】
2C、ローマの法学者。学生の教科書としてローマの私法体系をまとめた「法学提要」を著した。私法を「人・物・訴訟」の3体系に分類して簡略に記述。本書は5C以降重要視され東ローマ帝国の大帝ユスティニアヌス1世により再編纂され後世の立法に多大な影響を及ぼした。

【ウィトルウィウス】
前1C、ローマの建築家。ガイウス・ユリウス・カエサルやアウグストゥスの部隊に従軍。主著は最古の建築理論書「建築について」でルネサンス建築に多大な影響を与えた。15Cレオナルド・ダ・ヴィンチは同書の人体に関する記述を基に「ウィトルウィウス的人体図」を描いた。

【ペルティナクス】
2C末、ローマ皇帝(位193)。「五皇帝の年」最初の帝位請求者。自由民階層出身の軍人。192年首都長官として近衛兵隊と謀ってコンモドゥス帝を暗殺。年明けに即位。治世は五賢帝のマルクス・アウレリウス・アントニヌスに倣ったが不評で近衛兵隊により暗殺。在位約3ヶ月

【コンモドゥス】
2C後、ローマ皇帝(位180-192)。父は五賢帝のマルクス・アウレリウス・アントニヌス。父の死後18歳で即位。有能であったが187年姉による暗殺未遂以降臣下の粛清を重ねた。闘技場で剣闘士として腕前を披露。192年元老院の皆殺しを計画するが発覚して暗殺。

【ディディウス・ユリアヌス】
2C末、ローマ皇帝(位193)。「五皇帝の年」の二番目の帝位請求者。法務官、各地の属州総督を歴任。ペルティナクス帝暗殺後近衛兵隊が主催した「帝位競売」にて即位。反乱を起こしたセプティミウス・セウェルスに敗れ裏切った近衛兵隊により暗殺。在位約2ヶ月。

【セプティミウス・セウェルス】
2C末-3C初ローマ帝国皇帝(位193-211)。最初の軍人皇帝でセウェルス朝の創始者。カルタゴ出身。193年ディディウス・ユリアヌス帝を失脚させて即位。二人の対立皇帝を撃破。194-98年第七次パルティア戦争で大勝。軍を厚遇して元老院と対立した。

【ユリア・ドムナ】♀
2C後-3C前、ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスの皇后。カラカラ帝、プブリウス・セプティミウス・ゲタ帝の母。シリアの太陽神神官の家系。夫の死後陰の実力者として君臨し遠征にも同行するが2人の息子の不和を解消できず。217年息子カラカラ暗殺後、後追い自殺。

【プブリウス・セプティミウス・ゲタ】
3C前、セウェルス朝のローマ皇帝(位209-11)。セプティミウス・セウェルス帝の子。カラカラ帝の弟で、共同皇帝。兄とは不仲で父帝は宥和を図って兄に続いて彼も副帝につけた。即位後も兄弟は激しく対立し、最期は兄帝の命で暗殺された。在位2年。

【マクリヌス】
3C前、ローマ皇帝(位217-18)。北アフリカの属州マウレタニア出身。法務官僚として活躍。カラカラ帝暗殺後帝位を請求し元老院に承認される。対外的には和平を推進し内政を充実させたため民衆に支持されたが軍は不満を抱く。神官ヘリオガルバスを奉じた反乱の鎮圧中に暗殺。

【ヘリオガバルス】
3C前、ローマ皇帝(位203-22)。セウェルス朝第3代の皇帝。カラカラ帝暗殺後セウェルス家に擁立され、マクリヌス帝を打倒して14歳で即位。美貌の両性愛者で女装を好み、退廃的な性生活と太陽神崇拝が不評で最期は反乱軍により処刑、市民に遺体を凌辱された。享年19。

【アレクサンデル・セウェルス】
3C前、ローマ皇帝(位222-35)。セウェルス朝最後の皇帝。従兄のヘリオガルバス帝の暴政に見切りをつけた祖母ユリア・マエサに擁立され即位。穏健な政治で平和を保ち財政も改善したが対外消極策が軍には不評で反乱軍により暗殺。帝国は軍人皇帝時代に入る。

【マクシミヌス・トラクス】
3C前、ローマ皇帝(位235-238)。最初の軍人皇帝。トラキア出身の異民族で下級軍人だったがアレクサンデル・セウェルス帝暗殺後近衛隊に推挙され即位。ゲルマン人に勝利するが元老院と対立。反乱が続発し近衛隊に裏切られ暗殺。深刻な内戦となる(六皇帝の年)。

【ゴルディアヌス3世】
3C前、軍人皇帝時代のローマ皇帝(位238-44)。ゴルディアヌス1世の孫でゴルディアヌス2世の甥。祖父と伯父の人気により「六皇帝の年」最後の皇帝として13歳で即位。義父の親衛隊長ティメシテウスを頼った。244年サーサーン朝との戦いの最中に死去。享年19。

【ピリップス・アラブス】
3C前、軍人皇帝時代のローマ皇帝(位244-49)。シリア出身だが祖先はアラビア半島出身。親衛隊長であったがゴルディアヌス3世の死後即位。249年反乱を起こしたデキウスに打倒された。キリスト教徒に寛容で後世最初のキリスト教徒の皇帝とされたが確証はない。
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【デキウス】
3C、ローマ皇帝(位249-51)。ホスティリアヌス帝の父。ドナウ戦線でゴート族に勝利し名声を得て軍によって皇帝に推戴され、ピリップス・アラブス帝を打倒して即位。ゴート族とのアブリットゥスの戦いで大敗し息子で副帝のヘレンニウス・エトルスクスとともに湿地帯で戦死した。

【ガッリエヌス】
3C後、軍人皇帝時代のローマ皇帝(位253-68)。ウァレリアヌス帝の子。父と共同で帝位に就くが259年エデッサの戦いで父帝がサーサーン朝に捕縛され単独皇帝に。在位中にガリア帝国とパルミラ王国が自立し帝国は三分。クラウディウス・ゴティクスらのクーデタで殺害。

【クラウディウス・ゴティクス】
3C後、軍人皇帝時代のローマ皇帝(位268-70)。クラウディス2世。ガッリエヌス帝を暗殺して帝位を簒奪。翌年ナイススの戦いでゴート族を撃退(「ゴティクス」の由来)。続いてアラマンニ族も撃退し、ローマ市民によって神格化された。陣中で病死。

【ポストゥムス】
3C後、ローマの軍人皇帝時代の僭称皇帝で、ガリア帝国の初代皇帝(位260-68)。ガリア人の将軍だったがガッリエヌス帝が東方に赴いた隙に自立。イタリア半島を除く西欧を支配し独自の元老院を置いた。最期は部下に暗殺されたが、ガリア帝国は74年まで存続した。

【セプティミウス・オダエナトゥス】
3C、ローマ属州シリアの大都市パルミラの豪族。妻は後のパルミラ王国女王ゼノビア。259年のエデッサの戦いでローマがサーサーン朝に敗北した混乱の最中にガッリエヌス帝を補佐して帝国東方の防衛を任され、事実上支配した。67年親族により暗殺。

【ゼノビア】♀
3Cパルミラ王国の女王。夫のパルミラ王はローマの協力者であった。夫の死後エジプト、小アジアを含む東方属州を次々に占領して自立を図ったが、ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス帝に敗れた。パルミラは破壊されたが、彼女は連行されたローマで余生を送ったという。

【ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス】
3C後、軍人皇帝時代のローマ皇帝(位270-75)。軍によって皇帝に推挙。271年アラマンニ族とゴート族を撃退。72年東方を支配していたパルミラ王国を打倒しゼノビア女王を捕縛。74年ガリア帝国を帰順させ「世界の修復者」と呼ばれた。

【マクシミアヌス】
3C後-4C初、ローマ皇帝(位286-305)。ディオクレティアヌス帝との共同皇帝。西方を担当。ゲルマン人やムーア人と戦う。305年共同皇帝とともに引退するが翌年息子マクセンティウス帝の思惑より復位。10年にも復位するがコンスタンティヌス1世に敗れ獄死。

【コンスタンティウス・クロルス】
4C初、ローマ皇帝(位305-06)。大帝コンスタンティヌス1世の父で、363年まで続くコンスタンティヌス朝の創始者。ディオクレティアヌス帝のテトラルキア(四分統治)により西の副帝となり、後に正帝に昇格。最後は遠征先のブリタニアで死去。

【フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス】
4C初、テトラルキア(四分統治)時代のローマ皇帝(位306-07)。ガレリウス帝の側近で305年西の副帝となったがコンスタンティウス・クロルス帝の死後西の正帝を名乗る。マクセンティウス帝に敗れて降伏し退位。幽閉後まもなく殺害された。

【マクセンティウス】
4C前、テトラルキア(四分統治)時代のローマ皇帝(位306-312)。マクシミアヌス帝の子。コンスタンティヌス帝を警戒するローマ駐在の将校らに推挙され即位。イタリアと北アフリカを支配。最期はミルウィウス橋の戦いでコンスタンティヌス帝に敗れ戦死。

【ガレリウス】
4C前、ローマ皇帝(位305-11)。ダキア人。239年ディオクレティアヌス帝のテトラルキア(四分統治)により東方副帝に任命。298年サーサーン朝に大勝。305年東方正帝となると側近・親族を正副帝位につけ帝国の統一を図るがコンスタンティヌス1世に阻まれ引退。

【マクシミヌス・ダイア】
4C前、テトラルキア(四分統治)時代のローマ皇帝(位308-13)。ガレリウス帝の甥。305年伯父の後押しで副帝となり後に正帝を名乗る。中東を支配してキリスト教徒を迫害。宗教寛容派のコンスタンティヌス1世と結んだリキニウス帝と13年激突したが敗れた。

【リキニウス】
4C前、テトラルキア(四分統治)時代のローマ皇帝(位308-24)。ダキア人。戦友のガレリウス帝の支援で正帝となる。313年コンスタンティヌス1世と結び連名で帝国内の信仰の自由を認める勅令を発布(ミラノ勅令)。324年コンスタンティヌス1世に敗れ翌年処刑。

【コンスタンティヌス2世】
4C前、ローマの共同皇帝(位337-40)。大帝コンスタンティヌス1世の長男。父の死後次兄のコンスタンティウス2世、三弟コンスタンス1世と帝国を三分し、西欧を担当。三弟に北アフリカの割譲を要求するが拒否されイタリア半島に攻め込むが敗れて殺された。

【コンスタンス1世】
4C前、ローマの共同皇帝(位337-50)。大帝コンスタンティヌス1世の三男。長兄コンスタンティヌス2世、次兄コンスタンティウス2世と帝国を三分し帝国中央部を担当。340年侵攻してきた長兄を打倒し西方を領有。50年配下の将軍マグネンティウスにより暗殺。

【マグネンティウス】
4C、ローマの帝位簒奪者(位350-33)。ゲルマン人。西方を担当していた共同皇帝コンスタンス1世配下の将軍であったが皇帝を暗殺して即位。351年ムルサの戦いでコンスタンス1世の兄で東方担当の共同皇帝コンスタンティウス2世に敗れ53年自殺(帝国の再統一)。

【コンスタンティウス2世】
4C、ローマ皇帝(位337-61)。大帝コンスタンティヌス1世の次男。兄コンスタンティヌス2世、弟コンスタンス1世と帝国を三分し東方を担当。353年弟の帝位を簒奪したマグネンティウスを打倒し帝国を再統一。アリウス派を支持しアタナシウス派を弾圧。

【ヨウィアヌス】
4C後、ローマ皇帝(位363-64)。フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス帝のサーサーン朝遠征に従軍したが遠征中に皇帝が戦死したため軍に推挙され即位。退路の安全確保のためシャープール1世に大幅に譲歩して和議を結んで撤退するが途上で死去。在位約1年。

【ウァレンティニアヌス1世】
4C後、ローマ皇帝(位364-75)。392年まで続くウァレンティニアヌス朝の創始者。ヨウィアヌス帝の死後軍に推挙され即位。弟ウァレンスを共同皇帝に据えて自らは西方を担当。ブリテン島と北アフリカで大反乱が発生したが大テオドシウスを派遣して鎮圧。

【ウァレンス】
4C後、ウァレンティニアヌス朝のローマ皇帝(位364-78)。兄帝ウァレンティニアヌス1世と共同統治。東方を担当。365-66年プロコピウスの反乱を鎮圧。76年ゴート族に移住を許可するが合意内容が破綻し戦争となる。78年ハドリアノポリスの戦いで大敗し戦死。

【グラティアヌス】
4C後、ローマ皇帝(位375-83)。父はウァレンティニアヌス1世、弟は共同皇帝ウァレンティニアヌス2世。父帝の死後16歳で即位。375年大テオドシウスを処刑。78年テオドシウス1世を東方の皇帝に指名。アンブロジウスの影響でキリスト教を熱心に信仰し異教を排斥。

【エウゲニウス】
4C末、ローマの帝位簒奪者。392年ウァレンティニアヌス2世の死後フランク人の将軍アルボガストに擁立された。異教に寛容で元老院を含む非キリスト教勢力の支持を受けたが、94年フリギドゥスの戦いでキリスト教国教化を推進するテオドシウス1世に敗れ異教は徹底弾圧された。

【ユスティノス】
2C、サマリア出身のキリスト教神学者。ギリシア教父の1人。当時盛んだったグノーシス主義を異端として批判し、皇帝と元老院に対して教会を擁護した。一方で初めてギリシア思想とキリスト教思想の融合を図りキリスト教を唯一の真理ととらえ、イエスを「ロゴス」と呼んだ。

【アレクサンドリアのクレメンス】
2C、アテナイ出身、アレクサンドリアで活躍したキリスト教の神学者。ギリシア教父の1人で、アレクサンドリア学派の代表。哲学をキリスト教神学と結びつけた先駆者の1人。ギリシア哲学の理想であるロゴスをキリストと同一視した(ロゴス・キリスト論)。

【ウァレンティノス】
2C、ローマのグノーシス主義の神秘思想家。アレクサンドリアで学びローマ市で活動。アイオーンという男女一対の抽象的な神々を崇拝しその複雑な神話をキリストに結びつけた。多数の弟子が各地で伝道を行いキリスト教会の脅威となり懸命な反駁が行われる中で神学が発展した。

【バシレイデース】
2C前、ローマのグノーシス主義の神秘思想家。アレクサンドリアで活動。キリスト教の教父エイレナイオスの「異端反駁」に彼の思想が紹介されている。天の神アブラクサスを崇拝するバシレイデース派を興した。カール・グスタフ・ユングは彼の神秘思想に多大な影響を受けた。

【タティアノス】
2C、ローマのキリスト教神学者。シリア出身。ユスティノスの弟子。「ギリシア人への言葉」でヘレニズムを批判しキリスト教を擁護。シリア語で四福音書の合体通読書「ディアテッサロン」を編纂し布教。厳格な純潔・禁欲主義セクトを興し教会からグノーシス主義に近い異端とされた。

【モンタノス】
2C、ローマのキリスト教聖職者。小アジアのフリギュアで活動。同地土着の大地母神キュベレーと去勢神アッティスの崇拝者だったがキリストの再臨を確信して改宗。2人の巫女を立てて禁欲主義セクトを興した。教会はすぐに異端認定したがモンタノス派は帝国各地に広がり8Cまで存続。

【マルキオン】
2C、ローマのキリスト教神学者。黒海沿岸のシノペ出身。ローマ市で活動するが教会に異端とされ独自の教団を創設した。イエスの人性を完全に否定するキリスト仮現説を主張。「旧約聖書」の神を否定し聖典を限定。これに対抗して教会でも聖典編纂が進んだ(「新約聖書」の成立)。

【テルトゥリアヌス】
2C前-3C前、カルタゴ出身のキリスト教神学者。最初のラテン教父。当時既に異端とされたモンタノス派に属したのち、自身の宗派を確立し異端を攻撃。哲学的素養を背景に理性や合理主義を超越する信仰を説く。「三位一体」など多くのラテン語のキリスト教用語を創出した。

【プロティノス】
3C、エジプト出身、アレクサンドリアとローマで活躍した哲学者。ネオプラトニズム(新プラトン主義)の創始者。「一者」(神)への愛(エロース)によって忘我(エクスタシス)に至ることを説きキリスト教神学に大きな影響を与えたが、彼自身はキリスト教を批判していた。

【ケルソス】
2C、ローマの哲学者。主著「真理の言葉」でキリスト教を徹底的に批判した。同書は現存しないが3Cに神学者のオリゲネスがこれに反論した「ケルソス駁論」に引用が残る。ヘレニズムの理性優位の立場からキリスト教のはらむ矛盾を指摘し無知な民衆を騙して社会秩序を乱しているとした。

【オリゲネス】
3C、アレクサンドリア出身のキリスト教神学者。裕福なキリスト教徒の家庭に生まれたが迫害で父が殉教。新プラトン主義を学んでキリスト教学校を開設しアレクサンドリア学派を開いた。249年デキウス帝の迫害で殉教。死後300年を経た6Cに異端宣告され著作は焚書にあった。

【大アントニオス】
3C-4Cエジプトのキリスト教修道士。「砂漠の聖者」。テーベのパウロの弟子。砂漠に籠って苦行生活を送り、初めてキリスト教の修道院を開いて弟子と共同生活を送った。様々な怪物の姿をした悪魔の攻撃に耐えた伝承は美術の題材として多くの芸術家に描かれた。動物の守護聖人。

【アンブロジウス】
4Cローマ帝国の司教。西方四大教会博士の一人。374年に民衆の要求でミラノ司教になるまでは、キリスト教徒ではなかった。アリウス派を駆逐して正統信仰の擁護に尽力。テオドシウス帝によるキリスト教の国教化に大きな影響を与えた。アウグスティヌスの回心にも影響を与えた。

【パトリキウス】
4C-5Cカトリックの司教。聖パトリック。ウェールズ出身。海賊によってアイルランドに拉致され奴隷となるが脱走して帰国。これを天命と考えローマ教皇ケレスティヌス1世の命を受けアイルランドに戻り布教を行い12万人を改宗させた。シャムロックを三位一体の象徴に用いた。

【モプスエスティアのテオドロス】
3C末-4C前、東ローマ帝国のキリスト教神学者。アンティオキア学派。キリストの人性と神性の並存を主張し単性論のアレクサンドリアのキュリロスと対立。431年エフィソス公会議で弟子のネストリウスとともに非難され死後6Cにも著作が異端とされた。

【アレクサンドリアのテオフィロス】
4C後-5C前、ローマのキリスト教聖職者。アレクサンドリア総主教。甥はアレクサンドリアのキュリロス。テオドシウス帝の意向を背に異教勢力を執拗に迫害。その拠点だったセラピス神殿をはじめアレクサンドリアの全神殿を当局に破壊させ一部を教会に転用した。

【アレクサンドリアのキュリロス】
5C前、東ローマ帝国のキリスト教聖職者。アレクサンドリア総主教。修道僧を用いて異教勢力やユダヤ教徒を迫害。哲学者ヒュパティアの殺害を扇動。キリスト単性論を主張しコンスタンティノープル総主教ネストリウスと論争し431年エフィソス公会議で罷免される。

【登塔者シメオン】
5C、東ローマ帝国のキリスト教修道士。小アジアのキリキア出身。アンティオキアやアレッポで活動した。20m近い石柱の上で生活する苦行を行いテオドシウス2世以下聖俗多くの人々の崇敬を集めた。最後の36年を過ごした石柱は聖シメオン教会となり著名な巡礼地となった。

【ヒュパティア】♀
5C前、東ローマ帝国の天文学者、数学者、新プラトン主義の哲学者。アレクサンドリアで活動。父はアレクサンドリアのテオン。アストロラーベの発明者とも。上層市民に影響力があり盲信を戒めた彼女はキリスト教徒に敵視されアレクサンドリア総主教キュリロスの扇動で虐殺された。

【クイントゥス・アウレリアス・シンマクス】
4C後-5C初、ローマの元老院議員。帝国のキリスト教化に抵抗しローマ古来の神々の信仰を守ろうとした「異教勢力」の代表。ミラノ司教アンブロシウスと敵対。雄弁で知られ元老院議事堂のヴィクトリア女神祭壇撤去撤回要求運動の際の名演説は名高い。

【アルカディウス】
4C後-5C初、東ローマ皇帝(位383-408)。父はテオドシウス1世、弟は西ローマ皇帝ホノリウス。父帝の遺言で弟と帝国を分割統治したが、二度と再統一されることはなく結果的に東ローマ帝国の初代皇帝となった。コンスタンディヌーポリ大主教の金口イオアンを追放。

【ホノリウス】
4C末-5C前、西ローマ帝国最初の皇帝(位395-423)。10歳の時に父テオドシウス1世の遺言により兄アルカディウスと帝国を東西に分割。402年西ゴート族が侵入するとラヴェンナへ遷都。410年のローマ略奪にも対処できず、多くの属州をゲルマン人に奪われた。

【スティリコ】
4C-5C初、西ローマ帝国の軍人。父はヴァンダル族、母はローマ人。テオドシウス1世の下でローマ軍総司令官まで出世。少年だった西の皇帝ホノリウスの後見人となる。アラリック1世率いる西ゴート族やヴァンダル族と戦ったがホノリウスとの関係が悪化し408年処刑された。

【クラウディアヌス】
4C末-5C初、西ローマ帝国の詩人。アレクサンドリア出身のギリシア人だがラテン語で詩作した。スティリコ将軍に宮廷詩人兼秘書官として迎えられ将軍を称賛する頌詩、敵国や政敵に対する誹謗詩、愛国的な戦争叙事詩などを残した。作成した公文書は政治史解明の史料となった。

【ガッラ・プラキディア】
4C末-5Cローマの皇女。父はテオドシウス1世。ホノリウス帝は異母兄。409年頃西ゴートの捕虜となる。414年西ゴート王アタウルフと結婚。翌年夫が死に、ローマに帰還。再婚し産んだ子がウァレンティニアヌス3世。ラヴェンナにある彼女の廟堂は名高い。

【ウァレンティニアヌス3世】
5C、第4代西ローマ皇帝(位424-55)。母はガッラ・プラキディア。6歳で即位。治世前半は母が、後半は将軍アエティウスが実権を握ったがフン族、西ゴート、ヴァンダル族により帝国は解体。454年奮戦していたアエティウスを暗殺すると翌年自らも暗殺された。

【アエティウス】
5C、西ローマ帝国末期の将軍。ウァレンティニアヌス3世と母后ガッラ・プラキディアを補佐し実権を握った。フン族の大王アッティラと友好関係にあったが451年侵入したアッティラを西ゴート王国と同盟して撃破(カタラウムの戦い)。54年彼を危ぶんだ皇帝により暗殺された。

【シドニウス・アポリナリス】
5C後、西ローマ帝国末期の元老院議員、司教、詩人。アウィトゥス帝の娘婿。西ゴートとの外交を担った。書簡集と歴代皇帝に対する頌詩はラテン文学の最後の秀作とされる。ウァレンティニアヌス3世がアエティウスを殺害した際「ご自身の右手を切り落とした」と嘆いた。

【ペトロニウス・マクシムス】
5C後、西ローマ皇帝(位455)。有力貴族として台頭。将軍アエティウスと皇帝ウァレンティニアヌス3世を謀略によって相次いで暗殺させ即位。動機は皇帝に妻を犯された復讐だという。ヴァンダル王国の侵攻を招き、怒ったローマ市民に殺された。在位約2ヶ月半。

【アウィトゥス】
5C後、西ローマ皇帝(位455-56)。ガリア系貴族出身の元老院議員で文武両官のエリートコースを歩み、451年カタラウヌムの戦いに際しては西ゴート王国との同盟をまとめる。西ゴート王国の後ろ盾で帝位につくが1年たらずでライバルのリキメル将軍に打倒され退位。

【リキメル】
5C、西ローマ帝国末期に実権を握ったゲルマン人の将軍。周辺民族との戦いに活躍。456年アウィトゥス帝を打倒。マヨリアヌス帝、リウィウス・セウェルス帝を順次傀儡皇帝に擁立しては打倒した。65年に東ローマ皇帝から送り込まれたアンテミウス帝をも72年打倒するが直後に死去。

【マヨリアヌス】
5C後、西ローマ皇帝(位457-61)。アエティウスに登用された軍人出身。アウィトゥス帝の暗殺後、将軍リキメルに擁立され即位。内政面で改革を断行。西ゴート王国の侵入を撃退。61年ガイセリックのヴァンダル王国に敗れ北アフリカ支配を承認。最期は軍の反乱で暗殺される。

【リウィウス・セウェルス】
5C後、西ローマ皇帝(位461-65)。即位前は目立った実績のない元老院議員だったが、マヨリアヌス帝を暗殺して帝国の実権を握ったリキメル将軍に傀儡として擁立される。東ローマ帝国のレオ1世は彼を承認せず。その支配はイタリア半島に限られた。

【アンテミウス】
5C後、西ローマ皇帝(位467-72)。軍人出身。東ローマ皇帝レオ1世の指名により即位。468年東帝国と共同でガイセリック率いるヴァンダル王国を攻めるがボン岬の戦いで大敗。70年西ゴート王国にも敗れる。最期はゲルマン人の将軍リキメルと対立し敗れて殺された。

【ユリウス・ネポス】
5C後、西ローマ皇帝(位474-75)。東ローマ皇帝レオ1世の支持を得て挙兵しグリケリウス帝を打倒し帝位を奪う。ゲルマン人の将軍フラウィウス・オレステスに敗れるがアドリア海東岸のダルマチアに逃れて戦いを続けた。76年以降はオドアケルと対峙するが80年暗殺。

【フラウィウス・オレステス】
5C、西ローマ帝国の将軍。最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスの父。当初はフン族のアッティラの重臣。475年ユリウス・ネポス帝に将軍に任命されるが反乱を起こし皇帝を追放、息子を帝位につける。76年傭兵隊長オドアケルに打倒された(西ローマ帝国滅亡)。

【ロムルス・アウグストゥルス】
5C最後の西ローマ皇帝(位475-476)。ゲルマン人将軍であった父フラウィウス・オレステスに擁立されるが、父を打倒したゲルマン人将軍オドアケルによって廃位。オドアケルは皇帝位を東ローマ皇帝に返上した(西ローマ帝国滅亡)。南イタリアで余生を送った。

【シアグリウス】
5C後、ガリア北部のローマ人支配地域ソワソン管区の指導者(任464-86)。476年の西ローマ帝国滅亡後も体制を維持。ダルマチアに亡命したユリウス・ネポス帝を支持。86年ソワソンの戦いでフランク王国のクロヴィス1世に敗れ滅亡。西ゴートに逃れるが引き渡され処刑。

【東ローマ皇帝レオ1世】
5C後、東ローマ皇帝(位457-74)。トラキア人の軍人出身。518年まで続くレオ朝の創始者。即位当初はゲルマン人将軍アスパルの傀儡だったが後のゼノン帝の力を借りてこれを打倒。度々西ローマ帝国に干渉しアンテミウス、ユリウス・ネポスらを帝位につけた。

【東ローマ皇帝ゼノン】
5C、東ローマ帝国の皇帝(位474-91)。小アジアの山岳民族イサウリア人。レオ朝。レオ1世に仕え姻戚関係を結んで後継者となる。476年西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルから帝位を献上される。88年東ゴート王国のテオドリック大王にオドアケル討伐を命じる。

【アナスタシウス1世】
5C末-6C前、東ローマ皇帝(位491-518)。60代で即位。トロス山脈の山岳民族イサウリア人の反乱を鎮圧。ブルガール人の侵攻を撃退。営業税を廃止して商業を振興し破綻寸前だった財政を再建。単性論に共鳴しローマ教皇と対立。東西教会分裂の契機となった。

【ユスティヌス1世】
6C前、東ローマ皇帝(位518-27)。602年まで続くユスティニアヌス朝の創始者。大帝ユスティニアヌス1世の伯父で養父。元老院に推挙され58歳で即位。貧農出身の武将で教養に乏しく、甥の補佐を受けた。治世中サーサーン朝の侵攻やアンティオキアの大地震があった。

【ローマ教皇ホルミスダス】
6C前、ローマ教皇(位514-23)。484年以来の東西教会分裂(アカキウスの分裂)解消に尽力。519年東ローマ帝国で単性論よりだった皇帝アナスタシウス1世が死去しユスティヌス1世が即位すると甥のユスティニアヌス(後の大帝)と交渉し分裂を解消した。

【東ローマ皇后テオドラ】♀
6C、東ローマ大帝ユスティニアヌス1世の皇后。サーカスの踊り子出身。525年即位前の夫と結婚。532年ニカの乱に際して逃亡を検討する夫と廷臣を鼓舞して鎮圧させるなど、女傑として夫を支えた。ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂のモザイク画の肖像が名高い。

【ベリサリウス】
6C、東ローマ帝国の将軍。大帝ユスティニアヌス1世に仕え地中海再統一に貢献した名将。533-34年ヴァンダル王国を滅ぼす。35-40年東ゴート王国征服戦争を指揮。40年サーサーン朝の侵入を撃退。59年ブルガール人を撃退。名声が上がりすぎたため皇帝に冷遇された。

【ナルセス】
6C、東ローマ帝国の官僚、軍人。宦官。アルメニア出身。大帝ユスティニアヌス1世に仕える。財務を取り仕切った文官だったが、552年ベリサリウス将軍に代わって東ゴート王国征服戦争に派遣されると工兵隊と弓兵隊を駆使した戦術で勝利を重ね53年王国を滅ぼしイタリアを征服した。

【プロコピオス】
6C、ユスティニアヌス帝時代の東ローマ帝国の歴史家。ベリサリウス将軍の秘書官としてサーサーン朝、ヴァンダル王国、東ゴート王国との戦争に従軍。それらの記録を残し「戦史」全8巻にまとめ、皇帝を賞賛した。「秘史」には皇帝や将軍の醜聞を書いたため生前は非公開にした。

【トリボニアヌス】
6C前、東ローマ帝国の法学者。大帝ユスティニアヌス1世に法務長官として仕えた。雑多なローマ法の整理、法典化を命じられ10人の専門家で編纂委員会を組織して529年「旧勅法彙纂」を完成させた。「学説彙纂」「法学提要」などを合わせ「ローマ法大全」を成す。

【トラレスのアンテミオス】
6C前、東ローマ帝国の数学者、建築家。小アジアのトラレス出身。大帝ユスティニアヌス1世の命でミレトスのイシドロスとともにハギア・ソフィア大聖堂の再建の設計を担う。幾何学の知見を生かした緻密な設計で高さ41.5mの巨大ドームを建設。537年献堂。

【ユスティヌス2世】
6C後、東ローマ皇帝(位565-78)。大帝ユスティニアヌス1世の甥。伯父に嗣子がなかったためその死後即位。欧州の領土はほとんど防衛せず572年サーサーン朝と開戦するがホスロー1世に敗れ、その後精神に異常をきたす。友人で娘婿のティベリウス2世を後継者とする。

【マウリキウス】
6C後-7C初、東ローマ皇帝(位582-602)。ユスティニアヌス王朝の最後の皇帝。サーサーン朝のホスロー2世と姻戚関係を結ぶ。軍隊を冷遇したため不満がたまりフォカスによるクーデタで打倒された。12Cのニザーミーの叙事詩「ホスローとシーリーン」に脇役で登場する。

【フォカス】
7C初、東ローマ皇帝(位602-10)。軍人出身。マルキリウス帝に対する反乱軍に推戴され即位。民衆からは暴君とみなされサーカス党派(一種のフーリガン)による反乱が続発。サーサーン朝のホスロー2世と抗争。608年カルタゴ総督ヘラクレイオスの反乱で打倒された。

【コスマス・インディコプレウステース】
6C、東ローマ帝国領のエジプトで活躍した地理学者、キリスト教の修道士。青年時代に商人としてインド洋貿易に従事。シナイ半島に修道院に入りそこで「キリスト教地誌」を著す。各地の地誌をキリスト教の布教状況ととも詳述。地球球体説を異端として否定。

【ガイセリック】
5C、ヴァンダル族の王(位428-77)。サルマタイ系のアラン族を含む8万人を率いて428年ヒスパニアからアフリカに移住。ヴァンダル王国を建国しカルタゴを首都とした。海軍を増強してシチリアなど地中海の主要な島々を領有し海賊行為を行う。55年ローマを略奪。

【ゲリメル】
6C前、ヴァンダル王国最後の王(位530-34)。クーデタを起こして東ローマ帝国と親しかった前王を打倒し大帝ユスティニアヌス1世による征服戦争を招いた。533年アド・デキムムの戦い、トリカマルムの戦いでベリサリウス将軍に相次いで敗れ降伏。東ローマ帝国で余生を送った。

【カッシオドルス】
6C、東ゴート王国の宰相、歴史家、修道士。ローマ人。テオドリック大王とアタラリック王に仕え、国王政府とローマ人の融和に尽力。東ローマ帝国による征服のさなかの540年頃南イタリアに図書館を併設したウィウァリウム修道院を建立。主著は「ゴート史」「世界史」など。

【ウィティギス】
6C前、東ゴート王国の王(位536-40)。東ローマ帝国による侵攻のさなか将軍たちに推挙され即位。536年敵将ベリサリウスにローマを奪われ、その後も不利な戦況を強いられる。サーサーン朝と交渉して東ローマ帝国挟撃を画策するが結局40年ラヴェンナを明け渡して降伏。

【トーティラ】
6C、東ゴート王国の王(位541-52)。ゴート戦争を引き継ぎ、東ローマ帝国の将軍ベリサリウスと戦う。546年ローマを長期の包囲の末占領し略奪。52年東ローマ軍を引き継いだ宦官ナルセスに敗れ戦死。翌年王国は滅亡、戦火で荒廃したイタリア半島は東ローマ帝国領に。

【ウルフィラ】
4C、西ゴート族の司教。カッパドキア出身。アリウス派。アンティオキアで学ぶ。アリウス派のコンスタンティウス2世の支援でドナウ川沿岸のダキア、モエシアに居住していたゴート族に布教。ギリシア文字とルーン文字を基に27文字のゴート文字を考案。聖書のゴート語翻訳を行った。

【アタウルフ】
5C前、西ゴート族の王(位410-15)。前王アラリック1世の義弟。ローマ略奪後に跡を継ぎ南ガリアに移動後ローマ皇帝ホノリウスと交渉して同地に定住を認められ、西ゴート王国の基礎を築く。414年人質としていた皇妹ガッラ・プラキディアと結婚。最期は暗殺された。

【エウリック】
5C後、西ゴート王国の王(位466-84)。475年頃、ゲルマン法をラテン語で著し初めて成文化した(エウリック法典)。ゲルマン人にのみ適用される属人法。76年西ローマ帝国が滅亡すると混乱に乗じてフランス中部を獲得。ヴァンダル族が去ったイベリア半島への入植を推進。

【レカレド1世】
6C後-7C初、西ゴート王国の王(位586-601)。妻はメロヴィング朝フランク王国の王女。その影響で587年アリウス派からカトリックに改宗。アリウス派の反乱を鎮圧し焚書を含む弾圧を加えた。89年第3回トレド教会会議を招集。フランク王国との同盟を試みるが失敗。

【イシドールス】
6C後-7C前、西ゴート王国の神学者、歴史家。最後のラテン教父。ゴート族のアリウス派からの改宗を進め、王国のカトリック化に貢献。レカレド王の下主催した宗教会議は代議制の先駆とも。主著は中世最初の百科事典「語源」。地球球体説論者。インターネットユーザーの守護聖人。

【クロタール1世】
6C、メロヴィング朝フランク王国の王(位558-61)。父は建国者クロヴィス1世。511年父王が死ぬと王国を3人の兄と分割するが、558年までに順次併合し王国を再統一した。晩年対立した息子のクラムを焼殺した自責の念に苛まれて死去した。死後王国はまたも分裂。

【トゥールのグレゴリウス】
6C、メロヴィング朝フランク王国の聖職者、歴史家。旧ローマ貴族出身。主著は主に同時代のフランク王国の内情を綴る「歴史十巻」(「フランク史」)。他に20人の聖人の伝記「師父の生涯」。いずれも史料の少ない当時を知る重要文献。口語の俗ラテン語で著述した。

【ディオドトス1世】
前3C前、中央アジアのヘレニズム国家グレコ・バクトリア王国の初代王(位:前256-40)。セレウコス朝のサトラップとしてバクトリアの統治を任されたがやがて自立して建国。支配層は東方遠征の残留ギリシア兵。同時期にパルティアを建国したアルサケス1世と抗争。

【アルサケス1世】
前3Cアルサケス朝パルティアの創始者。イラン系遊牧民の族長であったが、バクトリアに続いてセレウコス朝に反乱をおこし、サトラップのアンドラゴラスを打倒した。セレウコス2世の遠征を退けて自立。独自の通貨を発行し、要塞を築いて450年以上存続する国家の基盤を成した。

【ミトラダテス2世】
前2C後-前1C前、パルティアの最盛期の王(位:前124-88)。東西交易で繁栄。セレウコス朝からメソポタミアを奪い、アルメニアを影響下に置いた。前92年ローマと初めて国交を結びルキウス・コルネリウス・スッラと合意して国境を確定。サカ族の定住を推進。

【スレナス】
前1C前、パルティアの将軍。スーレーン氏族出身の大貴族。オロデス2世に仕えた。前54年軍功を求めて侵入したクラッスス将軍率いる5万人のローマ軍をシリア砂漠で迎撃しパルティアンショット戦法で全滅させた(カルラエの戦い)。叙事詩「シャー・ナーメ」の英雄ロスタムのモデル。

【ヴォロガセス1世】
1C後、パルティアの王(位51-78)。54年弟をアルメニア王位につけローマと衝突(第四次パルティア戦争)。63年弟をローマに派遣しネロ帝と和睦。50年の友好関係を実現する。異民族の侵入には苦戦した。文化的にはヘレニズムからイラン的伝統への転換を進めた。

【カルティール】
3C、サーサーン朝ペルシアのゾロアスター教祭司。シャープール1世に信任されその死後も王朝の宗教政策を主導した。ズルワーン主義を異端として弾圧。マニ教の開祖マギを敵視しその処刑に関与。ユダヤ教、キリスト教、仏教なども弾圧。偶像破壊として多くの建造物を破壊した。

【バハラーム2世】
3C後、サーサーン朝の第5代の王(位276-93)。父はバハラーム1世、叔父はアルメニア王ナルセ(後のナルセ1世)。少年時に即位。西方ではローマに攻め込まれて劣勢に立たされ、東方では弟がサカ、クシャーン、ギーラーンの諸民族を糾合して反乱を起こした。

【ナルセ1世】
3C末-4C初、サーサーン朝ペルシアの王(位293-302)。父はシャープール1世。2人の兄も王位についた。アルメニア王として実績を作りクーデタでサーサーン朝の王位を奪う。ローマと抗争するが297年アルメニアを奪われ講和。生前に息子に譲位。宗教的寛容を貫く。

【シャープール2世】
4C、サーサーン朝の王(位309-79)。父はホルミズド2世。母はユダヤ人とも。大貴族たちの意向で出生前に即位。シルクロードを支配して利益を独占。ローマと長期間抗争しメソポタミアとアルメニアを支配。ゾロアスター教の聖典アヴェスタ確立に努め、異教は弾圧した。

【ヤズデギルド1世】
4C末-5C初、サーサーン朝ペルシアの王(位399-420)。409年東ローマ帝国と講和。キリスト教に寛容で410年セレウキアでの公会議も支援したのでキリスト教に改宗したのではと噂された。治世後半にはキリスト教徒がゾロアスター教徒を迫害する事件が頻発。

【マッカリ・ゴーサーラ】
前5C頃、北インドの思想家。仏教は彼を六師外道の1人とする。アージーヴィカ教団を率いて一大教勢を成した。徹底的な宿命論者で縁起や解脱を否定。出家者は清貧と苦行を励行し宿命を占って托鉢を行った。ジャイナ教のマハーヴィーラと論争。釈迦は彼を危険視し批判した。

【耶輸陀羅】♀
釈迦の太子時代の妃で、弟子。ヤショーダラー。羅睺羅の母。インド随一の美女と言われた。夫の出家後も夫を想い続け、夫の帰郷後は出家を望んだ。多数の女性とともに願い出、阿難の説得によって出家が認められた。教団では比丘尼の指導者。自己反省を励行して具慚愧第一と呼ばれた。
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【優波離】
釈迦の十大弟子の1人。ウパーリ。シュードラ出身。カピラ城で釈迦族王族の理髪師をしていたが帰国した釈迦の髪を剃ったことがきっかけで阿那律、阿難らとともに出家。教団では長老として慕われた。戒律に通じて持律第一と呼ばれ、釈迦入滅後は三宝のうち「律」の編纂に活躍。

【阿難】
釈迦の十大弟子の一人。アーナンダ。釈迦族の王族で提婆達多の弟。兄や阿那律らと出家。釈迦の身辺に仕えて教説をよく記憶し仏滅後の仏典結集に貢献、多聞第一と呼ばれた。釈迦を説得して女性の出家の道を開く。仏滅時には涅槃に至っておらず慟哭した。禅宗とチベット仏教で特に崇敬される。

【舎利弗】
釈迦の十大弟子の一人。シャーリプトラ。智慧第一。マガダ国のバラモン出身。目連とともに懐疑論を学んでいたが阿説示と出会い釈迦に弟子入り。すぐに悟りを得た。教団で中心的存在となり祇園精舎の建設を指揮。釈迦入滅前に病没。「般若心経」「阿弥陀経」における聞き役として知られる。

【提婆達多】
釈迦の弟子でのちに違背した僧。デーヴァダッタ。釈迦族の王族出身。他の王族とともに出家したが釈迦に「五事の戒律」を提案して却下され分派して新教団をつくり釈迦と対立した。仏典では極悪人とされるが彼の教団は長らく存続し5Cの法顕はネパールで彼を尊崇する教団に出会っている。

【大迦葉】
釈迦の十大弟子の1人。摩訶迦葉。マハーカッサパ。仏教第2祖。バラモンとして修行中に釈迦に出会い弟子となる。釈迦の入滅後後継者として教団を指導。教義の対立を危惧し王舎城郊外に五百羅漢を集めて経と律の編集を行った(第1回仏典結集)。出家前に別れた妻との純愛説話も知られる。

【アンバパーリー】♀
釈迦の弟子。高級遊女として商業都市毘舎離のアイドル的存在となり王にも求婚されたという。釈迦に帰依しマンゴー樹園を僧団に寄進した(菴羅樹園精舎)。先に出家した息子に説かれて自らも出家し比丘尼となった。彼女の美貌に心を奪われた僧達を戒める阿難の偈が伝わる。

【ビンビサーラ】
前6C頃、マガダ国の王。頻婆娑羅。ベンガル地方のアンガ国を征服するなど領土を拡張。政治的思惑から釈迦の出家を止めようとする。後に釈迦の説法を聞いて仏教に帰依。首都王舎城に竹林精舎を建設して寄進。「観無量寿経」では子のアジャータシャトルに怨まれ幽閉され餓死する。

【アジャータシャトル】
前5C初頃、マガダ国の王。阿闍世。父はビンビサーラ。「観無量寿経」では提婆達多に唆されて父王を幽閉して餓死させ王位を奪う。後に釈迦の説法を聞いて仏教に帰依し教団を支援。釈迦入滅後舎利塔を建立して供養した。外征ではコーサラ国やヴァイシャーリー国を服属させた。

【ジーヴァカ】
釈迦と同時代のマガダ国の医者。耆婆。王舎城で活動しアジャータシャトル王に仕えた。仏教に深く帰依しカーストを問わず治療する病院を設立(耆婆園)。父王ビンビサーラを餓死させた罪悪感に苛まれる王に対し釈迦に会いに行くよう勧めた。タイでは古式マッサージの創始者とされる。

【マハーパドマ】
前4C、マガダ国のナンダ朝の初代王。強大な軍事力と財力でガンジス川流域に大帝国を築いた。不明点が多いが彼がクシャトリアを一掃して旧来の身分秩序を崩し、革新的な思想家や宗教家を保護したのでヒンドゥー系の文献にはシュードラ出身の悪魔のような王として書かれる。

【カウティリヤ】
前4C後-前3C前、マガダ国マウリヤ朝の宰相、軍師。「インドのマキャベリ」。初代王チャンドラグプタと第2代ビンドゥサーラ仕え、建国に貢献した。帝王学の書「実利論」を著す。理想論でない冷酷な政治論の他、法律、経済、建築、軍事、産業など多分野に渡る総合政策書。

【メガステネス】
前4C後-前3C前、セレウコス朝の外交官。イオニア出身のギリシア人。前304年頃、セレウコス1世とチャンドラグプタの和議により大使としてマウリヤ朝の首都パータリプトラへ赴任。10年間の滞在を経て帰国し「インド誌」を著す。本は散逸したが西方世界のインド理解に寄与。

【ビンドゥサーラ】
前3C前、マウリヤ朝の王(位:前293-68)。頻頭娑羅。父は建国者チャンドラグプタ、子はアショーカ王。カウティリヤの補佐を受け父王の死後発生した反乱を鎮圧し領土を拡大した。ディアドゴイとも交流があり、アミトロカテス王として知られた。アージーヴィカ教を保護。

【モッガリプッタ・ティッサ】
前3C頃、マウリヤ朝の仏僧。目犍連帝須。アショーカ王と王子マヒンダの師。王都パータリプトラに1000人の高僧を集めて第3回仏典結集を主導。このとき部派仏教の中で大衆部などが異端として斥けられた。結集で確認された正説を広めるため各地に伝道僧を派遣。

【マヒンダ】
前3C頃、マウリヤ朝出身の伝道僧。アショーカ王の子。第3回仏典結集の後4人の僧を伴ってスリランカに渡り同地のシンハラ人の王に寄進を受けマハービハーラ(大寺)を設立。妹サンガーミッターも比丘尼として協力し同地の仏教(赤銅鍱部)ひいては南伝仏教の基礎を築いた。

【プシャミトラ】
前2C、インド東部のシュンガ朝の初代王(位:前180頃-44頃)。マウリヤ朝の軍人であったがインド・グリーク朝との戦いで出世。閲兵式で王を殺してマウリヤ朝を滅ぼし即位。仏教保護をやめバラモン教を復興したため、仏典では僧を大虐殺した仏教の大弾圧者とされる。

【バクトリア王デメトリオス1世】
前2C前頃、中央アジアのヘレニズム国家グレコ・バクトリア王国の最盛期の王。ヒンドゥークシュ山脈を越えて北西インドを侵略。インド・グリーク朝成立の端緒を開く。象の兜をかぶった肖像とギリシア文字・カローシュティー文字の銘文が彫られた鋳造貨幣が名高い。

【メナンドロス1世】
前2C、インド・グリーク朝の王(位:前155-30)。ミリンダ王。アフガニスタン・北西インド一帯を支配したギリシア人王。彼の鋳造貨幣は世界的に流通した。仏典「ミリンダ王の問い」には彼と高僧ナーガセーナの哲学的な問答が記されている。仏教に帰依したかは不明。

【パーニニ】
前4C頃、インドのサンスクリット文法学者。ガンダーラ出身。「アシュターディヤーイー」に古典サンスクリット語の複雑な形態論を3959個の規則(スートラ)にまとめた。フェルディナン・ド・ソシュールやノーム・チョムスキーら近現代言語学に多大な影響を与えた。

【文法学者パタンジャリ】
前2C、インドのサンスクリット文法学者。パーニニの簡潔で難解な文法書「アシュターディヤーイー」の注釈書「マハーバーシヤ」を編纂。パーニニの誤りを指摘したカーティヤーヤナの「バールティカ」に反論。これによりサンスクリット文法学(ヴィヤーカラナ)は大成した

【クジュラ・カドフィセス】
前1C後-1C前、クシャーナ朝の初代王(位:前25頃-60頃)。大月氏の諸侯だったがアフガニスタンのギリシア人王と同盟して自立。ゴンドファルネス王の死後弱体化したインド・パルティア王国からガンダーラ地方を奪う。表に仏陀、裏にゼウスが描かれた貨幣を鋳造。

【ヴィマ・カドフィセス】
1C末-2C前、クシャーナ朝の王(位90頃-144頃)。カニシカ1世の父。北西インドの征服を進めた。横顔が彫られた鋳造貨幣と高さ2mの彫像が名高い。1993年ラバータク碑文の発見によってカニシカ1世との血縁関係が実証され王朝交代説は覆された。

【ゴンドファルネス】
1C頃、北西インドのインド・パルティア王国の建国者。パルティアの有力貴族出身。治世の混乱に乗じてパルティアの東方に勢力を拡大しスキタイ系のサカ人を服属させインド・スキタイ王国を乗っ取って建国。キリスト教の使徒トマスはこの王国に伝道し彼を改宗させたという。

【ガウタミープトラ・シャータカルニ】
2C前、中央インドのサータヴァーハナ朝の王(位106頃-130頃)。衰退していた王国を再建。サカ族系の西クシャトラパのナハパーナ王を打倒。インド・グリーク朝、インド・パルティア王国と対抗。ヴァルナの差別を固定化させる一方仏教を保護した。

【ナハパーナ】
2C前、インド北西部のサカ族系王国、西クシャトラパの王(位119頃-24頃)。即位時にはクシャーナ朝の配下にあったが一代で領土を大幅に拡大し自立。サータヴァーハナ朝のガウタミープトラ・シャータカルニ王との戦いに敗北し死去。「エリュトゥラー海案内記」にも記載される。

【ルドラダーマン】
2C、北西インドのスキタイ系サカ人の王国西クシャトラパの最盛期の王。インド中央部や東部にまで支配領域を広げた。サータヴァーハナ朝とは姻戚関係にあったが対立し戦争となり勝利した。バラモン教を保護し王の神格化を進めた。治水事業を記念したサンスクリット碑文が残る。

【馬鳴】
2C前頃、インドの仏僧、サンスクリット劇詩人。アシュヴァゴーシャ。仏教文学の創始者。バラモン出身。クシャーナ朝のカニシカ1世に保護された。叙事詩の代表作は釈迦の生涯を描く「ブッダチャリタ」釈迦の弟ナンダを扱う「サウンダラナンダ」。戯曲も作り音楽とともに上演した。

【サムドラグプタ】
4C、グプタ朝の第2代王(位335頃-75頃)。父はチャンドラグプタ1世。北インドに領土を拡大し、南方にも遠征。ヒンドゥー教を保護したが他宗教にも寛容であった。経済的にも繁栄し金貨を鋳造。事跡は前3Cにアショーカ王が建てたアラーハーバードの石柱に追刻された。

【マハーセーナ】
3C後-4C初、スリランカのアヌラーダプラ王国の王(位275-301)。大規模な灌漑事業で知られ、16の貯水池と2つの運河を建設。大乗仏教の僧に唆されて上座部仏教の僧院を弾圧したが後に諌められて弾圧をやめマハーヴィハーラ僧院に巨大な仏塔を建立した。

【無著】
4Cインドの仏教思想家。アサンガ。弟は世親。「摂大乗論」(「マハーヤーナ・サングラハ」)を執筆してそれまでの大乗仏教の教理を集大成した。その根本は、個人にとっての世界は視覚、聴覚などの「識」によってなりたっているにすぎず、実態はない(「空」)という唯識思想である。

【世親】
4C-5C頃、インドの学僧。ヴァスバンドゥ。無著の弟。初め部派仏教の説一切有部に学び「阿毘達磨倶舎論」を著すが兄の影響で大乗仏教の瑜伽行唯識学派に転向。「唯識二十論」「唯識三十頌」で唯識思想を大成。「無量寿経」の注釈書「無量寿経優婆提舎願生偈」は浄土信仰に影響。

【陳那】
5C前、南インド出身の仏僧。ディグナーガ。当初は部派仏教の犢子部に属したが後に大乗仏教に転向。世親に唯識思想を学び仏教論理学(因明)を確立。聖教量(釈迦の言葉)によらず現量(認識)と比量(論理)により真偽を判断することを説いた。主著は「因明正理門論」「集量論」。

【ブッダゴーサ】
5C頃、南インド出身、スリランカで活動した仏僧。仏音。マハーヴィハーラ僧院に住し、シンハラ語で記録されていたパーリ仏典のパーリ語での注釈に尽力。主著は「清浄道論」で、部派仏教時代の経論に自説を加えた修行法の大著。これによって現在に至る上座部仏教の教学は大成した。

【ウマースヴァーティ】
5-6C頃、インドのジャニナ教僧侶。サンスクリット語で教理綱要書「タットヴァールターディガマ・スートラ」を著してサムヤクトヴァ(認識、知識、行為の正しさ)を説いた。ディガンバラ派(空衣派)とシュヴェーターンバラ派(白衣派)の双方から尊崇される。

【ヴァーツヤーヤナ】
4C-5C頃、インドの思想家。性愛論書「カーマ・スートラ」の著者。7部35章でカーマ(愛)について説くが同性愛、性的技巧、体位などについて赤裸々に綴る第2部が知られる。当時台頭したナーガラカ(都会の伊達男)や遊女たちの生活、風習を知る上でも貴重な資料。

【キダーラ】
4C後頃、中央アジアにキダーラ朝を創始した王。系統や年代は不明。「魏書」には大月氏の王寄多羅が北西インドを征服したとある。発行した貨幣にはクシャーナ王と銘記され3Cにサーサーン朝に滅ぼされたクシャーナ朝の再興者と考えられる。王朝は5C新興のエフタルに滅ぼされた。

【天乙】
前17C頃、殷の初代王。湯王。史書によると伊尹の補佐を受けて桀を追放して夏を滅ぼし、中原の覇権を得て亳を王都としたという。儒家からは徳の高い聖王として称賛される。殷墟出土の甲骨文でも偉大な建国者とされ実在が確認された。亳は鄭州市の二里岡遺跡にあたると考えられる。

【伊尹】
前17C頃、殷の建国に貢献した宰相。農民出身。初代王天乙(湯王)を補佐し富国強兵策を進める。夏を謀略で分裂させ打倒。天乙の子外丙と仲壬、孫の太甲と沃丁の五代を補佐。後世に高く評価されるが彼が一時太甲を追放したことは君主追放の正当化に先例として用いられた。

【盤庚】
前14C頃、殷の王。「竹書紀年」によると5回の遷都の末北方に都を定め、建国者の天乙に倣った善政を行い殷の国勢を復興した。彼の遷都した都は河南省安陽市の殷墟であると考えられていたが、彼の時代の甲骨文は殷墟で未発見。遷都は貴族層の影響力排除を狙ったものと考えられる。

【武丁】
前13C頃、殷の王。高宗。妻は婦好。子は祖己・祖庚・祖甲でいずれも殷王。建設作業員から登用したという傅説の補佐を受け衰退していた殷の国勢を復興させ四方に領土を拡大した。殷墟では彼の時代以降の甲骨文が発見されており、遷都は史書に伝わる盤庚ではなく彼が行ったと考えられる。

【婦好】♀
前13C頃、殷王武丁の妻。祭祀と政治に大きな役割を果たし、武将としても活躍した女傑。巴方、土方、夷方、羌人の征伐を指揮。封地も賜った。1976年殷墟で墓が完全な状態で発見された。16人の殉葬者と銅鏡、方鼎、長方彜などの副葬品とともに武具が出土し、史書の伝が実証された。

【武乙】
前12C頃、殷の王。文武丁の父。天神と祖先神を侮辱する奇行を繰り返した結果、狩りの最中雷に打たれて即死したという。これは彼の祭祀改革の失敗を表すと考える説がある。周の古公亶父の岐邑建国を追認し、その子季歴を外征や反乱鎮圧に重用。治世中東夷の移住が進んだ。

【文武丁】
前12C頃、殷の王。殷王帝乙、甥の紂王に処刑された比干、箕子朝鮮の建国者箕子の父。「竹書紀年」によると周の季歴を重用するが後に監禁して餓死させた。巨大な青銅器「后母戊鼎」は彼が母を祭るために鋳造したと考えられていたが否定され、現在は祖庚または祖甲の鋳造とされている。

【帝辛】
前12C頃殷の最後の王。紂王。史書には愛妾の妲己に溺れて享楽の限りを尽くし、民に重税をかけ臣下を殺戮した暴君として描かれ、最期は周の武王に打倒されて焼身自殺したというが、甲骨文によると人身御供を廃止した人物で、史書の記述は周の易姓革命を正当化するための誇張と考えられる。

【妲己】♀
前11C頃、殷最後の王帝辛(紂王)の妃。史書によると王は彼女の言うなりで酒池肉林などの非道・暴政の元凶とされるが、甲骨文に彼女の記述はない。後世傾国の美姫の代名詞となり、九尾の狐の化身とする伝説も流布。明代の「封神演義」で美貌と残虐非道のイメージはさらに誇張された。

【古公亶父】
前12C頃、周の先王。子は句呉の建国者太伯、虞仲に文王の父季歴。故地の豳から異民族の侵入を逃れて陝西省の岐山の麓に国を拓きに拠点を移す。殷の王室と親交を結んだため、周の一族が初めて甲骨文に登場する。史書によると「人民のための国家と君主」という思想を持っていた。

【周の文王】
前12C-前11C周の始祖。武王と周公旦の父。姫昌。諸侯として殷の帝辛に仕えた。一時帝辛に危ぶまれて幽閉され長男を殺された。その後西伯に封じられ、呂尚を採用して善政を行う。諸侯から帝辛打倒の期待をかけられたが、国力の充実に専念した。後世に儒家から理想の聖王とされる。

【呂尚】
前11C周の建国期の軍師。太公望。落魄して渭水で釣りをしていたときに文王に出会ったという。武王を補佐して牧野の戦いに勝利して殷を滅ぼす。その後斉侯に封じられ、漁業と製塩で国を富ませた。後世、兵法書「六韜」「三略」の著者として神格化され、孔子とともに文武廟に祀られた。

【周公旦】
前11C周王朝最初期の王族。初代文王の子で第2代武王の弟。兄の殷打倒を補佐。武王の子第3代成王が幼少の時期に7年間摂政として政務をとる。殷の神権政治から形式と道徳を重んじる「礼教政治」に転換した人物とされる。「周礼」「儀礼」の著者とされ、孔子によって聖人と崇められた。

【周の厲王】
前9C、周の王(位:前857-42)。暴政によって諸侯や民衆に怨まれ、前842年に大反乱が発生。鎬京を脱出して彘(山西省霍州市)に逃れた。この後28年に亡命先で薨去するまで年号は「共和」となるが「史記」では2人の大臣が合議で政治を行ったとし、これが共和制の由来。

【周の宣王】
前9C後-前8C前、西周の王(位:前828-前782)。父は厲王、子は幽王。弟は鄭の初代君主桓公。国人暴動による父王の亡命後14年間の共和制を経て即位。国勢を一時的に復興した。前789年姜戎に大敗。末路は不明だが「墨子」に彼が処刑した諸侯の亡霊に殺される説話がある。

【周の幽王】
前8C前、西周最後の王(位:前781-71)。後宮の褒姒に惑溺し虢石父を重用して国政を乱し人民や諸侯の怨嗟を買ったという。褒姒の言うなりに申后と太子宜臼(平王)の廃后・廃太子を行うと申后の父申侯は犬戎と結んで挙兵。鎮圧に向かう諸侯はなく驪山の麓で殺害(西周の滅亡)。

【褒姒】♀
前8C前、西周の幽王の后。傾国の美姫の代表格。捨て子であったが褒国から王に献上され、王に愛され子を成した。王は彼女の言うなりに太后の申氏と太子を廃し彼女を太后とし彼女との子を太子とした。怒った申侯は犬戎と同盟して反乱し王は殺され彼女は戦利品として犬戎に連れ去られた。

【周の平王】
前8C、東周の初代王(位:前771-20)。父は幽王。褒姒の言うなりになった父王により廃太子されるが、前771年父王が打倒され西周滅亡すると諸侯に擁立され即位。戦闘で荒廃した鎬京から洛陽に遷都した(東周)。759年鎬京に並立していた兄弟の携王を打倒し周を再統一。

【晋の武公】
前7C前、春秋時代の晋の君主(位:前677-75)。晋侯の分家で曲沃に自立した桓叔の孫。献公の父。晋侯宗家が支配する首都の翼を度々攻め前677年翼を攻め落として晋を再統一した。東周王室は曲沃による下剋上を認めない方針であったが翼の宝物を献上して晋公と認められた。

【管仲】
前7C春秋時代の斉の官僚。鮑叔の推薦で桓公の信頼を得て宰相となる。富国強兵を推進して斉を強国にし、桓公を覇者に押し上げた。「管子」は彼の著作とされるが、実際には後代に成立したもので、儒家だけでなく法家、道家からも重視された。鮑叔との友情は「管鮑の交わり」として知られる。

【夏姫】♀
前7C末-前6C前、春秋時代の美女。父は鄭の君主穆公 。隣国陳の公族に嫁ぐが子を成して間もなく夫が死に、子の地位を守るため君主の霊公らに身を委ねた。耐えかねた子の夏徴舒は霊公を暗殺。混乱に乗じて楚の荘王が侵入して子も殺される。結局楚の公族巫臣の妻となり晋で暮らした。

【秦の文公】
前8C、春秋時代の秦の君主(位:前765-17)。建国者襄公の子。前764年伝説上の故地、秦邑(張家川回族自治県一帯)を再建。前750年西戎を討ち獲得した領土を周に献上。前746年罪人の三族(範囲は不明)を罰する法律を制定、清代まで続く族誅の記録上最も早い法制化。

【秦の武公】
前7C前、春秋時代の秦の君主(位:前697-78)。末弟の出子、長兄の彼、次兄の徳公の順に公位継承。有力貴族の弗忌と三父を誅殺。戎を討伐し領地を広げた。秦では初めて人を殉死させる。その数66人。2014年陝西省宝鶏市陳倉で発見された陵墓が彼の墓の可能性が高い。

【秦の徳公】
前7C前、春秋時代の秦の君主(位:前677-76)。兄は武公、弟は出子。子は宣公、成公、穆公。即位直後に平陽から陝西省宝鶏市鳳翔の雍に遷都し「子孫は黄河で馬に水を飲ませる」(将来的な中原への進出)と占う。犬を磔にする呪術で邪気祓いをしたという。在位2年で死去。

【秦の景公】
前6C、春秋時代の秦の君主(位:前576-37)。晋の悼公と抗争したが、その子平公とは和議を結んだ。陝西省宝鶏市鳳翔の秦公陵園で全長300mの巨大な陵墓が地元の農家により発掘され、金器、鉄器、青銅器、漆器、石磬など3000点以上の遺物が発見された(秦公1号墓)。

【子産】
前6C、春秋時代の鄭の宰相。公孫僑。法家の源流とも。北方の晋、南方の楚の2大国の和平を仲介し、鄭に平和をもたらす。前536年中国史上初の成文法「参辟」を定めて鼎に鋳込む。これは諸国の知識層から猛批判されたが、次第に諸国に採用された。孔子に尊敬された同時代人の1人。

【晏嬰】
前6C、春秋時代の斉の官僚。景公に慕われて宰相となり、司馬穰苴を将軍に推薦して国政を安定させた。名宰相として後世の評価が高く「南橘北枳」「牛頭馬肉」(「羊頭狗肉」)の故事を残す。前516年斉に亡命していた孔子を景公が登用しようとするが、彼は孔子の思想を猛批判し阻止した。

【魯の成公】
前6C前、春秋時代の魯の君主(位:前590-73)。前590年丘甲の制度を定める。軍籍に編入した農民に車馬や糧食などの軍賦を提供させるもの。彼の死後三桓氏が三軍を編成すると軍賦も三桓氏が掌握することになる。75年母の穆姜と密通するなど専横を極めた叔孫僑如を追放。

【魯の昭公】
前6C後、春秋時代の魯の君主(位:前541-10)。前517年国政の実権を握る三桓氏の1つで司徒を担う季孫氏の当主:季孫意如を討伐しようとするが軍事を独占する三桓氏に屈し斉に亡命。三桓氏の専横に憤っていた孔子も彼に付き従って一時的に斉に移住した。最期は晋で客死。

【魯の哀公】
前5C前、戦国時代の魯の君主(位:494-68)。呉、斉と抗争。公を凌ぐ有力公族の三桓氏を除こうとしたが失敗し亡命、越で客死。孔子と親交。「論語」にも度々登場する。前481年麒麟の捕獲にショックを受けた孔子はこの出来事を最後に「春秋」の記述をやめたという。

【顔回】
前6C後-前5C前、孔子の弟子。孔門十哲の1人。魯出身。「論語」によると孔子は30歳年下の彼を秀才として賞賛し481年に早世した時は悲嘆にくれた。他の弟子たちからも愛され子貢は彼を「一を聞いて十を知る」と評した。荘子にも影響を与えたとされ、道家からも評価が高い。

【子貢】
孔子の弟子。孔門十哲の1人。弁論に長けて魯で宰相を務め、商才にも恵まれて財を成し、同時代人には孔子よりも優れた人物と評する者も多い。孔子教団を経済的に支えたとも。孔子は彼が能力を政治や商売に使うことを嘆いた。「論語」では熱心に孔子に質問をするが厳しく諭される場面が多い。

【曾子】
前5C、春秋時代の儒学者。魯出身。孔子の弟子で儒教黎明期の指導者。子思の師。「孝経」は孔子が彼に語る形式で孝を説く書で彼の門人が著した。母に対する孝を物語る説話で知られる。「論語」の「吾日に吾が身を三省す」の一節でも名高い。朱熹は彼を「四聖」の1人に数えた。

【子思】
前5C、戦国時代の儒学者。孔子の孫。父は祖父の長男孔鯉。幼くして父と祖父を失う。祖父の弟子曾子に学ぶ。各国を遊学したのち魯の穆公に仕えた。門弟が彼の教えを「子思子」に著すが現存せず。「史記」では「中庸」を彼の作とするが疑問あり。朱熹は彼を「四聖」の一人に数えた。

【左丘明】
前6C-前5C頃、春秋時代の歴史家。実在性を含め不明点が多い。魯出身で盲だったという。「論語」では孔子が社交辞令を嫌った彼に尊敬を表明している。孔子の弟子であり「春秋」の注釈書「春秋左氏伝」と語録の「国語」の作者と伝わるが唐代以降は否定的な見解が有力。

【伍子胥】
前6C末-前5C初、春秋時代の呉の宰相。楚の出身だが平王に父と兄を処刑され呉に亡命。呉の闔閭に仕え、孫武を将軍に推挙した。前506年呉が楚に大勝した際、平王の墓を暴いて死体に恨みを晴らした(死者に鞭打つ)。闔閭の子・夫差にも仕えたが次第に対立し自殺を命じられた。

【范蠡】
前5C春秋時代の越の宰相。允常、勾践に仕え、呉の闔盧、夫差と抗争した。謀略に長け、夫差と宰相・伍子胥とを離間させ、絶世の美女・西施を送り込んで夫差を惑溺させた。呉を滅ぼすと勾践との関係が悪化したため亡命。斉では鴟夷子皮、宋では陶朱公と名乗って商人として大成功したという。

【西施】♀
前5C、春秋時代の越出身の美女。范蠡の献策で越王勾践から呉王夫差に献上された。越側の思惑通り夫差は彼女に惑溺し国政は乱れ呉は滅亡。後に国を滅ぼす妖女として袋詰めにされ長江に投げられた。宋代に蘇軾がその美を西湖の景観になぞらえた他、李白、王維、松尾芭蕉らが題材にした。

【智瑶】
前5C、春秋末期の晋の貴族。智氏の当主として魏氏の魏駒、韓氏の韓虎、趙氏の趙無恤と四卿をなし、これを除こうとした出公を追放して哀公を擁立、実権を握る。魏駒と韓虎を従えて趙無恤を討とうとするが土壇場で魏駒・韓虎が寝返り、殺害。晋は事実上魏・韓・趙に3分された(三家分晋)。

【魏の文侯】
前5C後-前4C初、戦国時代初期の魏の君主(位:前445-前396)。魏斯。孔門十哲の子夏を招き師事。法家の李克、西門豹の補佐を受けて富国強兵を進め呉起が秦を楽洋が中山国を破り覇権国となった。前403年三家分晋により周王から候に封じられた(戦国時代の始まり)。

【李克】
前4C、戦国時代の魏の宰相。李悝。文侯に仕えた。孔門十哲の子夏の弟子。法家。穀物の価格調整を行って農民の生産意欲を高め富国強兵を進めた。諸国の成文法を集大成して盗法・賊法・囚法・捕法・雑法・具法の6篇の法典「法経」に編纂。これが秦の商鞅に引き継がれたという。

【西門豹】
前5C、戦国時代の魏の官僚。文侯に仕えた。孔門十哲の子夏の弟子。法家。不毛の地だった黄河沿岸の鄴に赴任。龍神を畏れる民の迷信を一掃して人身御供をやめさせ灌漑工事を行う。鄴は豊かになったが文侯との関係が悪化し魏を去る。祭祀政治から合理的な富国強兵への転換を象徴する人物。

【中山武公】
前5C後、戦国時代の中山国の君主(位:前414-07)。白狄。祖父は周の定王。山西高原の鮮虞から衆を率いて太行山脈を越えて華北平原に降り河北省中部に中山国を建国した。407年魏の文侯が派遣した楽羊に攻められ敗北、公国はいったん滅んだが、子の桓公が再興した。

【武霊王】
前4C-前3C初、戦国時代の趙の君主。恵文王、公子章、平原君の父。楽毅も一時彼に仕えた。遊牧民族の優れた戦法に学び、慣習を破って胡服騎射を導入して趙を軍事大国にし、北方に広大な領土を持った。恵文王に譲位後、反乱した公子章に肩入れし王の軍によって包囲され餓死した。

【趙の恵文王】
前3C前、戦国時代の趙の王(位:前298-66)。父は武霊王、弟は平原君。父王の生前に禅譲を受けた。前296年中山を滅ぼす。異母兄の章と王位争いになった際、父も死なせる。保有していた「和氏の璧」を秦の昭襄王に狙われるが藺相如の活躍で難を逃れる(「完璧」の故事)。

【平原君】
前3C戦国時代の趙の王族、宰相。趙勝。戦国四君の一人。兄の恵文王と甥の孝世王に仕える。信陵君は妻の弟。数千人の食客を養い、その中には名家の公孫竜や陰陽家の鄒衍などがいた。首都・邯鄲を秦軍に包囲された際、楚に赴き同盟を取り付けた。浅慮や軽挙を示す逸話も多い等身大の人物。

【信陵君】
前3C戦国時代の魏の王族、将軍。魏無忌。戦国四君の一人。兄の安釐王に仕えた。数千人の食客を養った。趙の宰相・平原君は姉の夫で、趙が秦に攻められると慎重だった兄王に反して援軍を送りそのまま趙に亡命した。 前248年魏が秦に攻められると兄王に請われ帰国し、秦軍を撃退した。

【懐王】
前4C後-前3C初、戦国時代の楚の王(位:前329-前299)。秦の宰相張儀の策略にはまって連衡に傾き斉との同盟を破棄。結局秦と戦い丹陽、藍田で大敗。最期も騙されて秦に自ら趣き捕らえられ獄死した。この間屈原は懸命に秦に対する警戒と斉との合従を主張するが聞き入れず。

【春申君】
前3C戦国時代の楚の宰相。 黄歇。戦国四君の一人。秦の攻勢により傾いた楚の国勢を一時的に立て直した。食客数千人を養い、その中には荀子がいた。前274年秦の昭襄王を説得して和平を結ぶ。前241年諸侯の合従軍を率いて秦を攻めるが失敗。最期は謀略に加担して暗殺された。

【田斉の太公】
前4C前、戦国時代の田斉の初代君主(位:前386-85)。田和。斉の宣公・康公に宰相として仕えたが、前391年非行を理由に康公を浜辺の町に追放して下剋上を成す。86年東周の安王に斉侯として認められた(田氏代斉)。これ以降の斉を特に田斉、以前を姜斉という

【孟嘗君】
前3C戦国時代の斉の王族、宰相。田文。戦国四君の一人。数千人の食客を養い、度々彼らに助けられたという(鶏鳴狗盗)。湣王に仕え富国強兵を進め斉を強国にしたが、湣王に危ぶまれて前284年魏に亡命。同年斉は楽毅率いる五国連合軍に大敗。田単によって斉が復興すると斉に戻った。

【田単】
前3C戦国時代の斉の武将。紀元前284年燕の将軍・楽毅率いる五国連合軍に斉が大敗し首都・臨淄が陥落すると即墨に立てこもって頑強に抵抗した。謀略で恵王と楽毅を離反させ楽毅を亡命に追い込む。1000頭の牛を用いた「火牛の計」で燕軍を撃破。失地を回復し、斉を再興した。

【楽毅】
前3C戦国時代、北方の小国・燕の武将。昭王に仕え、前284年燕・韓・魏・趙・秦の連合軍を率いて大国・斉を攻めて大勝するが、即墨で田単の頑強な抵抗にあう。田単の謀略により昭王の跡を継いだ恵王に危ぶまれ趙に亡命。その後名文と名高い「燕の恵王に報ずるの書」を送り恵王と和解。

【楊朱】
前4C、春秋時代の思想家。「列子(楊朱篇)」「荘子」などに学説が断片的に記載。個人主義的な為我説(自愛説)を唱えた。自己の生命を全うし自然な欲望を充足させ、個人としての充実した人生を送ることを重視。国家のために個人を犠牲にしたり道徳によって欲望を抑制することを批判した。

【恵施】
前4C中国戦国時代、諸子百家のうち論理学をなした名家の代表的思想家。魏で宰相を務めた。著作はすべて散逸。尺度によってすべての差異は無意味になるので、万物は全てが等価だとする「大同異」を唱えた。墨家の博愛主義と通ずるとも。荘子との討論が「荘子」に登場する。

【慎到】
前4C頃、戦国時代の思想家。趙出身。斉の国都臨淄に招かれた「稷下の学士」の1人。道家に影響を受け、君主の才能によらず勢(法に根拠付けられた君主の地位)によって国を統治することを説いた。その思想は法家の韓非に継承された。著書の「慎子」は42篇中5篇が現存するが偽書説も。

【申不害】
前4C、戦国時代の韓の宰相(任:前355-37)。法家。釐侯に仕え韓に最盛期をもたらす。。老荘思想に影響を受け君主には無為を求め法を重視。刑(行動)と名(評価)の一致を説いた(刑名学)。彼の思想は前3Cの同国王族韓非に継承された。著書に「申子」があったとされるが散逸。

【秦の恵文王】
前4C後、戦国時代の秦の王(位:前338-11)。父は孝公、子は武王、昭襄王。太子時代に商鞅に恨みを抱き、即位と同時に粛清。一方で商鞅の政策は継続した。張儀の補佐を受けて秦をさらなる強国とし、前318年韓・趙・魏・燕・楚の五ヶ国連合軍を撃退。16年巴蜀を併合。

【秦の武王】
前4C末、戦国時代の秦の王(位:前311-07)。恵文王の子で、昭襄王の異母兄。父王の代からの宰相・張儀と不仲で張儀は魏に亡命。代わって甘茂を重用し農村インフラ整備法「田律」を定める。甘茂に韓を攻めさせ勝利(宜陽の戦い)。最期は力比べの際の事故で死去。在位4年。

【秦の昭襄王】
前4C末-前3C前、秦の王(位:前306-前251)。父は恵文王。兄の武王の急死により年少時に即位。統治前半は魏冄、後半は范雎を宰相とし、白起を将軍に起用して魏、楚、趙を攻撃して衰退させ、秦を唯一の超大国とし諸侯を服属させた。前256年東周を滅ぼし九鼎を奪う。

【白起】
前3C戦国時代の秦の武将。昭襄王に仕え、容赦ない戦術で前292年魏、前278年楚、前273年魏と趙(長平の戦い)に大勝して秦の領土拡大に貢献した。宰相・范雎と対立、最期は王に自殺を命じられた。1995年長平の古戦場で彼が虐殺した投降兵とみられる人骨が大量に発掘された

【秦の荘襄王】
前3C、戦国時代の秦の王(位:前250-47)。始皇帝の父。即位前人質に出されていた趙の邯鄲で出会った豪商の呂不韋に支援を受け(「奇貨」の故事)、秦の後継者となる。即位後は呂不韋を丞相として魏、韓、趙を攻めて領土拡大を進めたが在位3年で死去。

【呂不韋】
前3C中国戦国時代秦の官僚。始皇帝の父・荘襄王が公子の頃から支援し、前250年秦王とすることに成功し宰相となる。始皇帝の母・趙姫は元々彼の愛人であり、彼を始皇帝の実父とする説がある。後に政王(始皇帝)に危ぶまれ粛清。彼が荘襄王に出会った故事から好機を「奇貨」と言う。

【荊軻】
前3C戦国時代末期の刺客。衛出身で文武の修業を重ねて諸国を放浪していた。燕の太子丹から依頼され前227年秦に乗り込み秦王政(後の始皇帝)を暗殺しようとするが失敗して斬り殺された。死後伝説化し1998年映画「始皇帝暗殺」に描かれた。飲酒した際の「傍若無人」の故事が残る。

【徐福】
前3C秦の方士。徐芾。始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申して命を受け、3000人の若い男女と技術者集団とともに五穀の種を持って東方に船出し到達地で王となったという。日本列島各地に伝承が残る。「史記」には実際には出立しなかった詐欺師とする記述もある。
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【蒙恬】
前3C秦の将軍。始皇帝に重用され、始皇帝の長男扶蘇の指揮下にあった。前215年30万の軍を率いての匈奴征伐を指揮し勝利。長城、直道の築造も担当した。前210年始皇帝の死後、胡亥(二世皇帝)を擁立した丞相の李斯と宦官の趙高の策謀によって扶蘇とともに自殺に追い込まれた。

【趙高】
前3C秦の宦官。晩年の始皇帝の信頼を得る。前210年の始皇帝死後、丞相の李斯を誘って遺言を改竄し末子の胡亥を擁立。太子の扶蘇を自殺させる。前209年陳勝・呉広の乱が起こると李斯と対立し粛清。秦滅亡を目前にして胡亥をも殺害し子嬰らに誅殺された。「馬鹿」の故事が残る。

【胡亥】
前3C末、秦朝の第2代皇帝(位:前210-07)。始皇帝の末子。父帝の死後、丞相の李斯、宦官の趙高と謀って長兄の扶蘇を自殺に追い込み即位。土木工事と徴兵で人心は離れ前209年陳勝・呉広の乱が発生。その後も趙高に政治を任せるが望夷宮の変で趙高に打倒され自殺(秦朝の滅亡)。

【章邯】
前3C末、秦の将軍。前209年陳勝・呉広の乱に際し始皇帝の陵墓で働いていた囚人20万人を赦して兵士とし鎮圧に当たった。08年まで勝利を重ねるが07年項羽に敗れる。ここで朝廷での趙高の専横ぶりを知り項羽に投降するが項羽は数万の兵を坑殺。05年劉邦の武将韓信に敗れ自害。

【范増】
前3C秦末の楚の軍師。項梁が挙兵すると70歳で楚軍に加わる。項羽は彼を信頼し「亜父」と呼んだ。楚王の末裔という心(懐王、義帝)を項梁に紹介した。前206年鴻門の会に際して項羽に劉邦殺害を進言するなど、常に劉邦を警戒した。最期は項羽との関係が悪化し楚軍を去った直後に病死。

【虞美人】♀
前3C末、項羽の愛妾。虞姫。前202年垓下の戦いで「四面楚歌」の状況に追い詰められた項羽が彼女に送った「垓下の歌」が名高い。伝承ではこの時に剣舞を披露した直後に自殺し、埋葬地にはひなげしが咲いたという(虞美人草)。20Cには京劇「覇王別姫」で梅蘭芳が彼女を演じた。

【張良】
前3C末-前2C、秦末漢初の軍師。子房。劉邦の天下統一に貢献した漢の三傑の一人。韓の遺臣。前218年に始皇帝暗殺を図ったという。前209年成を韓王に擁立。前206年項伯を劉邦に会わせ、これがきっかけで鴻門の会が実現。前202年垓下の戦いでは韓信と彭越の懐柔を進言した。

【蕭何】
前3C末-前2C初、秦末漢初に劉邦を補佐した官僚。前漢の初代丞相、相国。漢の三傑の一人。沛県で役人をしていたが前209年部下の曹参とともに反乱を起こし侠客だった劉邦を擁立した。物資調達など内部事務を取り仕切った。韓信を大将軍に推挙したが、前196年謀反を察知し誅殺した。

【韓信】
前3C末-前2C初、秦末漢初の武将。劉邦の天下統一に貢献した漢の三傑の一人。「国士無双」。夏侯嬰や蕭何に評価され大将軍に任命され別働隊を率いて華北を平定し斉王となり、漢、楚と天下を三分する様相を見せた。前漢成立後は楚王となるが前196年謀反を起こして蕭何に誅殺された。

【曹参】
前3C末-前2C初、秦末漢初の武将。沛県で役人をしていたが前209年上司の蕭何とともに反乱を起こし侠客だった劉邦を擁立した。前204年からは韓信の別働隊に加わり常に前線で活躍。前193年蕭何の後任として相国に就任。黄老思想に基づく消極政策で国に平安をもたらした。

【陳平】
前3C末-前2C、秦末漢初の軍師、官僚。魏王や項羽に仕えるが結局劉邦に従う。謀略に長け、前204年滎陽の戦いでは項羽と范増を離間させ、降伏を偽装して撤退に成功。前200年の匈奴との戦いでも奇策によって撤退を成功させた。前180年呂雉の死後呂氏一族を粛清して文帝を擁立。

【英布】
前3C末-前2C初、秦末漢初の武将。黥刑を受けたため黥布とも呼ばれる。群盗から反乱に参加。項梁、項羽に使えて対秦戦争に活躍するがやがて項羽と対立。前204年随何の説得に応じて劉邦に寝返る。前漢が成立すると淮南王に封建される。劉邦の粛清を怖れて反乱を起こすが敗れた。

【呂雉】♀
前3C-前2C漢の高祖劉邦の皇后。恵帝の母。前195年夫の死後皇太后として恵帝を補佐し、夫の側室・戚夫人とその子の劉如意(趙王)を殺害。恵帝の死後も孫の少帝恭、少帝弘を擁立。呂氏一族を重用し外戚政治を行った。残忍な粛清で悪女の代名詞とされるがその治世は安定していた。

【周勃】
前3C末-2C前、秦末漢初に劉邦を補佐した武将。前180年太皇太后の呂雉が死去すると陳平らとともに呂一族を誅滅し文帝を擁立。このクーデタの際呂氏配下の兵士に忠誠の意思確認をしたのが「左袒」の故事となった。丞相となるがか文帝は彼を恐れ左遷、投獄。後に疑いは晴れた。

【賈誼】
前2C前、前漢の官僚、文人、政治思想家。文帝に重用された。讒言により左遷された際に屈原を弔った「弔屈原文」が名高い。文帝の末子梁王劉揖の太傅(補佐・教育係)となるが169年梁王が落馬死すると翌年憂死。散文集は「新書」で諸侯王勢力削減、匈奴対策、農業振興など政策論に富む。

【利蒼】
前2C前、前漢時代に呉氏長沙国(湖南省)の諸侯相を務めた官僚。南部の要衝の政治を取り仕切った功績により侯として領地を得た。1972年長沙市で墳墓が発見され湿屍により完全な状態で保存された妻辛追の遺体と見事な帛画など約3000点もの貴重な副葬品が出土した(馬王堆漢墓)。

【桑弘羊】
前2C後-前1C前、前漢の財務官僚。武帝に仕えた。連年の軍事行動で財政難に陥ると前120年塩、鉄、酒の専売制を実施。さらに物価を統制するため商業に介入し15年均輸法、10年平準法を実施。財政収入は向上した。武帝の死後反対派と朝廷で論争となり「塩鉄論」にまとめられた。

【公孫弘】
前2C後、前漢の官僚。山東出身で養豚をして暮らすが40歳で学を志す。70歳になる前130年から21年に80歳で死去するまで武帝に重用される。24年から丞相。粗衣粗食を旨とし博学と謹慎を評価されたが董仲舒を讒言し左遷させるなど皇帝に迎合する曲学阿世との評価もある。

【李陵】
前1C、前漢の軍人。前99年武帝の命で匈奴と戦う李広利将軍の援軍に向かうが敵の本隊に遭遇。奮戦するが敗れて降伏した。激怒した武帝は彼を擁護した司馬遷を宮刑に処し彼の親族を皆殺しにした。その後且鞮侯単于の娘を娶り、匈奴の将軍として重用された。匈奴に抑留された蘇武を援助。

【蘇武】
前1C前、前漢の官僚。前100年武帝により匈奴に遣使されるがバイカル湖のほとりに抑留される。19年の過酷な抑留生活を生き延びたが、この際匈奴に仕えていた李陵が密かに援助していた。前86年昭帝の結んだ和議により帰国。匈奴への帰順を拒否し続けたため模範的な忠臣とされる。

【郅支単于】
前1C、前漢時代の匈奴の対立単于。呼韓邪単于の兄。前56年匈奴の分裂に乗じて東方に自立。前54年弟単于を破るが弟単于は前漢を頼る。前49年頃西方に進出し烏孫を破って烏掲・堅昆・丁令を併合し拠点を移す(西匈奴)。最期はシル川沿いの康居を乗っ取るが前36年漢軍に敗れた。

【呼韓邪単于】
前1C前漢時代の匈奴の単于。分裂していた匈奴を統一し、前漢滅亡まで続く和平を実現した。前54年兄の郅支単于と匈奴を東西に2分。前53年兄との戦いに際して漢に救援を求める。前51年漢の宣帝と面会。続く元帝とも盟を結び、後宮の女性王昭君を閼氏として賜わった。

【漢の昭帝】
前1C前、前漢の皇帝(位:前87-前74)。武帝の末子。巫蠱の獄で長兄の劉拠一族が誅滅されたため皇太子となるがこの際外戚専横を防ぐため母は自殺させられた。父帝の死後8歳で即位。将軍の霍光と上官桀が補佐したが、両者はしだいに対立。上官桀派は粛清された。21歳で病死。

【霍光】
前1C前、前漢の官僚。霍去病の異母弟。武帝に仕えて信頼され大司馬大将軍に任じられ昭帝の補佐を任された。燕王劉旦を奉じた上官桀一派の謀反を打倒。昭帝の死後劉賀を擁立するがすぐ廃し宣帝を擁立。前68年に死去するまで一貫して政治を取り仕切った。日本の関白の語源となった人物。

【漢の宣帝】
前1C、前漢の皇帝(位:前74-前48)。中宗。生後間もない前91年巫蠱の獄に連座して一家は皆殺しとなり民間で養育される。昭帝崩御後霍光に擁立され即位。傾いていた国勢を立て直すため内政を重視。法家を重用して富国強兵策を行い儒教の懐古主義・理想主義を嫌った。

【王政君】♀
前1C、前漢の元帝の皇后で成帝の生母。前33年夫が没して子が即位すると皇太后として君臨し王氏一族が政治の中枢に関与。前7年子が急死し哀帝が即位すると影響力が弱まる。前1年哀帝の死後平帝が即位すると王氏の復権を王莽に期待し大司馬に任じるが、これが前漢の滅亡をもたらす。

【王譚】
前1C、前漢の外戚。元帝の皇后で成帝の母・王政君の異母弟。王莽は甥に当たる。前27年4人の弟とともに列侯に封ぜられ「五侯」と呼ばれ、奢侈を競って派閥を形成した。執政であった異母兄の王鳳の後継者と目されたが王鳳が推挙せず、権力を手中にしないまま前16年死去。

【趙飛燕】♀
前1C、前漢成帝の皇后。踊り子をしていたが皇帝に愛され後宮に入り前16年立后。夫の愛は次第に妹で昭儀の趙合徳に移る。前7年夫が死去、妹は責任を問われ自殺。前1年王莽により追放され自殺。後世に美人姉妹伝説として「飛燕外伝」が成立。「源氏物語」にも影響を与えた。

【漢の哀帝】
前1C末前漢末期の皇帝(位:前7-前1)。即位すると、当時権勢を誇った外戚の王莽を退け、皇帝独裁を復活させようとした。男色を好み、美少年の董賢を寵愛した。嗣子はなく、崩御に際して董賢に皇帝の璽綬を託したが、璽綬は王莽に奪われた。その後王莽が新を建て、前漢は滅亡。

【孺子嬰】
1C前、前漢最後の皇太子。劉嬰。5年平帝の死後、摂皇帝王莽により2歳で皇太子に立てられる。8年王莽が皇帝に即位し新を建てると諸侯に封じられる。新崩壊後の25年方望によって皇帝に推戴され甘粛省慶陽辺りに自立したが、すぐに長安の更始帝に討伐され戦死。享年21。

【樊崇】
1C前、新末後漢初の武将。赤眉軍の頭領。徐州琅邪郡出身。20年頃蜂起するとまたたく間に数万の軍勢となる。新の政府軍と識別するため眉を赤く染めさせた。王莽を打倒した更始帝とも対立し劉盆子を立てて戦いを続行。25年更始帝を打倒し長安に入城。27年光武帝の軍に敗れ投降。

【劉盆子】
1C前、新末後漢初の赤眉政権の皇帝(位25-27)。建世帝。18年兄弟とともに赤眉軍に捕らわれ従軍。牛の世話係をしていたが25年赤眉軍首脳は劉氏宗族の擁立を決め兄弟でくじを引いた結果即位。実権は皆無で退位を望んだ。27年後漢に降伏。光武帝の配慮で平穏な余生を送った。

【更始帝】
1C前、新末後漢初の更始政権の皇帝(位23-25)。劉玄。前漢の宗室だったがトラブルを起こし隠棲していた。新が崩壊すると平林軍に参加し緑林軍と合流。後の光武帝のいた舂陵軍も合流し推戴され即位。23年長安を陥し王莽を打倒。武将を統率しきれず側近に裏切られ赤眉軍に敗れた。

【公孫述】
1C前、新末後漢初の武将。新朝の巴蜀(四川)の太守だったが23年新が滅亡するとこの地に割拠して地方王朝の成を建てた。白龍を見たとして白帝を名乗り年号を興龍とした。記録上初の鉄銭を鋳造。更始帝、光武帝の送り込む討伐軍と戦うが31年成都が陥落し滅亡(後漢の中国統一)。

【隗囂】
1C前、新末後漢初の武将。子は隗純。新が崩壊すると反乱軍に推戴されて漢室復興を掲げて挙兵。西州上将軍を自称して隴西(甘粛省定西)に割拠。士大夫の多くが彼を頼って集まった。24年には更始帝、27-30年には光武帝に従うが結局離反。最期は漢軍に追い詰められ33年死去。

【隗純】
1C前、新末後漢初の武将。隗囂の子。33年の父の死後も甘粛省天水を拠点に蜀の公孫述とともに光武帝への抵抗を続ける。背後にいた羌族を慰撫し兵として利用した。34年後漢の攻勢に敗れ降伏。東方に移住させられしばらく平穏に暮らしたが42年逃亡。匈奴と結んだが捕縛され誅殺。

【馬援】
1C前、新末後漢初の武将。伏波将軍。青年期は北方で牧畜や農業をしていた。新滅亡後隗囂の配下で頭角を現す。28年光武帝に投降し後漢の建国に貢献。35年西羌を破り41年交州(ベトナム北部)の徴姉妹の反乱を鎮圧。異民族討伐に活躍する一方辺境の民生向上に努めた。道教で神格化。

【後漢の劉英】
1C、後漢の皇族。光武帝の三男で明帝の異母兄。楚王。65年に謀反を疑われるが明帝に許される。「後漢書」のこの事件の記述に彼が仏教を厚く信仰していたことが記される(中国の史書の上で最も古い仏教信仰の記録)。結局70年にも謀反を疑われ配流、数千人が連座。翌年自殺。

【漢の和帝】
1C末-2C初、後漢の皇帝(位88-106)。父は章帝、子は殤帝。9歳で即位。幼少時は父帝の皇后の竇氏一族が政権を握ったが92年粛清。宦官の鄭衆を重用した。西域では班超が勢力を大幅に拡大。彼が27歳で死去したことで後漢朝政は幼帝の下外戚と宦官が争う状態に陥る。

【漢の殤帝】
2C初、後漢の皇帝(位106)。劉隆。父は和帝。中国史上最年少の皇帝。子の夭折が相次ぎ宮中で子を育てることを危ぶんだ父帝により民間で育てられていたが父帝の崩御により生後100日で即位。7ヶ月ほどで病死。安帝が擁立される。彼の治世から和帝の皇后鄧氏の臨朝が始まる。

【漢の安帝】
2C前、後漢の皇帝(位106-25)。即位後も長期間、和帝の皇后だった鄧皇太后が朝政を行った。この際皇太后と官僚の連絡を担った宦官の勢力が拡大した。21年からは安帝が親政したが、宦官と外戚の対立はやまなかった。この間異民族の侵入と災害が続き、後漢の衰退は進行した。

【霊帝】
2C後、後漢の皇帝(位168-89)。子は少帝弁と献帝。皇后は何皇后。桓帝の死後12歳で即位。当初は皇太后の竇妙、その父竇武、陳蕃らの補佐を受けた。党錮の禁で清流派を弾圧。宦官集団の十常侍に政治を任せた。社会は大いに乱れ184年黄巾の乱が発生。後漢は決定的に衰退した。

【李膺】
2C、後漢の官僚。清流派の中心人物。164年宦官が独占した中常侍の専横を告発したが逆襲にあい逮捕(第一次党錮の禁)。霊帝の即位後政権に復帰し陳蕃とともに宦官排除を試みるが168年またも逆襲され下野(第二次党錮の禁)。人材を見る目が厳しく「登龍門」の由来となった。

【陳蕃】
2C、後漢の官僚。清流派に属し宦官と対立。桓帝に度々諌言。166年第一次党錮の禁で李膺らを擁護して免職。霊帝即位後政権に復帰。169年外戚の竇武と結んで宦官排除を試みるが宦官の曹節らに逆襲され殺された(第二次党錮の禁)。松平定信は「後漢書」の彼の伝に感化されたという。

【竇武】
2C後、後漢末の外戚。士大夫の出身。娘の竇妙が桓帝の皇后となると宮廷で出世したが、従来の外戚のような政治の私物化を慎んだ。清流派に共鳴し167年第一次党錮の禁を解く。68年霊帝即位後大将軍。陳蕃と宦官の誅滅を計画するが反撃に遭い戦となり敗れて殺された(第二次党錮の禁)。

【孔安国】
前2C-前1C頃、前漢の学者。孔子の子孫。景帝、武帝に仕えた。孔子の旧宅の壁の中から発見された古文で書かれた経書を解読し当時流布していた経書(今文)との異同を分析し古文学を起こした。古文の「尚書」には今文にない逸書(孔安国伝本)があったがこれは永嘉の乱で散逸した。

【司馬相如】
前2C、前漢の詩人。成都出身。漢賦の巨匠。孝王や武帝に評価され保護を受けた宮廷文人。孝王の狩猟を描いた「子虚の賦」を武帝が気に入り、新たに皇帝の狩猟を描いた「上林の賦」を作成した(合わせて「天子游獵賦」)。富豪の娘卓文君との駆け落ちでも知られる。西南夷工作の発案者。

【桓譚】
1C前、前漢末-後漢初の官僚、思想家、音楽家。前漢、新、後漢の各王朝に仕官したが出世せず。合理主義者として知られ、当時流行し王莽や光武帝も利用した讖緯を迷信として批判、光武帝にも直言したため左遷された。霊魂の不滅も火と燭にたとえて否定。主著は「新論」だが現存せず。

【漢の賈逵】
1C、後漢の儒学者、天文暦学者。明帝の時流行に乗じて「春秋左氏伝」を讖緯で説き漢王朝の劉氏が聖天子堯の後裔であることの証左を示し評判となる。今文と古文の異同を分析し古文学の発展に寄与。四分暦の修正を任され暦理論書「賈逵論暦四則」を著す。宮中では班固の同僚であった。

【何休】
2C、後漢の儒学者。陳蕃に推挙されて仕官したが党錮の禁に連座して失脚した。「春秋公羊伝」こそが「春秋」の唯一の注釈書であると考え「春秋左氏伝」「春秋穀梁伝」を批判。「春秋公羊解詁」を著して公羊学を大成した。公羊学は清代に盛んになり戊戌変法派官僚の思想的柱となった。

【馬融】
2C、後漢中期の儒学者。春秋三伝の異同を研究するなど多くの経書の注釈を行ったが、多くが散逸した。儒家の規範にとらわれない破天荒な言動で知られ、女人を侍らせ歌舞を楽しみながら講義をしたという。弟子に盧植、鄭玄がいる。清流派からは「濁流」と非難された。

【蔡邕】
2C、後漢末の官僚、儒家、書家。文人、音楽家としても名高かったが出世を嫌った。焚書坑儒以降の経典の乱れを憂いて校訂を奏上して許され、七経20余万時を石碑に刻んで洛陽太学門外に建てた(熹平石経)。189年董卓が実権を握ると重用され、92年董卓を打倒した王允に危ぶまれ獄死。

【許慎】
2C前、後漢の文字学者。河南省漯河出身。経書に通じ「五経無双」と呼ばれた。主著は最古の部首別漢字字典「説文解字」。篆書体漢字1万字を540の部首に分けて体系付けた。王莽政権の反動で後漢政府が訓詁学を軽視したことに抗して編纂した。他に「淮南子」の注釈書「淮南鴻烈間詁」。

【王充】
1C、後漢の文人、思想家。主著は百科全書的大著「論衡」全30巻。徹底した合理主義、実証主義で陰陽五行思想、讖緯説、非現実的古伝などを迷信として否定。儒教も批判の対象にしたので、宋代以降異端視されたが近代の再評価され文化大革命時の批林批孔運動にも利用された。

【華佗】
2C-3C初、後漢末の医師。薬学・鍼灸に通じ、「神医」と呼ばれた。麻沸散という麻酔薬を使用したという。曹操の典医となるが、待遇に不満を持って帰郷したことが曹操の逆鱗に触れ殺された。著作は残っていない。「三国志演義」では周泰、孫策、関羽を治療する場面がある。

【張機】
2C後-3C前、後漢末の医師。張仲景。医聖。親族の多くを疫病で亡くし、官職を辞して医学を志す。主著は伝染病治療法を病期(ステージ)毎に記した「傷寒論」と、病類別に治療法を記した「金匱要略」で、いずれも漢方医学の重要な古典。南陽市は彼が餃子の考案者と主張。

【董卓】
2C後漢末の武将。涼州出身で羌族と交流した。黄巾賊討伐に参加。189年霊帝の没後何氏に擁立された少帝弁を廃して献帝を擁立し実権を握る。洛陽の貴族邸を略奪するなど暴政を敷いた。袁紹らが反董卓の兵を挙げると長安に遷都。撤退に際して洛陽に放火。192年側近の呂布に殺された。

【霊思何皇后】♀
2C、後漢の霊帝の皇后。少帝弁の母。異母兄は大将軍の何進。宋皇后の廃后後立后。夫の愛が劉協(献帝)の母、王美人に移ると嫉妬して毒殺したが廃后は免れた。189年夫の崩御後、子の摂政皇太后となり董太后を追放。クーデタで実権を握った董卓に罪を問われ殺害された。

【少帝弁】
2C末、後漢末期の皇帝(位189)。劉弁。霊帝の崩御後、母の何太后と伯父の何進により擁立され17歳で即位。袁紹らのクーデタの際宦官に連れ去られるが董卓に救出される。同年董卓によって廃位され異母弟の陳留王が即位(献帝)。弘農王に封じられるが翌年董卓の命で毒殺された。

【漢の献帝】
2C末-3C前、後漢最後の皇帝(位189-220)。劉協。即位前は陳留王。退位後は魏の山陽公。父は霊帝、異母兄は少帝弁。董卓に擁立され兄帝から禅譲。196年から曹操の庇護を受け214年その娘を皇后とする。20年曹操の死後曹丕に帝位を禅譲(後漢の滅亡、三国時代開始)。

【呂布】
2C末、後漢末の官僚、武将。189年主の丁原を暗殺し董卓に仕える。192年には王允と結んで董卓を暗殺し一時朝政を掌握。194年張邈とともに曹操の本拠地を攻撃し苦しめる。徐州では劉備と戦った。最期は曹操に捕らえられ処刑された。伝承・創作では最強の英雄として描かれる。

【袁紹】
2C末-3C初、後漢末の官僚、武将。189年少帝即位後、何進と協力して宦官勢力を皆殺しにする。その後董卓と抗争し、反董卓連合軍の盟主となるが決め手を欠き191年解散。中原北部に大勢力を築くが、200年官渡の戦いで曹操に破れた。202年病死。後継ぎ争いで袁氏は衰退した。

【孫堅】
2C末、後漢末の武将。「江東の虎」。孫策、孫権の父。漢王朝に仕え、反乱鎮圧に活躍するうちに軍閥化。190年反董卓連合軍に参加。191年陽人の戦いで勝利し洛陽に入る。この際董卓軍が暴いた歴代皇帝の陵墓や霊廟を修復した。同年襄陽の戦いで劉表を追い詰めたが戦死。

【孫策】
2C末、後漢末の武将。孫堅の長子。孫権の兄。192年に父が死ぬと軍勢は袁術に吸収されたが、少しずつ将兵を集め、195年劉繇を倒して江東を平定。197年袁術から独立。199年袁術の死後その軍勢を手中にする。200年に官渡の戦いに乗じて曹操を攻めるが刺客により暗殺された。

【周瑜】
2C末-3C、後漢末の武将。孫策とは幼い頃からの親友。魯粛を招いて孫策に合流し孫策の死後は孫権に臣下として仕えた。赤壁の戦いでは魯粛とともに主戦論を主張。黄蓋の進言を採用して曹操軍艦船の焼き討ちを行った。210年急逝し、魯粛が後を継いだ。側室は絶世の美女とされる小喬。

【張昭】
2C-3C、後漢末-三国時代の武将。孫策に挙兵時から仕えた。孫策の死後は孫権を補佐。孫権の虎狩りを諌めるなど教育係としての役割を長年務めた。赤壁の戦い前には降伏派の一人だった。232年公孫淵との同盟に反対し孫権と対立したが公孫淵の裏切りにあって孫権が謝罪した。

【黄蓋】
2C-3C、後漢末の武将。孫堅、孫策、孫権に仕えた。江東制覇中は統治が困難な地域を任されたが、領民に評判が良かった。赤壁の戦いでは偽りの投降と艦船の焼き討ちを周瑜に進言。この策は大成功するが、自身はこの戦で戦死しかける。「三国志演義」では鉄鞭の使い手となっている。

【甘寧】
2C-3C、後漢末の武将。益州出身で、長年不良集団を率いる賊のような生活をしていた。一時黄祖に仕えるが冷遇され、周瑜と呂蒙の推薦で孫権に仕える。208年黄祖を攻め攻略。216年濡須口の戦いでは決死隊を組織して曹操軍を夜襲している。短気・粗暴を示す逸話も多い。

【魯粛】
2C末-3C、後漢末の武将。孫権に仕えた。諸葛亮の天下三分の計に先んじて長江以南に割拠する戦略を献策。赤壁の戦いでは降伏派が多い中、周瑜とともに主戦論を主張した。曹操軍を退けた後は劉備陣営との連携(孫劉同盟)に尽力し、周瑜の死後は孫権陣営の舵取り役として活躍した。

【呂蒙】
2C末-3C、後漢末の武将。孫策、孫権に仕えた。黄祖との戦い、赤壁の戦い、合肥の戦いなど歴戦に活躍。217年曹操の遠征軍を撃退。219年関羽が樊城の戦いに出ていた隙に荊州を占拠し関羽を破った。従軍しながら学問を身につけ、魯粛にー「呉下の阿蒙に非ず」と評された故事が残る。

【陸遜】
3C、後漢末-三国時代の武将。呉に仕えた。山越討伐で活躍。219年呂蒙とともに関羽を攻めて打倒。222年夷陵の戦いでは全軍を指揮して蜀漢軍を撃退。劉備の死後は諸葛亮と交渉し蜀漢との和平を維持。228年石亭の戦いで魏の曹休を破る。245年二宮事件のさなかに死去。

【顧雍】
2C-3C、後漢末-三国時代の官僚。呉に仕えた。少年期に蔡邕に学んだという。孫権の信頼厚く、225年張昭を差し置いて丞相となる。19年間丞相に在任し243年に死去した。酒を飲まず寡黙で、公平無私な人物として知られ、その死後から呉は二宮事件の混迷に陥る。

【呂岱】
3C、三国時代の呉の武将。南方の山賊、盗賊、異民族討伐に活躍。215年長沙征服に貢献。220年から交州刺史。26年有力豪族の士燮の死後その一族を滅ぼす。扶南(カンボジア)、チャンパに使者を送り服属させる。80代まで戦場で活躍し96歳で死去するまで健在な元老であった。

【諸葛恪】
3C三国時代の呉の官僚。諸葛亮の甥。父は諸葛瑾。234年計略を用いて4万人の山越兵を帰順させる。246年から大将軍。252年孫権が死ぬと対立していた孫弘を誅殺し実権を握る。同年東興の戦いで魏軍に大勝。翌年勢いに乗って魏を攻めたが大敗し、孫峻に誅殺された。

【董昭】
2C-3C、後漢末-三国時代の官僚。曹操に仕えた。196年許都への遷都を進言。207年烏桓征伐のため運河を建設。213年には曹操が献帝から九錫を得て魏公となるよう進言(魏の建国)。曹操死後も曹丕(文帝)、曹叡(明帝)に仕えた。「三国志演義」では菜食主義者とされている。
【徐晃】
2C-3C、後漢末-三国時代の武将。曹操に仕えた。200年官渡の戦いで袁紹軍の輸送隊を襲い、数千台の穀物輸送車を焼き払う。219年樊城の戦いで関羽を破り包囲されていた曹仁らを救出した。慎重な用兵と謙虚な人柄で人望が厚かったという。「三国志演義」では大斧の使い手とされる。

【荀彧】
2C-3C初、後漢末の軍師。当初袁紹に仕えたがのちに曹操に従う。実戦には従軍せず、常に曹操の参謀として助言を与えた。196年献帝を迎えるよう進言。200年の官渡の戦いの前には袁紹の武将達の弱点を指摘したという。212年曹操の魏公就任には漢王朝への忠義を主張して反対した。

【荀攸】
2C-3C、後漢末の軍師。後漢の官僚であったが董卓の専横に憤り暗殺を計画するが失敗。親戚の荀彧の推薦で曹操に仕える。思慮深い策略で呂布討伐や袁氏討伐に貢献したという。荀彧とは異なり曹操が魏公となることを支持したが、「三国志演義」では荀彧とともに反対したことになっている。

【荀悦】
2C後-3C初、後漢末の歴史家。曹操の軍師荀彧の親族。曹操に保護されていた献帝に仕え、侍従として談論の相手となった。班固の「漢書」が大部に過ぎると考えた献帝の命で簡便な編年体の「漢紀」30篇を編纂した。思想書「申鑒」には迷信を否定する合理主義が伺える。

【郭嘉】
2C-3C、後漢末-三国時代の軍師。荀彧に推挙されて曹操に仕えた。袁紹との開戦に不安を抱く曹操に対し十の勝因を挙げて鼓舞した。洞察力に優れ、劉備、孫策、袁紹とその一族、公孫康らの行動や決断を予測し的中させたという。207年38歳で病死、曹操は慟哭したという。

【賈詡】
2C-3C、後漢末-三国時代の軍師。当初張繍に仕え曹操軍と戦ったが、官渡の戦いの前に袁紹に降ろうとする張繍を説得して曹操に降った。曹操は私怨を捨てて張繍軍を厚遇し賈詡を抜擢、以後曹操の軍師として活躍した。後継者問題では袁紹と劉表の事例を示して暗に曹丕を支持した。

【程昱】
2C-3C、後漢末-三国時代の武将。曹操に仕えた。早くから劉備の危険性を指摘し殺すよう進言していた。袁氏との戦いでは避難民から精兵を募り別働隊を編成し勝利に貢献した。あるとき突然引退を申し出たが、曹丕(文帝)が即位すると復職した。「三国志演義」では小悪党として描かれる。

【張遼】
2C-3C、後漢末-三国時代の武将。呂布に仕えたが、198年呂布が曹操に敗れてからは曹操に仕えた。官渡の戦い、白狼山の戦いなどに活躍。215年合肥の戦いでは手薄な守備隊で呉の総攻撃を撃退した。「泣く子も黙る」の語源。「三国志演義」では敵将関羽との友情が描かれる。

【賈逵】
2C-3C、後漢末-三国時代の軍師。群の役人のとして袁紹の配下の郭援の反乱から城を死守した。その後曹操に仕え、その葬儀を取り仕切った。曹丕(文帝)の治世に同じく呉との前線を担当し折り合いの悪かった曹休が呉軍に大敗した際、その危機を救援した。大運河・賈侯渠にその名を残す。

【関羽】
3C中国三国時代、蜀漢の武将。後漢末の戦乱で劉備に従い、張飛とともに蜀漢の樹立に貢献した。219年呉の将軍呂蒙に追い詰められ戦死。明代以降「三国志演義」の中心人物として大衆的人気を博し、孔子を祭る文廟と並び関羽を祀る武廟が各地に建てられ、武神、商神として崇められた。

【龐統】
3C、後漢末の軍師。諸葛亮と並び劉備に仕えた。入蜀の際、劉璋の将軍を騙し討ちにする策を講じ、白水関占領を成功させたが、成都包囲戦で戦死。趣味は人物批評。「三国志演義」では赤壁の戦いに際して曹操に「連環の計」を進言する謀略の実行者となっている。

【法正】
3C、後漢末の軍師。始め劉璋に仕えたが、親友の張松とともに劉備の入蜀に協力し、その後劉備に仕えた。龐統の亡き後は軍師を任され、219年定軍山の戦いに従軍し勝利に導いたが、直後の220年病死。劉備、諸葛亮ともにその死を惜しんだという。

【馬謖】
3C、後漢末-三国時代の武将。劉備に仕えた。諸葛亮に重用されたが、劉備は彼を信頼していなっかたという。228年第1次北伐の街亭の戦いにおいて諸葛亮の命令に背き、蜀軍の惨敗を招いた。諸葛亮は軍規に従って惜しみつつも彼を処刑した(泣いて馬謖を斬る)。

【魏延】
3C、後漢末-三国時代の武将。劉備に仕えた。諸葛亮に重用され、227年、234年の北伐に従軍した。諸葛亮の死後指揮権をめぐって楊儀と対立。人望がなかったため彼の味方をするものは少なく、謀反人として殺された。「三国志演義」では諸葛亮の祈祷を妨害してしまう場面でも知られる。

【蒋琬】
3C、後漢末-三国時代の官僚。蜀漢に仕えた。政治手腕に優れ、諸葛亮に「社稷之器」と評される。劉備の死後劉禅と丞相の諸葛亮を支え、諸葛亮の死に際して後事を託された。諸葛亮の遺志を継いで北伐を準備したが実行前の246年に死去。

【費禕】
3C、後漢末-三国時代の官僚、武将。蜀漢に仕えた。諸葛亮に信頼され、使者として赴いた際に孫権にも高く評価されたという。幕中でいがみあった魏延と楊儀を諭した。243年から蔣琬の後を継ぎ大将軍となり、244年の魏の侵攻を防衛。北伐には一貫して反対し、国力充実優先を主張した。

【曹植】
2C末-3C前、三国時代の魏の皇族。陳王。父は曹操、兄は曹丕(文帝)。建安文学を代表する文人。兄の「文章経国」思想とは対照的に国政の場での活躍を望んだが、兄によって政治から遠ざけられた。傑作「洛神賦」は兄帝の皇后甄氏に対する思慕を描いた「感甄賦」の改題という伝承がある。

【曹叡】
3C中国三国時代魏の第2代皇帝(位226-39)。明帝。曹操の孫で、曹丕(文帝)の子。司馬懿、曹真、陳羣らの補佐を受け、蜀漢・呉との天下三分を維持した。238年司馬懿に命じて遼東の公孫淵を討伐。東方の諸民族との関係を強化し、39年邪馬台国の卑弥呼を「親魏倭王」に任じた。

【司馬懿】
3C、後漢末-三国時代の武将。曹操に請われて魏に仕えた。曹丕(文帝)に重用される。曹丕の死に際して曹叡(明帝)の補佐を託された。234年諸葛亮が陣中で病死した蜀漢の北伐を防衛(五丈原の戦い)。238年公孫淵を討伐。249年高平陵の変で曹爽を追放し、魏の全権を握った。

【毌丘倹】
3C、三国時代の魏の武将。曹叡(明帝)に重用された。237年遼東の公孫淵を攻めるが苦戦。翌年司馬懿の指揮で勝利(遼隧の戦い)。44年高句麗の東川王を征伐。53年呉の諸葛恪の北伐を撃退。55年文欽とともに司馬師の専横に反乱したが敗れて呉への亡命を図るが逃走中に戦死。

【公孫康】
3C前、後漢末-三国時代の遼東公孫氏の武将。父は公孫度、子は公孫淵。204年から父を継いで遼東太守。同年楽浪郡を分割して南部に帯方郡を設置し朝鮮半島南部に進出した。白狼山の戦いに敗れ落ち延びてきた袁煕・袁尚兄弟と烏桓の族長らの首を曹操に献上し後漢から列候された。

【公孫淵】
3C前、三国時代の遼東公孫氏の武将。公孫康の子。呉と密通し孫権から燕王に任じられるがその使者の首を魏に献上。237年燕王として自立を宣言。翌年魏の司馬懿により追討され滅亡(遼隧の戦い)。公孫氏の滅亡により「東夷」へのルートを魏が掌握し邪馬台国との通行が可能になった。

【曹爽】
3C前、三国時代の魏の武将、官僚。曹叡(明帝)に信任され、その遺言により司馬懿とともに幼年皇帝の曹芳を補佐するが次第に司馬懿と対立。244年大功を立てようと蜀漢を攻めるが失敗(興勢の役)。49年郭皇太后と共謀した司馬懿のクーデタによって打倒された(高平陵の変)。

【鄧艾】
3C三国時代の魏の武将。曹芳、曹髦、曹奐の治世に司馬懿、司馬昭に重用される。「済河論」で運河整備を進言。蜀漢の姜維の執拗な北伐を何度も撃退。236年鍾会らと蜀漢に攻め入り、諸葛瞻・諸葛尚父子らを破って滅ぼすが、鍾会の反乱に巻き込まれて殺された。無類の豚足好きと伝わる。

【鍾会】
3C三国時代の魏の武将。曹芳、曹髦、曹奐の治世に司馬昭に重用された。263年鄧艾とともに蜀漢を攻めて滅ぼす。ここで鄧艾を告発して遠征軍の指揮権を握ると野心を抱き、蜀漢の遺臣・姜維と結んで自立を図り魏に反逆したが将兵に反逆され殺された。文人としては名家の説に通じていた。
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【劉禅】
3C、三国時代の蜀漢の第2代皇帝(位223-63)。劉備の子。17歳で即位。諸葛亮、蒋琬、董允らの補佐を受けて国を維持。宦官の黄皓を重用すると国政は乱れ、263年侵入した魏の鄧艾に降伏(蜀漢の滅亡)。魏・西晋で爵位を与えられ71年没。「三国志演義」で暗君の印象が定着。

【姜維】
3C三国時代の蜀漢の武将。諸葛亮の遺志を継いで何度も北伐を行ったが失敗。国内では内政の充実を優先する声が強まり孤立した。263年魏の司馬昭の遠征時には鍾会の軍と対峙したが鄧艾により蜀漢は滅亡。鍾会の反乱を利用して蜀漢を復興しようと企んだが失敗し殺された。

【司馬昭】
3C、三国時代の魏の武将。父は司馬懿、子は司馬炎(晋の武帝)。少年皇帝曹髦と郭皇后を奉じて実権を握る。257年諸葛誕の反乱を鎮圧。60年挙兵した曹髦を暗殺し曹奐を擁立。63年蜀漢を滅ぼす。64年晋王となる。陰謀に長け西晋建国の足固めをしたが最期まで帝位を簒奪せず。

【孫皓】
3C後、三国時代の呉の最後の皇帝(位264-80)。孫権の孫。23歳で即位。臣下や皇族の残虐な粛清を繰り返し讖緯説に傾倒して国政を乱す。民心は離れ臣下の多くが晋に亡命。晋は彼の無謀な北伐計画を恐れたが、279-80年晋の司馬炎の総攻撃に敗れ降伏、諸侯に封ぜられた。

【山濤】
3C三国時代の魏-西晋の文人、官僚。山巨源。「竹林の七賢」の一人。老荘思想に耽って嵆康・阮籍らと交遊したが40代になって司馬氏に仕えたため、袂を分かった。この時に嵆康から送られた「絶好書」が知られる。司馬昭(文帝)に重用され、西晋でも官僚として活躍。

【劉伶】
3C三国時代の魏-西晋の文人。劉伯倫。「竹林の七賢」の一人。老荘思想に耽って嵆康・阮籍らと交遊したという。酒に溺れた七賢の中でも酒好きで知られ、「酒徳頌」を残す。礼経を軽んじた破天荒な言動が伝わり、絵画には裸の姿で描かれることが多い。

【阮咸】
3C三国時代の魏-西晋の文人。阮仲容。「竹林の七賢」の一人。老荘思想に耽って嵆康・阮籍らと交遊したという。山濤が官職に推挙するが、司馬炎はその飲酒と言動を問題視し却下した。音律に精通し、琵琶の名手であった。亀茲伝来の琵琶を改造し彼の名を冠した楽器「阮咸」が正倉院に残る。

【向秀】
3C三国時代の魏-西晋の文人。向子期。「竹林の七賢」の一人。老荘思想に耽って悠々自適の生活を送り、特に嵆康と親しかった。「荘子」の注釈が名高い。鍾会の讒言により親友の呂安と嵆康が処刑されると一転して官職に就いた。呂安、嵆康と過ごした日々を偲ぶ「思旧賦」が残る。

【王戎】
3C三国時代の魏-西晋の文人、官僚。王濬沖。「竹林の七賢」の一人。若い頃は老荘思想に耽って悠々自適の生活を送り、特に阮籍と親しかった。官僚として司馬昭、司馬炎(武帝)に仕え、279年呉打倒時にも活躍。利殖に長けて莫大な財をなし、吝嗇家(ケチ)としての逸話でも知られる。

【何晏】
3C三国時代の魏-晋の官僚、学者。「論語集解」「老子道徳論」を編纂。清談の気風を開き、玄学(老荘の学)の開祖とされる。曹爽が晋の実権を握ると側近として政権の中枢に入ったが、249年高平陵の変で司馬懿に打倒され処刑された。五石散の常習者、ナルシストとしても知られる。

【裴秀】
3C、三国時代の魏、西晋の官僚、地理学者。「中国のプトレマイオス」。曹爽、司馬昭、司馬炎(武帝)に重用された。晋の官制、土地制度の整備に尽力。「禹貢地域図」を製作し経緯網や縮尺、幾何学的知見を使用した先駆的で正確な地図製作法を確立。最期は五石散中毒による錯乱で死去。

【郭象】
3C後-4C初、西晋の思想家、官僚。郭子玄。青年時代から清談を好み「懸河の弁」と評されたが八王の乱後東海王司馬越に重用され一転して権勢を誇示した。当時流布していた「荘子」の真正な部分を残して定本を定め、注釈で身分秩序を含めた現状をありのままに受け入れることを説いた。

【司馬倫】
3C後半-4C初、西晋の皇族。八王の乱の八王の1人。父は司馬懿。趙王。恵帝の皇后賈南風に取り入り出世。300年賈南風を裏切って斉王司馬冏らとクーデタを起こし賈一族を打倒。政権を掌握し01年帝位を簒奪。淮南王司馬允が挙兵し多くの皇族がこれに呼応、敗れて殺された。

【司馬顒】
3C末-4C初、西晋の皇族。河間王。八王の乱の八王の1人。301年趙王司馬倫が恵帝から帝位を簒奪すると斉王司馬冏と共にこれを打倒し恵帝を復位させた。翌年長沙王司馬乂らと共に政権を握っていた司馬冏を打倒。その後も皇族同士抗争するが06年南陽王司馬模の武将に殺された。

【西晋の懐帝】
4C前、西晋の第3代皇帝(位307-11)。司馬熾。父は初代皇帝武帝(司馬炎)。東海王司馬越に擁立され即位(八王の乱の終結)。308年匈奴の劉淵が漢(前趙)を建国すると五胡が次々に自立。11年漢の軍勢により洛陽が陥落し捕虜となり(永嘉の乱)、13年処刑された。

【西晋の愍帝】
4C前、西晋最後の皇帝(位313-16)。司馬鄴。祖父は司馬炎(武帝)。即位前は秦王。311年永嘉の乱を逃れる。叔父の懐帝が漢(前趙)の劉聡に処刑されたため長安で即位。漢の猛攻に敗北を重ね、16年降伏。屈辱的な処遇を受けた上で処刑された(西晋の滅亡)。

【劉淵】
3C末-4C初、五胡十六国時代の前趙(当初の国号は漢)の初代皇帝(位304-310)。山西出身の匈奴。西晋の軍人として台頭。八王の乱に乗じて304年大単于を称し漢王朝の復興を掲げて山西に自立(五胡十六国時代の始まり)。たびたび洛陽を攻めるが西晋の司馬越に撃退された。

【劉聡】
4C前、五胡十六国時代の漢(前趙)の第3代皇帝(位310-18)。昭武帝。山西高原出身の匈奴。父は初代皇帝劉淵。310年父帝の死後跡を継いだ兄の劉和を打倒し即位。西晋の打倒を図り11年洛陽を陥す(永嘉の乱)。16年長安を陥して愍帝を処刑(西晋の滅亡)。華北の覇者となる。

【劉曜】
4C前、五胡十六国時代の前趙の第5代皇帝(位318-29)。第3代皇帝劉聡の武将として311年洛陽攻略(永嘉の乱)、16年長安攻略(西晋の滅亡)に活躍。18年即位して靳準のクーデタで滅んだ漢を再興し国号を趙に改める。石勒が東方に建てた後趙と抗争し敗れて処刑された。

【石虎】
4C五胡十六国時代の後趙の第3代皇帝。羯族。建国者の石勒の親族で、武将として華北の平定に貢献。333年石勒の死後実権を握り、337年から天王を名乗る。治世は暴虐で建設事業のため漢人を収奪した一方、仏図澄を重用して仏教を保護した。死後、漢人の養子・冉閔により後趙は滅亡。

【成漢の李雄】
4C前、五胡十六国の成漢の初代皇帝(位303-34)。巴賨族。建国者李特の子。304年益州に自立して成都王を名乗る(五胡十六国時代の始まり)。06年皇帝に即位(当初の国号は大成)。道士の范長生を重用。永嘉の乱を逃れた漢人の流民を受け入れて繁栄した。

【慕容皝】
4C前、五胡十六国時代の前燕の建国者、初代王(位337-48)。鮮卑族。遼東・朝鮮を拠点とし、東晋に冊封されていたが王を名乗って自立。38年後趙の石虎の遠征を撃退し逆に遼西に進出し龍城を建設。東方では高句麗の故国原王を破り服属させた。王国は漢族の流民を受け入れ繁栄。

【苻堅】
4C五胡十六国時代、氐族の国:前秦の第3代皇帝(位357-85)。世祖。王猛を重用して農耕と儒教を重視し、漢人の支持を得て華北統一に成功。中国統一を目指して378年以降大軍を南下させ東晋に挑んだが83年淝水の戦いで大敗。統治は一気に崩壊し85年羌族の後秦に打倒された。

【慕容垂】
4C後、五胡十六国時代の後燕の建国者、初代皇帝(位384-96)。鮮卑族。父は前燕の建国者慕容皝。父王の建国事業に貢献するが内部抗争により前秦に亡命。亡命先でも活躍後、中山に自立し河北一帯に後燕を建国。高句麗、西燕、東晋を破り広大な版図を形成するが北魏に敗れた。

【慕容沖】
4C、五胡十六国時代の西燕の初代皇帝(位384-86)。鮮卑族。前燕の皇族出身。美少年だったため前燕滅亡後前秦の皇帝苻堅に愛される。384年淝水の戦いで前秦が東晋に大敗したことに乗じて西燕を建てた慕容泓に合流。後を継いで皇帝を名乗り長安に入場。最期は部下に暗殺された。

【呂光】
4C末、五胡十六国時代の後涼の建国者、初代皇帝(位386-99)。氐族。382年前秦の武将として苻堅の命で西域に遠征し諸国を服属させる。この際鳩摩羅什と出会い参謀とする。83年淝水の戦い後の混乱に乗じて涼州(甘粛)に自立(後涼)。86年皇帝を名乗るが国政は不安定だった。

【姚興】
4C末-5C前、五胡十六国時代の後秦の第2代皇帝(位394-416)。建国者姚萇の子。羌族。前秦の残党勢力を滅ぼし、長安を拠点に華北西部に一大勢力を築いたが402年柴壁の戦いで北魏に敗れ徐々に衰退した。仏教を篤く信奉し後涼にいた鳩摩羅什を長安に招いて国師とした。

【沮渠蒙遜】
5C前、五胡十六国時代の北涼の実質的建国者で、第2代王(位401-33)。匈奴か。後涼の皇帝呂光の臣下だったが397年親族を誅殺されて挙兵。建康を占領し漢人の段業を涼王に擁立した(北涼)。401年自ら即位。巧みな外交で勢力を拡大。21年西涼を滅ぼし河西回廊を支配。

【赫連勃勃】
5C前、五胡十六国時代の夏の建国者、初代皇帝(位407-25)。武烈帝。匈奴。後秦の皇帝姚興の武将として台頭。夏王朝の末裔を名乗ってオルドス地方に自立。後秦や南涼に侵入を繰り返した。413年統万城を建設。19年東晋から長安を奪う。美貌と残忍さを示す逸話を多数残す。

【沮渠牧犍】
4C前、五胡十六国時代の北涼の第3代王(位433-39)。 哀王。父は実質的建国者の沮渠蒙遜。南北朝の双方に従属する立場にあり、南朝の宋から爵位を得る一方で北魏の太武帝と姻戚関係結んだ。439年北魏の侵攻を受けて捕縛され北涼はいったん滅亡(五胡十六国時代終わる)。

【郁久閭社崙】
4C末-5C初、柔然の初代可汗。北魏に追われてモンゴルに逃れた柔然部族を再興。高車を攻略、匈奴の残存勢力も滅ぼし、東トルキスタンからバイカル湖にまでいたる大帝国を築く。402年と409年には長城を越えて北魏に侵攻。410年北魏の明元帝の討伐軍に敗れて敗走中に没。

【道武帝】
4C末-5C初、北魏の創始者(位398-409)。拓跋珪。鮮卑族拓跋部の代の王子で、386年に代を復興し国号を魏に改称(北魏)。柔然や高車など討ち華北を支配。398年平城を都として皇帝に即位。漢民族の文化を取り入れ、仏教を保護した。晩年は精神を病んで子に殺害された。

【崔浩】
5C前、北魏の宰相。漢人。明元帝、太武帝に仕えた。太武帝の華北統一に軍師として貢献。南朝をモデルにした貴族制の整備を推進。道士の寇謙之に共鳴して「三武一宗の法難」の一つである廃仏を進言。鮮卑族と漢人の融和を目指したが国史編纂において拓跋氏を侮辱したとみなされ誅殺された。

【北魏の文成帝】
5C北魏の第4代皇帝(452-465)。祖父である第3代太武帝が宦官の宗愛に殺害され、紆余曲折ののちに即位。民力休養を旨とし、開墾殖産を奨励した。祖父が行った仏教弾圧を廃止。曇曜に命じて雲崗石窟の造営を始め、歴代皇帝を模した巨大仏像を作らせた(皇帝即如来)。

【曇曜】
5C北魏の太武帝の廃仏から復興した仏教教団の中心人物となった僧。文成帝、献文帝、孝文帝の3代の皇帝に仕えた。雲崗に石窟寺院を造営し、「皇帝即如来」の考えを反映した大仏を彫らせた(曇曜五窟)。征服民、貧民、奴婢を集めて僧祇戸・仏図戸を創設し復仏事業の財政基盤を確立した。

【宋雲】
6C前、北魏の官僚。敦煌出身。518年霊太后の命で僧の恵生とともに洛陽を発って経典を求めて天竺へ向かう。西域南道を経由して20年インドに入り広く仏跡を訪ね22年大乗の経論170部を持ち帰り洛陽に帰還。旅行記の「宋雲行紀」は楊衒之「洛陽伽藍記」の巻末付録に断片が残る。

【酈道元】
6C前、北魏の文人。孝明帝に仕え辺境に州県を設置する任務を任され各地を視察。主著は地理書「水経注」全40巻。古来伝わる「水経」の注釈書で中国各地の河川について地形、産物、鉱物、風俗、歴史などを記述。実地調査に基づく研究書ながら駢文による景観の詩的な表現も評価が高い。

【賈思勰】
6C、北魏の文人。高陽郡太守を務めた。農法に精通し総合的農書「斉民要術」全10巻を著した。「氾勝之書」など従来の農書を豊富に引用。乾燥化し荒廃した華北に適した作物の栽培法、畜産法、醸造などの加工法、販売法、調理法までを体系的にまとめ、宋代まで地方官の必携書となる。

【孝明帝】
6C前、北魏の皇帝(位515-28)。5歳で即位。母の霊太后が垂簾聴政を行った。20-23年皇族の元叉が霊太后を幽閉し実権を握る。23年六鎮の乱が発生。25年霊太后が政権に復帰。成長していた彼は母を排除しようと爾朱栄に接近するが、先手を打った母に毒殺された。享年19。

【霊太后】♀
6C前、北魏の宣武帝の妃で孝明帝の母。胡氏。515年息子が幼年で即位すると摂政として垂簾聴政を行う。仏教を篤く信仰し16年洛陽城内に永寧寺を建立。九重の大塔は高さ100m以上あったという。28年息子を毒殺し元釗を帝位につけるが挙兵した爾朱栄に打倒された(河陰の変)。

【爾朱栄】
6C前、北魏の武将。反乱を次々に平定し台頭。528年霊太后が実子である孝明帝を殺すと挙兵。霊太后を打倒し朝臣も一掃して孝荘帝を擁立、政権を握った(河陰の変)。29年六鎮の乱を平定。30年専横を憎んだ孝荘帝に誅殺されたが、甥の爾朱兆ら一族が復讐を果たし政権を奪い返した。

【孝荘帝】
6C前、北魏の皇帝(位528-30)。元子攸。即位前は長楽王。孝明帝が霊太后を殺害すると挙兵した爾朱栄に加勢、霊太后を打倒し即位(河陰の変)。実権は爾朱栄が握り、29年元顥の反乱も爾朱栄の力で鎮圧。30年爾朱栄を謀殺するが爾朱兆らの挙兵を招き敗れて殺された。

【爾朱兆】
6C前、北魏の武将。孝荘帝の治世で叔父の爾朱栄が政権を握ると出世。530年伯父を謀殺した孝荘帝を打倒して洛陽を略奪。兄弟とともに政権を握るが、31年高歓の離間の計に嵌って兄弟の結束が乱れ大敗。兄弟とは和解するが32年韓陵の戦いでも高歓に大敗。敗走を続け33年自害。

【高歓】
6C前、北魏、東魏の武将。爾朱氏による動乱を尻目に自立し31年元朗を擁立して爾朱氏の擁する元恭に対抗。32年韓陵の戦いで爾朱氏の軍勢を撃破し洛陽で孝武帝を擁立。やがて孝武帝とも敵対し34年鄴で孝静帝を擁立(東魏)。実権を握り西魏と激しく抗争するが決定打を欠いたまま死去。

【孝静帝】
6C前、北朝の東魏の唯一の皇帝(位544-50)。元善見。北魏の皇族出身。孝武帝と対立した大丞相高歓に擁立され11歳で即位。鄴に遷都し華北平原を支配(東魏)、渭水盆地の西魏と対峙したが実権は高一族が握った。50年高洋に帝位を譲る(東魏滅亡、北斉成立)。52年毒殺。

【文宣帝】
6C、北斉の初代皇帝(位550-59)。高洋。東魏の実権を握っていた父の高歓、兄の高澄の後を継ぐ。義弟でもある東魏の孝静帝に禅譲を迫って帝位につく。産業を振興して富国強兵策を行って北周、突厥を破った。一方で猜疑心が強い暴君で国内では鮮卑と漢人の抗争が激化した。

【孝閔帝】
6C後、北周の初代天王(位557)。宇文覚。西魏の大冢宰宇文泰の嫡子。母は北魏の皇族。556年父が死ぬと15歳で大冢宰を継ぎ周公となる。57年西魏の恭帝から禅譲を受け即位。周王朝に習って天王を称した。一族の宇文護が補佐し実権を握ったがこれを排除しようとして殺された。

【北周の武帝】
6C後、北周の第3代皇帝(位560-78)。宇文邕。父は宇文泰、兄は初代皇帝孝閔帝。兄を暗殺し実権を握っていた皇族の宇文護を572年誅殺。衛元嵩の上申で道仏二教を弾圧(「三武一宗の法難」の一つ)。南朝の陳と盟約して共に北斉を攻め77年北斉を滅ぼし華北を再統一。

【王導】
3C末-4C前、晋の官僚。琅邪王司馬睿に仕える。西晋の滅亡を予見してあらかじめ司馬睿を建康に移し、西晋が匈奴系の漢(前趙)に滅ぼされると、317年司馬睿を擁立し(元帝)、東晋を樹立。宰相として明帝、成帝にも仕え339年まで東晋を支えた。江南土着の豪族との融和を重視した。

【郭璞】
4C前、東晋の文学者・卜者。超人的な予言者・妖術師として数々の伝承を残す。河東(山西省)出身だが五胡十六国時代の到来を予期して江南に移ったという。王導を卜筮の術で補佐し重用された。324年反乱を起こした王敦に殺された。詩作は「遊仙詩」「江賦」、注釈は「山海経」など。

【桓温】
4C、東晋の官僚、軍人。347年四川の成漢を滅ぼす。56年姚氏を破って洛陽を奪還。政権を握る。63年華北からの流民を戸籍登録し課税と徴兵の対象とした(庚戌土断)。64年前燕に洛陽を奪われ69年北伐を行うが慕容垂に大敗。72年以降孝武帝からの譲位を目論むが謝安らが阻止。

【謝安】
4C東晋の官僚。若い頃は出仕せず清談に耽り、王羲之とも親交があった。帝位を自らに禅譲させようとする武将・桓温の企てを阻止。373年から宰相。383年前秦の苻堅の南進に対し、弟の謝石、甥の謝玄らに軍を預けて撃退した(淝水の戦い)。このとき平然と碁を打っていた逸話が残る。

【車胤】
4C後、東晋末期の官僚。博学で孝武帝を補佐した桓温、謝安らに重用された。清談に長け宴会でも重宝された。400年司馬元顕の暴政を弾劾しようとしたが先手を打たれ自害。寒門に生まれ幼少期の夏の夜に蛍の光で勉強した逸話が唐代に初学テキストの「蒙求」冒頭に掲載され広く知られる。

【王献之】
4C東晋の書家。「書聖」王羲之の七男(末子)。その書は特に南朝の士大夫に支持され、書格においてはおよばずとも優美さで父をしのぐといわれ、父とともに「二王」と称された。官僚としても宰相格まで出世し、東晋皇室の公主を娶った。娘の王神愛は東晋の安帝の皇后。

【支遁】
4C、東晋の僧。華北の動乱を避けて江南に移住。サンスクリット語経典を老荘思想の用語で理解しようと努めた格義仏教の代表的人物。「道行般若経」の「空」による現象理解は老荘思想の「無」の思想を超えるとし、清談を通じて謝安、王羲之ら一流の文人の関心を仏教に引きつけた。

【葛洪】
4C前、東晋の道士。葛仙翁。抱朴子。丹陽(江蘇省)出身。後漢末の左慈の仙流を継ぐ。広東の聖山羅浮山にこもり煉丹術と著述にふけった。主著は90人以上の仙人の説話集「神仙伝」、神仙思想と煉丹術の理論書「抱朴子」。修行によって仙人になれるという神仙可学の立場をとる。

【東晋の孫恩】
4C末-5C初、東晋末の反乱指導者。琅邪出身。五斗米道集団の教祖だったが399年反乱を起こす。反乱は司馬元顕の暴政に不満を持つ人々の支持を得て江蘇省・浙江省一帯に広がるが劉裕率いる官軍に鎮圧され401年自害。残党は盧循を指導者として抵抗を続ける(孫恩・盧循の乱)。

【桓玄】
5C初、東晋を一時的に滅ぼした桓楚の初代皇帝(位403-04)。389年王恭の挙兵に乗じて長江中流域に勢力を張る。402年孫恩の乱に乗じて建康を占領して朝政を握っていた司馬道子・元顕父子を打倒、政権を奪う。安帝から禅譲を受けて即位。3ヶ月後に劉裕の挙兵により打倒された。

【劉裕】
5C南朝の宋の初代皇帝(位420-22)。武帝。儒教秩序の凋落と下克上の風潮を象徴する人物。東晋の軍人、宰相として東晋最後の北伐(10-17)などに活躍。13年華北からの避難民を戸籍登録する「義熙の土断」を行う。東晋の皇族を殺戮して20年皇帝に即位し宋を建国した。

【南朝宋の文帝】
5C、南朝の宋の第3代、全盛期の皇帝(位424-53)。兄の少帝が臣下に殺害された後即位。431年北魏と講和して平和を維持し学問・文化を奨励した(元嘉の治)。倭王讃、珍、済を安東将軍に任命。450年北魏に長江北岸まで侵攻される。最期は長子の劉劭により殺害。

【南朝の宋の孝武帝】
5C後、南朝の宋の第4代皇帝(位453-64)。劉駿。世祖。父は文帝。453年長兄の劉劭が父帝を暗殺すると兄を打倒し即位。その後も兄弟や一族を殺戮。門閥貴族を冷遇、地方官の任期を短縮して中央集権を図るが失敗。462年朝貢した倭王興を「安東将軍倭国王」に叙任。

【南朝の宋の順帝】
5C後、南朝の宋の最後の皇帝(位469-79)。劉準。兄の後廃帝を殺して実権を握った斉王蕭道成に傀儡として擁立され、79年帝位を斉王に禅譲(宋滅亡、斉建国)。1ヶ月後に殺された。78年遣使した倭王武を「使持節・都督六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に叙任。

【蕭道成】
5C、南朝の斉の初代皇帝(位479-82)。高帝。南朝宋の軍閥として北魏との戦いで活躍し台頭。477年後廃帝を暗殺して順帝を擁立し自らは斉王となる。2年後に即位。順帝をはじめ宋の皇族を多数殺害。倹約に努め、自らが軍事力の基盤とした私兵の制限を行ったが在位3年で死去。

【蕭子良】
5C後、南朝の斉の皇族。竟陵王。文宣王。仏教界では浄住子。父は武帝、兄は文恵太子。博学で一流の文人。建康郊外の西邸に文人を招いて保護し、蕭衍(梁の武帝)、沈約、謝朓、任昉ら「竟陵八友」を輩出し兄とともに永明文学を支えた。仏教を重んじ仏典を熱心に収集。

【沈約】
5C後、南北朝時代の南朝(宋、斉、梁)の官僚、文人。六朝文学の代表。斉の文化保護者であった竟陵王蕭子良のサロンで活躍した「竟陵八友」の1人。「四声八病説」を提唱して韻律の美を追求し永明体を創始、唐代の絶句、律詩成立に大きな影響を与えた。斉の武帝の命で「宋書」を編纂。

【祖沖之】
5C南北朝時代の南朝(宗、斉)の天文学者、数学者。初めて歳差を考慮した大明暦を編纂。円周率の近似値を8桁まで推算した。これは14世紀末にインドのマーダヴァが更新するまで最も正確な値であった。

【蕭衍】
6C前、南朝の梁の初代皇帝(位502-549)。武帝。「皇帝菩薩」。南朝の斉の皇族だったが、502年帝位を奪い梁を樹立。新たな土断法を実施するなど治世前半は安定していたが、過度な仏教保護により後半は乱れた。奴隷解放令を出した侯景の反乱に破れて捕縛され、梁は事実上滅亡。

【侯景】
6C、南北朝時代末期の武将。北魏末の動乱に際し爾朱栄、次いで高歓の旗下で活躍。47年高歓の死後東魏を追われ南朝の梁の武帝(蕭衍)に帰順。48年今度は梁に反逆し建康を包囲。大量の餓死者を出した末に49年建康を占領し武帝を捕縛。51年帝位につくが52年元帝に打倒された。

【曇鸞】
5C前、南北朝時代の僧。浄土教の開祖。道教への傾倒を経て菩提流支から「観無量寿経」を授けられ浄土思想に出会う。「無量寿経優婆提舎願生偈註」で浄土往生の因果は阿弥陀如来の本願(他力)によるものと説き浄土教の根本思想となった。東魏の孝静帝と梁の蕭衍の二帝から帰依を受けた。

【陳霸先】
6C後、南朝の陳の初代皇帝(位557-59)。武帝。梁の軍人として台頭。554年西魏の侵攻で元帝が戦死すると敬帝を擁立。西魏の支援で後梁を建てた蕭詧や北斉が支援する蕭淵明に対抗。55年北斉の侵攻を撃退し57年自ら即位し陳を建国。後梁や残党が建国した南梁を滅ぼせず死去。

【真諦】
6C、西インド出身、南朝の梁・陳で活動した訳経僧。パラマールタ。四大訳経家の1人。梁の武帝(蕭衍)に招かれて海路で渡来。建康に到着した548年に武帝はなく梁末以降の動乱を逃れて各地を流浪しながら訳経に従事した。訳経は「阿毘達磨倶舎論」「摂大乗論」「大乗起信論」など。

【伊利可汗】
6C、突厥の土門、初代可汗(位552)。イリグ・カガン。子は木汗可汗、他鉢可汗ら。突厥は柔然可汗国の鍛鉄奴役部族だったが546年鉄勒の襲撃を撃退した功績を機に自立。西魏の文帝に朝貢し51年公主を娶った。52年柔然の郁久閭阿那瓌を破り可汗を名乗る(突厥可汗国建国)。

【他鉢可汗】
6C後、突厥の可汗(位572-81)。タトパル・カガン。父は伊利可汗、兄は木汗可汗。北斉に経典を求め、突厥に仏教をもたらす。577年北斉が滅ぶと亡命してきた高紹義による北斉の再興計画を支援。北周に攻め込んで略奪を繰り返した。80年北周の懐柔に応じ高紹義を引き渡す。

【沙鉢略可汗】
6C後、突厥の可汗(位581-87)。イシュバラ・カガン。摂図。伊利可汗の孫。581年隋が建国されると北斉の将軍高保寧と結んで隋に侵入。82年隋軍に反撃される。飢饉と一族の内紛、契丹の脅威で危機に陥り馬千頭を贈って隋に朝貢。隋の援助を受けて可汗国を再興した。

【闞伯周】
5C後、西域東部のトルファン盆地のオアシス都市国家高昌国の王(位460-77)。子は闞義成、闞首帰でいずれも高昌国王。北涼遺民の沮渠安周を打倒した柔然に擁立される。沮渠無諱に逐われた高昌太守闞爽の一族とされる。彼の死去後も闞氏の支配は481年まで続いた。

【麹嘉】
6C前、西域東部のトルファン盆地のオアシス都市国家高昌国の王(位501頃-21頃)。漢人。前王の馬儒が民を率いて北魏に移住しようとした際、嫌がる人々に擁立された。当初は柔然、508年以降は高車に従う。度々北魏に朝貢し文献や博士を求めた。麴氏高昌は唐代の640年まで存続。

【士燮】
2C末-3C前、後漢末-三国時代のベトナム北部の交州の豪族。青年時代は洛陽に留学。184年交趾太守となり次第に支配を確立。200年からは曹操、210年からは孫権を頼りながら自立して交州の平和を守り戦乱を逃れた難民を受け入れ繁栄。難民の中には文人も多く漢人文化が伝わった。

【趙氏貞】♀
3C、ベトナムの反乱指導者。趙嫗。248年九真郡を襲撃して交州(ベトナム北部)を支配していた呉に反乱を起こす。戦象を操ってならず者を率い麗海婆王とも呼ばれた。孫権の派遣した陸胤に激戦の末鎮圧された。近代にナショナリズムの高まりの中で徴姉妹とともに英雄視された。

【李賁】
6C前、北ベトナムの反乱指導者、王。俚族。南朝の梁が置く交州刺史の圧政に憤り541年挙兵。刺史を追放し42年には交州・徳州全土を制圧。43年チャンパの攻撃を撃退。44年南越帝を称し国号を万春とする(前李朝)。45年以降梁が反撃するが48年に死去するまでゲリラ戦で抵抗。

【準王】
前3C後-前2C初、箕子朝鮮最後の王(位:前220-前195)。燕から前漢の討伐軍を逃れてきた衛満をかくまう。朝鮮を護るという衛満の言葉を信じて亡命者のコロニーを作らせたが、これはまたたく間に強大化してクーデタを起こされ国を簒奪された(箕子朝鮮滅亡、衛氏朝鮮成立)。

【東明聖王】
前1C高句麗の初代王(位:前58-前19)。朱蒙。ツングース系の夫余の王子であったが、迫害を逃れて卒本城(現中国遼寧省)に高句麗を建国したという。卵から生まれたという伝承が残る(卵生神話)。王墓は平城遷都後に移設され、高句麗古墳群の一角を占める。

【故国原王】
4C、高句麗の王(位331-71)。好太王の祖父。339年前燕の慕容皝に敗れ服属。42年にも敗れ東方に逃れた。55年前燕に高句麗王として初めて冊封。70年前燕を前秦が滅ぼすと亡命してきた慕容評を前秦に引き渡す。百済と抗争し、最期は百済の近肖古王に攻め込まれ戦死。

【順道】
4C、インドまたは西域出身とされる伝道僧。372年前燕の残党を捕らえた謝礼として前秦の皇帝苻堅により仏像・経文とともに高句麗に贈られた。記録上朝鮮半島への最初の仏教伝来。高句麗の小獣林王は国家宗教として仏教を受容し肖門寺を創建、彼はそこに住した。

【長寿王】
5C高句麗の最盛期の王(位413-91)。好太王の子。414年首都の国内城に父の事績を記した好太王碑を建造。27年平壌に遷都。新羅、百済、百済を支援する日本軍と戦い、漢城を占領するなど最大版図を成した。中国の南北朝(北魏・宋)の両方に朝貢を重ねて良好な関係を構築した。

【安臧王】
6C前、高句麗の王(位519-31)。弟は安原王。北魏と南朝の梁の双方に朝貢。523年と29年に聖王治世の百済に攻め入った。「日本書紀」が引用する「百済本記」には31年暗殺とある。嗣子がなかったため弟が王位を継いだが、日本の渡来系氏族狛氏は彼の末裔を称していた。

【安原王】
6C前、高句麗の王(位531-45)。安臧王の弟。北朝の北魏、東魏と南朝の梁の双方に朝貢。百済の聖王と抗争。「日本書紀」が引用する「百済本記」によると彼が病に伏せると次の王位をめぐって麁群と細群なる外戚同士の大乱があったというが「三国史記」にその事件の記載はない。

【奈勿尼師今】
4C後-5C初、新羅の王(位356-402)。史実性の高い最古の王。364年倭の侵攻を撃退。66年百済の近肖古王と第一次羅済同盟を形成して宗主国の高句麗に対抗。82年単独で前秦に朝貢。96年高句麗の好太王に攻められ再度服属。その後倭と高句麗の覇権争いに翻弄された。

【法興王】
6C前、新羅の王(位514-40)。律令を導入して国制を整備し王権を強化。対外的には521年南朝の梁に朝貢。羅済同盟を維持して伽耶方面に進出し32年金官国を滅ぼす。28年土着信仰にこだわる貴族層を抑えて仏教を公認。寺院を建立し国内に広めた。36年初めて元号を定める。

【真興王】
6C新羅の王(位540-76)。7歳で王位に就き、少年時代は母の只召夫人が政務をみたが、成人すると親政し領土を拡大した。550年羅済同盟を破って百済を攻め、漢江流域を奪う。554年百済の遠征を撃退し聖王を戦死させる。564年には伽耶を滅ぼし洛東江下流域を制圧。

【近肖古王】
4C、百済の王(位346-75)。新羅との羅済同盟を維持し高句麗と抗争、371年には故国原王を戦死させた。72年東晋に朝貢。倭に七支刀を贈る。学者の高興を招き漢字を受容。記紀によると阿直岐と王仁を倭に派遣し馬と「論語」「千字文」を応神天皇に贈った。

【蓋鹵王】
5C後、百済の王(位455-75)。倭国に渡った昆支王の兄または父。南朝の宋の孝武帝に朝貢。羅済同盟を維持し高句麗に対抗した。初めて北魏に遣使し高句麗討伐を願い出るが失敗。結局高句麗の長寿王の侵攻を受け漢城を占領され処刑された。王子は南方に逃れ熊津で即位(文周王)。

【昆支王】
5C、百済の王族。「日本書紀」によると蓋鹵王の弟で、461年人質として倭に渡った。東城王と武寧王の父。帰国して故国で没したが残った子孫は有力氏族の飛鳥戸氏を形成。大阪府羽曳野市の飛鳥戸神社に祖神として祀られた。「三国史記」には蓋鹵王の子とある。一説によると蘇我氏の祖。

【聖王】
6C百済の王(位523-54)。南朝の梁に冊封され、新羅、倭と連携して高句麗に対抗したが、伽耶をめぐって新羅と対立。倭との関係を深め、任那復興を掲げて欽明天皇に救援を要請した。倭に仏像と経典を送って仏教を公伝。538年熊津から泗沘に遷都。最期は新羅との戦闘で戦死。

【百済の威徳王】
6C後、百済の王(位554-98)。父は聖王。南北朝の双方に朝貢。倭、伽耶諸国と結んで新羅、高句麗と抗争を続けた。588年法興寺建立を発願した蘇我馬子の求めに応じ倭に8名の技術者を送る。89年済州島に漂着した隋の軍船を助け中国統一後の隋といち早く関係を結んだ。

【嘉悉王】
6C頃、大加耶末期の王。金官国の滅亡後伽耶諸国の盟主となった伴跛国(高霊郡)の王と見られる。「三国史記」新羅本記によると551年よりも前、楽師の于勒に伽倻琴(十二弦の琴)を作らせ作曲させた。後に于勒は新羅に投降。「南斉書」には大伽耶国の荷知王が479年に遣使とある。

【葛城襲津彦】
4C後-5C前頃、倭の豪族。沙至比跪。父は武内宿禰。娘は仁徳天皇の皇后磐之媛命。葛城氏の祖。「日本書紀」が引用する「百済記」によると382年新羅討伐に派遣されたが新羅の美女に懐柔され加羅を攻撃し倭王の怒りを買った。この他「書紀」は数回朝鮮半島に派遣された旨記述。

【倭の曹達】
5C前、倭の官吏。「宋書」倭国伝によると425年倭の五王の最初の人物である倭王讃により「司馬曹達」が南朝の宋の文帝に遣わされた。外交文書の作成や遣使のコーディネートを行った中国系渡来人と推測される。「司馬」は官職であり曹氏出身とする説と司馬氏出身とする説がある。

【笠原使主】
6C、古墳時代の倭の豪族。武蔵国造でカバネは直。現在の埼玉県鴻巣市笠原を本拠とした。「日本書紀」によると534年頃上毛野国造の支援を受けた同族の小杵と争うが朝廷の支援を受けて勝利し関東一円から横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所の屯倉を朝廷に献上した(武蔵国造の乱)。
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