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2018.02.10 (Sat)





【アブー=ターリブ】
預言者ムハンマドの叔父で、育ての親。第4代正統カリフ(初代イマーム)アリー・イブン・アビー・ターリブの実父。クライシュ族の商人で、ハーシム家の当主となった。布教を始め迫害を受けた預言者を保護したが、生涯イスラームには入信せず、聖遷前の619年死去。

【アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ】
7Cメッカ、アッバース家の豪商で、預言者ムハンマドの母アーミナの弟。ムハンマドが布教活動を始めると最初は反対したが、のちに協力した。彼の有する債権の利子を受け取る権利をムハンマドが放棄したのが、利子の禁止の始まり。

【ハディージャ・ビント・フワイリド】♀
預言者ムハンマドの最初の妻。ファーティマの母。クライシュ族。未亡人として前2人の夫の遺産を受け継ぎ交易商をしていたが、595年40歳の頃夫と結婚。610年夫が啓示を受けると最初の信者となる。聖遷前の619年死去。

【ファーティマ】♀
預言者ムハンマドの娘。母はハディージャ・ビント・フワイリド。夫は後の第4代正統カリフ(初代イマーム)アリー・イブン・アビー・ターリブ。子のハサン・イブン・アリー、フサイン・イブン・アリーもイマームとなった。632年父を追うように死去。シーア派で特に崇敬される。

【アーイシャ・ビント・アブー・バクル】♀
預言者ムハンマドの3番目の妻。初代正統カリフ:アブー・バクルの娘。623年6歳で53歳の預言者と結婚。632年の夫の死後ウンマの有力者となり、アリー・イブン・アビー・ターリブと対立。656年ラクダの戦いで敗れた。多くのハディースを伝える。

【ズバイル・イブン・アウワーム】
7C、預言者の従兄弟で、教友(サハーバ)。子はアブドゥッラー・イブン・アッズバイル。歴戦に活躍後656年アリー・イブン・アビー・ターリブのカリフ位継承にアーイシャ・ビント・アブー・バクルとともに反対してバスラ近郊で交戦するが敗死(ラクダの戦い)。

【アブー・ウバイダ】
7C前、預言者の教友(サハーバ)、将軍。聖遷前からイスラームに帰依し預言者の信頼が厚かった。正統カリフ時代はシリア総督(アミール)として東ローマ帝国の攻略を任され、636年ヤルムークの戦いに勝利。翌年までにダマスクス、アンティオキア、エルサレムを陥落させた。

【ハサン・イブン・アリー】
7C、第2代イマーム。アリー・イブン・アビー・ターリブとファーティマの子で、フサイン・イブン・アリーの兄。預言者の孫。661年父の死後ムアーウィヤと対立するがウンマの分裂を嫌いカリフ位を譲ってマディーナに隠遁。その後セックス依存症に陥り69年死去。

【フサイン・イブン・アリー】
7Cシーア派第3代イマーム。第4代正統カリフ(初代イマーム)アリー・イブン・アビー・ターリブと預言者の娘ファーティマ・ザフラーの子で、第5代正統カリフ(第2代イマーム)ハサン・イブン・アリーの弟。680年カルバラーの戦いでウマイヤ朝軍に惨殺される。

【ヤズィード1世】
7C後、ウマイヤ朝第2代カリフ(位680-83)。ムアーウィアの子。初めて世襲でカリフ位についた。即位直後フサイン・イブン・アリーに軍隊を差し向け虐殺(カルバラーの悲劇)。83年アブドゥッラー・イブン・アッズバイルが反乱、メッカでの戦いでカーバ神殿は炎上。

【アブドゥッラー・イブン・アッズバイル】
7C、ウマイヤ朝に対する反乱指導者。父はズバイル・イブン・アウワーム。683年メッカで蜂起し第2代から第5代までのウマイヤ朝カリフに対抗してカリフを名乗り広大な地域を支配したがアブドゥルマリクが即位すると反撃され92年戦死(第2次内乱)。

【マルワーン1世】
7C後、ウマイヤ朝第4代カリフ(位384-85)。アブドゥルマリクの父。第2次内乱のさなかムアーウィア2世が早逝したためウマイヤ家の長老だった彼が即位した。しかし反乱指導者アブドゥッラー・イブン・アッズバイルの支持拡大に対処できず在位1年9ヶ月で死去。

【アブドゥルマリク】
7C末-8C初ウマイヤ朝の第5代カリフ(位685-705)。ウマイヤ朝中興の英主とされる。カリフを名乗ったイブン・アッズバイルを打倒し第二次内乱を終結させた。東西に領土を拡大し、ディーナール金貨・ディルハム銀貨を鋳造、エルサレムに「岩のドーム」を建設した。

【ワリード1世】
8Cウマイヤ朝第6代カリフ(位705-15)。アブドゥルマリクの子。中央アジアからインド北部、イベリア半島、東ローマ帝国に進出して最大版図を形成した。内政面では学校や病院を多数建設。ダマスカスの聖ヨハネ聖堂をモスクに改造してウマイヤド・モスクとした。

【クタイバ・イブン・ムスリム】
7C後-8C前、ウマイヤ朝の将軍。屈底波。バスラ出身のアラブ人。ワリード1世の時代にアム川とシル川の間のトランスオクシアナ(マー・ワラー・アンナフル)を征服した。ワリード2世の死後国内での立場が悪化し715年反乱を起こすが失敗し殺害された。

【蘇禄】
8C前、テュルク系民族の突騎施(テュルギシュ)の首領。西突厥の諸部族を糾合し西域に覇権を確立。クタイバ・イブン・ムスリムの死後マー・ワラー・アンナフル(トランスオクシアナ)をウマイヤ朝から奪う。唐の玄宗とは戦争と講和を繰り返す。最期は莫賀達干に打倒された。

【ターリク・イブン・ズィヤード】
8C前、ウマイヤ朝の軍人。改宗したベルベル人。ワリード1世の時代にモロッコから出撃し711年イベリア半島に上陸。1万2000人のベルベル人部隊を率いてグアダレーテ河畔の戦いで西ゴート王国軍を撃破しトレドを占領。ジブラルタルの名は彼の名にちなむ。

【西ゴート王ロデリック】
8C前、西ゴート王国最後の王(位710-12)。711年アフリカから侵入したウマイヤ朝軍を迎撃するが翌年グアダレーテ河畔の戦いで敗れ戦死(西ゴート王国滅亡)。彼に娘を強姦されたセウタ総督が復讐のため敵軍に協力した伝承が知られ多くの作品の題材になった。

【ペラーヨ】
8C前、西ゴート王国の貴族、イベリア半島北西部のアストゥリアス王国の初代王(位718-37)。西ゴート王国がウマイヤ朝軍に敗れ崩壊すると北西部に逃れ自立。22年ウマイヤ朝の討伐軍を渓谷で迎撃し撃退(コバドンガの戦い)。スペインではレコンキスタを開始した英雄とされる。

【ウマル2世】
8C前、ウマイヤ朝のカリフ(位717-20)。正統カリフのウマル・イブン・ハッターブの曾孫にあたる。マワーリー(改宗者)問題に対処。重税を逃れて都市に流入したマワリーを住民登録。さらにジズヤの廃止を検討したが志半ばで死去。改革は失敗したが後世に人格者と評された。

【ヒシャーム・イブン・アブドゥルマリク】
8C前、ウマイヤ朝のカリフ(位724-43)。アブドゥルマリクの子。治世は比較的安定していたがマワーリー(改宗者)の反政府運動は収まらず。イラクの干拓・灌漑事業で農地を拡大。後ウマイヤ朝の創始者アブド・アッラフマーン1世は孫に当たる。

【ワリード2世】
8C前、ウマイヤ朝のカリフ(位743-44)。ヤズィード2世の子。叔父のヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクの死後カリフ位につくがイラク総督殺害事件の処理に不満を持つ人々の反乱に見舞われヤズィード3世によるクーデタで殺害された。優れた音楽家としても知られる。

【ヤズィード3世】
8C前、ウマイヤ朝のカリフ(位744)。ワリード1世の子でイブラーヒームの兄。母はサーサーン朝の血を引く。従兄弟のワリード2世を打倒して即位するが脳腫瘍を患い在位162日で死去。短い在位ながら治世中は最後のカリフとなるマルワーン2世が挙兵するなど内乱は絶えず。

【マルワーン2世】
8C前、ウマイヤ朝最後のカリフ(位744-50)。即位前はアルメニア方面でジハードを展開。カリフ位を簒奪したヤズィード3世とその弟イブラーヒームを打倒して即位。47年アッバース革命が勃発するとサッファーフの軍に圧倒されて敗走を続け最期はエジプトで戦死。

【アブドゥッラー・イブン・アリー】
8C、アッバース朝の王族、シリア総督。サッファーフ、マンスールの叔父。アッバース革命では750年ダマスカスを陥落させる活躍。革命後はウマイヤ家の人々を冷酷に殺戮。754年カリフ位を請求して挙兵するがマンスールに味方したアブー・ムスリムに敗れた。

【アブー・ムスリム】
8C、アッバース朝の英雄的軍人。マワーリー(改宗民)。アッバース家にスカウトされホラーサーンで反政府運動を指揮。47年挙兵し革命の火付け役となる。革命後も東方を支配し51年フェルガナに軍を送り唐軍を破る(タラス河畔の戦い)。最期はマンスールに危ぶまれ処刑。

【アッバース朝のマフディー】
8C後、アッバース朝の第3代カリフ(位775-85)。父はマンスール、子はハールーン・アッ=ラシードら。治世中は様々な勢力による反乱が頻発。病院を各地に建設する一方ギリシア語文献のアラビア語翻訳を命じ、思想的にもイスラームの優位性を示そうとした。

【イドリース朝のイドリース1世】
8C後、モロッコのイドーリス朝の創始者(位783-93)。ハサン・イブン・アリーの末裔。シーア派。アッバース朝のハールーン・アッ=ラシードに対する反乱に参加したが鎮圧されモロッコに逃れ、ベルベル人に支持されて建国。アッバース朝の刺客により毒殺。

【ジャアファル・サーディク】
8Cアッバース革命期の第6代イマーム。 神学者、法学者としても名高い。知と理性を重視し、イマームこそがシャリーアを正しく判断できるというシーア派教義を確立した。彼の2人の子のイマーム継承をめぐり、シーア派は十二イマーム派とイスマイール派に分裂。

【ムーサー・カーズィム】
8C後、第7代イマーム。父はイマームのジャアファル・サーディク。父の殉教後、シーア派は彼を正当なイマームとみなす多数派(12イマーム派)と兄イスマーイールを正当とする少数派(イスマーイール派)に分裂した。最期はアッバース朝当局に投獄され獄死し殉教。

【アミーン】
9C前、アッバース朝のカリフ(位809-13)。父はハールーン・アッ=ラシード、母はズバイダ、異母兄はマアムーン。父は彼に帝国中枢を、兄には帝国東方を任せる旨遺言したが811年兄は挙兵。バグダードに籠城するが敗れて13年処刑された。カリフの権威は大きく失墜。

【マアムーン】
9Cアッバース朝第7代カリフ(位813-33)。第5代カリフ:ハールーン・アッ=ラシードの長子。異母弟(嫡流)の第6代カリフ:アミーンを打倒して即位。 学問を愛し、830年頃バグダードに「知恵の館」を建設。ギリシア語文献のアラビア語への翻訳を進めた。

【アリー・リダー】
8C後-9C前、12イマーム派の第8代イマーム。父はムーサー・カーズィム。アッバース朝のハールーン・アッ=ラシードからは迫害されたがその息子同士の内戦に際しシーア派の支持を必要としたマアムーンから後継者に指名された。818年死去。シーア派はこれを毒殺とみなす。

【ムハンマド・タキー】
9C、シーア派12イマーム派の第9代イマーム。父はアリー・リダー。内戦時に父を利用したアッバース朝のカリフ・マアムーンに保護されその娘を妻とした。833年ムウタスィムがカリフ位を継ぐと立場は悪化し35年急逝。シーア派はアッバース朝の陰謀による殉教とする

【ムウタスィム】
9C前、アッバース朝のカリフ(位833-42)。父はハールーン・アッ=ラシード。兄マアムーンの死後即位。続発する反乱を鎮圧する軍事力を立て直すため、テュルク系マムルークを私兵として本格的に導入したが反乱は止まず。836年バグダードからサーマッラーに遷都。

【ムタワッキル】
9C、アッバース朝のカリフ(位847-61)。父はムウタスィム。兄ワースィクがマムルーク兵団に暗殺されたため即位。王権回復のために保守的な神学派を保護してカリフ位の神格化を進め自由主義的なムゥタズィラ学派を弾圧。反乱の続発は止まず、最期は対立した息子により暗殺。

【ハサン・アスカリー】
9C後、シーア派十二イマーム派の第11代イマーム。隠れイマームのムハンマド・ムンタザルの父。生涯アッバース朝当局により自宅に軟禁され874年27歳の時に毒殺された。イスラーム法学者としてシーア派に大きな影響を与え、アラウィー派は彼を最後のイマームとする。

【ムハンマド・ムンタザル】
9C、シーア派十二イマーム派の第12代イマーム。同派の伝承では第11代イマームのハサン・アスカリーの子で、父の葬儀の直後に神によって隠され(ガイバ)のちの世に救世主(マフディー)として再臨するという。イスラーム法学者がその間の彼の代理として統治する。

【キンディー】
9Cアッバース朝で活躍したアラブ人の学者。カリフ:マアムーンに招かれて「知恵の館」でギリシア語文献のアラビア語への翻訳に従事した。特にアリストテレスの哲学に精通し、神を普遍的真理としてその真の姿を探求するイスラーム哲学の基礎を築いたが、宗教的保守派には攻撃された。

【アブー・マーシャル】
8C末-9Cアッバース朝で活躍したイラン人の占星術師。ラテン名はアルブマサル。キンディーの弟子。著作はクラウディオス・プトレマイオスの「テトラビブロス」に注釈を加えた入門書「大序説」や「誕生年回帰の書」。いずれも西洋占星術に大きな影響を与えた。

【ジャービル・イブン=ハイヤーン】
8C-9C初、アッバース朝で活躍した自然哲学者。アラビア錬金術の祖。ラテン名はゲーベル。塩酸、硝酸、硫酸の精製・結晶化法やアルカリを発見。金属は水銀と硫黄からなり、その比率により金が生み出せると主張。著作は西洋で盛んに読まれたが偽書も多かった。

【バッターニー】
9C後-10C初、アッバース朝で活躍したシリアの天文学者、数学者。ラテン名はアルバテグニウス。三角法、三角関数を研究。ヨーロッパ人は彼の著作によって三角法を知った。天文分野では489個の恒星表を作成し、太陽年、黄道傾斜角、歳差を正確に算出した。

【タバリー】
9C-10C前アッバース朝のウラマー。カスピ海南岸のタバリスターン出身。 バグダードで活動。多方面に著作を残すが、イスラーム世界最初の年代記「諸使徒と諸王の歴史」とクルアーン解釈(タフスィール)の基礎となった「クルアーン章句解釈に関する全解明」が名高い。

【ムハンマド・アル=ブハーリー】
9Cアッバース朝のイスラーム法学者。ブハラ出身。生涯に90万のハディースを収集し、そのうち2700余りの信憑性の高いもの(サヒーフ)を最初の「サヒーフ」(真正集)にまとめた。これはスンナ派ハディース集の最高峰とされ、クルアーンに次ぐ権威を持つ。

【シャイバーニー】
8C後-9C初、ハナフィー学派のイスラーム法学者。「イスラームのグロティウス」。同学派の三大学祖の1人。シャリーアの国際法規定(スィヤル)の理論的考察に実績を残した。ヒヤル(一種の脱法行為)についても考察し寛容で現実的な同学派の基礎を築き、多くの弟子を残した。

【イブン・ハンバル】
9Cアッバース朝のイスラーム法学者。バグダード出身。ハディースを収集し、厳格なハディース解釈を重視。カリフ:マアムーンに保護された合理主義的なムゥタズィラ学派と対立し、弾圧された。彼の弟子たちはハンバル学派を創始し、スンナ派法学の保守的潮流をなした。

【イブン・アル=ムカッファ】
8C、ウマイヤ朝、アッバース朝で活躍した文筆家。ペルシア出身だがアラビア語で著述した。アリー家と親しかったことを危惧したカリフ・マンスールの命令で処刑された。ペルシア帝国の年代記やインドの説話をアラビア語に翻訳し、アラビア語文学に散文の地平を開いた。

【ジャーヒズ】
9C、アッバース朝の文学者、思想家。バスラ出身のアラブ人で祖父は黒人であった。カリフのマアムーンに招かれバグダードで活動。アラビア語の散文文芸を確立した。主著は修辞法の書「雄弁と明快の書」、博物学的な「動物の書」、イラン人を風刺した「けちんぼどもの書」など。

【イブン・アン=ナディーム】
10Cアッバース朝で活躍した書誌学者。シーア派。バグダードで書店を経営するうちに知識人と交流。938年にアラビア語文献6600冊の目録「フィフリスト」を出版した。3500人以上の人物が言及され、中世イスラーム世界知る貴重な資料となった。

【バッターニー】
9C後-10C初、アッバース朝で活躍したシリアの天文学者、数学者。ラテン名はアルバテグニウス。三角法、三角関数を研究。ヨーロッパ人は彼の著作によって三角法を知った。天文分野では489個の恒星表を作成し、太陽年、黄道傾斜角、歳差を正確に算出した。

【サービト・イブン・クッラ】
9C-10C朝、アッバース朝の天文学者、数学者。ラテン名はテービト。ハッラーンの星辰崇拝者集団(偽サービア教徒)出身。バグダードの「知恵の館」でギリシア語文献のアラビア語への翻訳に従事。天文学では歳差や恒星年、数学では友愛数や代数の幾何的解法に業績。

【ヤアクービー】
9C、ターヒル朝の保護下で活躍した歴史家、地理学者。インドや北アフリカにまで旅行し見聞を広めた。主著は天地創造から同時代までを記述した「ヤアクービーの年代記」。シーア派の視点が含まれる。他に地理学著作「諸国の書」。スラブ人世界やエチオピアに関する記述もある。

【イブン・フルダーズベ】
9C-10C前、アッバース朝で活躍した地理学者、官僚。ペルシア人。主著はアラビア語による現存最古の地理書「諸道と諸国の書」。イスラーム世界の他インド、東南アジア、東アジアの地誌を記載。黄金を産出する東方の島ワクワク(倭国に由来とも)について初めて記載。

【マスウーディー】
10C、バグダード出身のアラブ人の歴史家、地理学者。「アラブのヘロドトス」「歴史家のイマーム」。シーア派十二イマーム派。史料に頼る歴史家が多い時代にあって自ら陸海を旅行し見聞を記した。著作には唐の皇帝やフランク王国の王も記載。主著は「黄金の牧場と宝石の鉱山」。

【ファーラービー】
10C、中央アジアのオトラル出身、バグダードで活躍したイスラーム哲学者。ラテン名アルファラビウス。「(アリストテレスに次ぐ)第2の師」。新プラトン主義の影響を受けたアリストテレス研究で名高い。スーフィズムを信奉した神秘主義者であり哲学を宗教の上位に位置づけた。

【イブン・ハイサム】
11Cアラブ人の物理学者。西洋ではアルハーゼンとして知られていた。レンズや鏡を使った屈折や反射の実験などから光学の諸原理を発見し、「光学の父」とされる。実験と観察の結果を帰納し、数学的に法則化する近代科学の手法の発展に寄与した。

【アフマド・イブン・ファドラーン】
10Cアラブ人の旅行家。アッバース朝カリフがヴォルガ・ブルガール王に派遣した使節団に加わり、見聞録を記した。当時南ロシア一帯に住んでいたスラブ系民族の実態を伝える貴重な資料。長く引用でのみ知られていたが、20Cイランの図書館で写本が発見された

【アブル・ファラジュ・イスファハーニー】
10C、イスファハーン出身の文学者。ブワイフ朝、ハムダーン朝に保護された。50年を要して「歌の書」21巻を編纂。古代からアッバース朝に至るアラブ人の詩歌を集成。詩と楽譜に加え詩人と音楽家の伝記が盛り込まれアラブ人の歴史や風俗を伝える。

【ハマザーニー】
10C後-11C初、ブワイフ朝のハマダーン出身、イスラム世界各地で活動した詩人、作家。韻文と散文の混じった説話マカーマを51編残す。道化風の主人公が各地を放浪し言葉巧みに人を騙して稼ぎを得るユーモア文学で後世の作家に盛んに模倣されアラビア文学の新形式となる。

【マフムード・カシュガリー】
11Cトルキスタン、カラハン朝王族出身の学者。セルジューク朝支配下のバグダードに移住し、1077年「トルコ語辞典」を編纂。トルコ人の言語、文化、歴史とトルキスタンの地理をアラビア語で解説。トルコ・イスラーム文化の先駆。ウイグルでは現在も文化的英雄

【ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファール】
9C、イラン南東部のサッファール朝の建国者。サッファールは「銅細工職人」の意で彼の父の職業に由来。アイヤール(義賊)として台頭し861年アミールを名乗って自立。東方の広大な領土を征服。イラン民族の誇りを復興した英雄。

【アムル・イブン・アル=ライス】
9C後-10C初、イラン南東部のサッファール朝のアミール(位879-901)。兄は建国者ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファール。兄の死後王朝を承継し善政を敷いたが900年サーマーン朝のイスマーイール・サーマーニーに破れ捕縛された。

【ナスル1世】
9C、マー・ワラー・アンナフル(中央アジア南部)を拠点にしたサーマーン朝のアミールで、事実上の建国者。イスマーイール・サーマーニーの兄。873年ターヒル朝滅亡を契機に自立。イラン南東部を拠点にしたサッファール朝と激しく抗争した。弟との抗争と和解でも知られる。

【イスマーイール・サーマーニー】
9C末-10C初、サーマーン朝のアミール(位892-907)。兄は建国者ナスル1世。ブハラを首都としマー・ワラー・アンナフルを中心に中央アジアを広く支配。900年サッファール朝を破りイラン東部を獲得。タジキスタンとウズベキスタンの民族的英雄。

【ダキーキー】
10C、イラン人の詩人。サーマーン朝に保護され宮廷詩人として新ペルシア語で詩作した。王の命でイランの民族叙事詩の製作に着手しザラスシュトラ関連場面1000句を書き上げるが奴隷に刺殺され中絶。これを引き継いで製作されたのがフェルドウスィーの「シャー・ナーメ」である。

【アルプテギーン】
10C後、ガズナ朝の建国者。 テュルク系のマムルーク出身でサーマーン朝に仕えてブハラの宮廷で出世し権勢を誇った。アミール(君主)に警戒されホラーサーン総督となるがアミールの死後任を解かれ縁のあったアフガニスタンのガズナに移動して962年王朝を開いた。

【サブク・ティギーン】
10C後、アフガニスタンを支配したガズナ朝の君主(位977-98)。子はマフムード。王朝の創始者アルプテギーンのグラーム(軍人奴隷)であったが後継者となる。彼以降王朝は世襲されたため事実上の創始者とされる。北西インドへの侵攻を開始しペシャワールを占領。

【ガズナ朝のマフムード】
10C末-11C初ガズナ朝最盛期の君主(位997-1030)。999年にサーマーン朝滅亡に乗じてホラーサーン地方を支配。北インドにも繰り返し侵入しヒンドゥー寺院を略奪・破壊した。イラン文化の保護者で、フェルドウスィーは「シャー・ナーメ」を彼に献じた。

【ビールーニー】
10C後-11C前、中央アジアのホラズム出身の学者。ガズナ朝のマフムードに仕えインド遠征に随行し「インド誌」を執筆。天文学書「マスウード宝典」には正確な地球の半径や月の満ち欠けのしくみを掲載。他に「古代諸民族年代記」「宝石の書」「薬学の書」「占星術要諦」など。

【アブー=アブドゥッラー】
9C末-10C初、シーア派イスマーイール派の教宣員でファーティマ朝建国の功労者。北アフリカでベルベル人に布教し909年スンナ派のアグラブ朝を滅ぼす。10年囚われていた指導者ウバイドゥッラーをカリフに推戴(ファーティマ朝)。11年カリフにより粛清。

【ムイッズ】
10C後、ファーティマ朝のカリフ(位953-75)。アッバース朝からエジプトの統治を任されていたイフシード朝の内乱状態につけ込み969年シチリア人将軍ジャウハルを派遣しほぼ無血でエジプトを征服。ジャウハルの建設したカイロに73年入城しマーディアから遷都した。

【ジャウハル】
10C後、ファーティマ朝の将軍。シチリア出身の奴隷軍人。カリフのムイッズに仕えた。958年王朝の故地チュニジアから西方に遠征し後ウマイヤ朝からモロッコを獲得。69年東方に遠征しイフシード朝の内乱に乗じてエジプトを征服。カリフを迎えるための新都カイロを建設した。

【ハーキム】
10C末-11C前、ファーティマ朝のカリフ(位996-1021)。カイロに「知恵の館」を建設。ヘレニズム科学とアラビア科学を融合したカイロ学派が生まれた。狂信的なイスマーイール主義者で異教を弾圧、聖墳墓教会を破壊。最後は失踪。彼を神格化する一派がドゥルーズ派。

【アルプ・アルスラーン】
11C後、セルジューク朝の第2代スルタン(位1064-72)。叔父は創始者トゥグリル・ベグ。イラン人宰相ニザームルムルクの補佐を受けた。1071年マラズギルトの戦いで東ローマ帝国軍に大勝しロマノス4世ディオゲネスを捕縛。アナトリアのテュルク化を推進。

【マリク・シャー】
11C後、セルジューク朝の第3代スルタン(位1072-92)。イラン人宰相のニザームルムルクの補佐を受けて官僚制を整備、王都をエスファハーンに定め東西に領土を拡大。東方イスラーム世界をほぼ再統一したが地方は一族が自立して支配していた(セルジューク帝国)。

【トゥトゥシュ】
11C後、シリア・セルジューク朝の創始者、初代君主(位1085-95)。父はアルプ・アルスラーン、兄はマリク・シャーでともにセルジューク朝のスルタン。兄によりシリアに派遣されたがそのままダマスクスを拠点に自立。その後は一族同士の抗争に明け暮れ最期は戦死した。

【スライマーン・イブン・クタルミシュ】
11C後、ルーム・セルジューク朝の創始者、初代スルタン(位1077-86)。セルジューク朝の王族将軍としてスルタン・マリク・シャーによりアナトリアに派遣されるがそのまま自立。最期はシリア・セルジューク朝のトゥトゥシュと交戦し戦死。

【アヌーシュ・テギーン】
11C後、セルジューク朝のマムルーク、ホラズム・シャー朝の創始者。キプチャク族。1073年スルタンのマリク・シャーの命でガズナ朝からホラーサーン北部を奪いその北方のホラズムも征服。そのまま支配権を認められた。王朝は13C初まで彼の子孫に世襲される。

【アブド・アッラフマーン1世】
後ウマイヤ朝の創始者(位756-88)。ウマイヤ朝の王族だったが750年のアッバース革命を逃れ、ベルベル人の援助でウマイヤ朝旧臣を連れてイベリア半島に上陸、コルドバでアミールに即位した。778年にはカール大帝のフランク王国の侵入も退けた。

【エウロギウス】
9C、後ウマイヤ朝治世下のコルドバのキリスト教聖職者。相互寛容を旨としたモサラベ社会の共存路線に背を向け、イスラム教と預言者を批判して処刑された殉教者の列伝を執筆し自らも公然とイスラム批判を展開。ズィンミー制度も差別として批判した。859年斬首刑により殉教。

【ハカム2世】
10C後、後ウマイヤ朝の第2代、全盛期のカリフ(位961-76)。父はアブド・アッラフマーン3世、子はヒシャーム2世。優れた教養人でコルドバに巨大図書館を創設し60万巻を所蔵。父の始めたザフラー宮殿造営を完成させた。ファーティマ朝からマグリブ(北アフリカ)を奪取。

【イブン・ハズム】
11C、後ウマイヤ朝の宰相、学者。王朝末期の動乱に翻弄され数度投獄されながら多数の著作を残した。イスラーム法学者としては保守派で柔軟な解釈をするマーリク学派を批判。主著はキリスト教、ユダヤ教、イスラームを考察した「諸宗派に関する書」、恋愛論「鳩の頚飾り」など。

【アブー・ウバイド・バクリー】
11C、第1次タイファ時代のアンダルスのムスリムの地理学者。コルドバやセビリヤで王侯らに保護され活動した。主著は「諸国と諸道の書」。商人や旅行者に取材した西アフリカの詳細な地誌でガーナ帝国、ムラービト朝、トランス=サハラ交易を伝える貴重な史料。

【イドリースィー】
12Cアラブ人の地理学者。シチリア王ルッジェーロ2世にまねかれて、「タブラ・ロジェリアナ」(ルッジェーロの書)とよばれる世界地図とその解説書を作成した。ユーラシア大陸全体と北アフリカが地誌とともに記載され、15Cまでもっとも正確な地図であった。

【バルトリハリ】
5C頃、インドのサンスクリット詩人、文法学者。詩と文法学は、それぞれ別人の業績とする説もある。パーニニの著作についてのパタンジャリの注釈書を研究し、「ヴァーキヤ・パディーヤ」を著した。「離欲百頌」「処世百頌」「恋愛百頌」の3つの詩集は「三百頌」と呼ばれる。

【ヴァラーハミヒラ】
6C、インドの天文学者、占星術師。西洋とインドの占星術の解説書「パンカ・シッダーンティカー」と「プリハット・サンヒター」が名高い。前者は三角法など高度な数学的知見を盛り込む。ギリシア語に精通し地球球体説を含むギリシア人の知見をインドに広めた。

【ブラフマグプタ】
7C、インドの天文学者、数学者。インド中央部のウッジャインで活動。主著は「ブラーフマ・スプタ・シッダーンタ」(宇宙の始まり)。0の概念が記された最古の本。負の数を代数に初めて使用。円に内接する四角形に関する定理や面積公式、二平方恒等式などのにその名を残す。

【清弁】
6C、インドの仏教僧。バーヴァヴィヴェーカ。中観派の学者で自立派の祖。唯識派の陳那に影響を受け龍樹の空の思想を論理学的な推論(自立)で論証した。このためすべてを否定することで空を論証する背理法(帰謬)を堅持する仏護と対立し中観派は自立派と帰謬派に分裂していく。

【月称】
7C、インドの学僧。中観派。清弁の自立論証を批判し、あくまで龍樹が「中論」で行った帰謬論法の有効性を主張した。この論争以降、中観派は帰謬論証派(プラーサンギカ)と自立論証派(スヴァータントリカ)の二派に分裂した。「入中論」で認識の自立性を否定し唯識思想を徹底的に批判。

【法称】
7C、インドの学僧。ダルマキールティ。デカン高原出身。唯識派。認識論と因明(論理学)の著作は総称して「法称の七論」と呼ばれる。「空」を否定して瞬間的な存在を肯定しつつ、存在の連続性を否定した(刹那滅)。仏教を批判したバラモン教の思想家クマーリラとの論争も知られる。

【シャンカラ】
8C、インドのバラモン教の思想家。南部出身のマラヤーリ人。ヴェーダーンタ学派の代表。仏教思想の影響を受け梵我一如の反する日常経験は無明が生み出す幻影だとした(不二一元論)。彼が各地に創設した法院の法主はシャンカラ師と尊称され現代でもヒンドゥー教の最高指導者である。

【ダンディン】
7C頃、インドの伝奇小説家、詩論学者。名前と著作のみが知られる。代表作は「ダシャクマーラチャリタ(十王子物語)」。14章中後編8章を書いたとみられ、サンスクリット文学に散文の新境地を開拓した。十人の貴公子の冒険を通じて当時のインド社会の文化、生活がうかがえる。

【ゴーヴィンダ3世】
8C末-9C前、南インドのデカン高原のラーシュトラクータ朝の最盛期の王(位793-814)。父はドゥルヴァ、子はアモーガヴァルシャ1世。北西の大国プラティーハーラ朝のナーガパタ2世を破り、南方のパッラヴァ朝、パーンディヤ朝にまで遠征し最大版図をなした。

【アモーガヴァルシャ1世】
9C、南インドのデカン高原のラーシュトラクータ朝の王(位814-78)。父はゴーヴィンダ3世。13歳で即位。従兄のカルカが補佐した。父とは違い軍事遠征を好まず、64年の治世はおおむね平和が続いた。文芸を振興して自らも詩作・著作しカナンガ語文学を生んだ。

【ボージャ1世】
9C、北インドのプラティーハーラ朝の最盛期の王(位836-85)。騎兵と戦象による強大な軍隊を用い、東はガンジス川流域のパーラ朝、南はデカン地方のラーシュトラクータ朝と抗争。北西はパンジャーブ地方にまで勢力を拡げた。交易や鉱山開発を振興し経済的にも繁栄。

【タイラ2世】
10C末、インドのデカン高原を支配した後期チャールキヤ朝の初代王(位973-97)。8Cからデカン高原を支配していたラーシュトラクータ朝の封臣だったが8Cに滅亡した前期チャールキヤ朝の子孫を自称して挙兵。衰退していたラーシュトラクータ朝を滅ぼして王朝を開いた。

【ラージェーンドラ1世】
11C前、南インドのタミル系王朝チョーラ朝全盛期の王(位1016-44)。セイロン島北部を含む広大な領土を支配。北方の東チャールキヤ朝との関係を改善。シュリーヴィジャヤ王国に2度の海軍遠征を行い東南アジアの海上通商路を掌握し宋との交易で莫大な利益を得た。

【ソーマデーヴァ】
11C、インドのカシミール出身の詩人。バラモン階級。カシミールの王妃に聞かせるため長大な説話集「ブリハット・カター」を簡略化した「カター・サリット・サーガラ」を著した。その一部は奇談集「ヴェーターラ・パンチャヴィンシャティカー」(屍鬼二十五話)として知られる。

【アティーシャ】
11C、チベットで活躍した仏教僧。燃灯吉祥智。インドのガンジス川流域のパーラ朝出身で王立のヴィクラマシーラ大学で僧院長を務めていたがグゲ王国の王室に招かれて60代でチベットに渡る。各地を回って説法と著作を行い衰退・堕落していたチベット仏教の教理と戒律を再興した。

【劉方】
6C末-7C初、ベトナム遠征で知られる隋の武将。602年交州に自立していた李仏子を攻撃し滅ぼす。さらに南進しチャンパ王国を攻め范梵志王の象軍を落とし穴を仕掛けて破る。王国を略奪し帰途につくが多くの将兵が病に倒れ彼自身も病死。遠征後ベトナムは隋に併合された。

【楊玄感】
7C前、隋の将軍。帝室の楊氏とは別系統。煬帝に疑われ謀反を計画。613年第2次高句麗遠征への従軍命令に背いて挙兵。洛陽攻略を目指すが失敗し敗走、3ヶ月ほどで鎮圧され敗死。これを契機に煬帝に対する民衆の怒りは爆発し河南・山東を中心に民衆反乱が続発する。

【智顗】
6C隋の僧。天台宗の実質的な開祖。560年大蘇山で慧思に学ぶ。75年から浙江省の天台山に登って天台教学を確立。91年隋の晋王(後の煬帝)に菩薩戒を授ける。経、律、論の三蔵のうち、論よりも仏の教えをつたえる経を重視した。天台三大部、天台五小部を講義、章安灌頂が筆記した。

【顔之推】
6C、南北朝時代末-隋初の儒学者。南朝の梁に仕えたが554年西魏の捕虜となり逃れて北斉に亡命。北周、隋にも仕えた。後世に家訓の代名詞となった「顔氏家訓」が名高い。伝統的な生活態度、教養、処世術の範を示す。北朝の質実剛健と比較して六朝貴族の華美な気風を批判。

【李建成】
7C、唐の皇族。初代皇帝高祖李淵の長子。弟は太宗李世民。建国と同時に立太子。父の統一事業に貢献するが戦功では弟に及ばず、互いに警戒して激しく対立した。626年四弟の李元吉と結んで世民にクーデタを仕掛けるが逆襲され殺された(玄武門の変)。直後に高祖は太宗に禅譲し引退。

【房玄齢】
7C前、唐の宰相、歴史家。高祖李淵、太宗李世民に仕えた。玄武門の変では道士に変装して敵の裏をかき李世民の政権奪取に貢献。貞観格式の選定など貞観の治のブレーンとして活躍。高句麗遠征に反対。「北斉書」など南北朝時代の正史編纂を総監。彼の政治哲学や政策は「貞観政要」に残る。

【高士廉】
7C前、唐の武将、宰相。北斉の皇族出身。太宗李世民に仕えた。唐の建国に貢献した「凌煙閣二十四功臣」の1人。626年玄武門の変で活躍。房玄齢らとともに旧北斉地域出身者の文人集団を形成し貞観の治を支えた。34年貴族制秩序の再編を意図した「貞観氏族志」100巻を編纂。

【蘇定方】
7C、唐の将軍。太宗、高宗に仕えた。627年突厥遠征で活躍し出世。657年西突厥を討ち唐の勢力圏を中央アジアに広げる。59年カシュガルを陥しパミール高原以西も征服。60年百済に遠征し義慈王を捕縛して滅ぼす。61年第2次高句麗遠征を指揮するも平壌を陥せず撤退。

【李靖】
7C前、唐の将軍。太宗に仕えた。629年太宗が即位するとすぐに突厥征伐に派遣される。奇襲と謀略によってさしたる損害なく頡利可汗を捕縛して東突厥を滅ぼし隋から降嫁していた義成公主を処刑。34年には吐谷渾に遠征して滅ぼす。宋代の兵法書「李衛公問対」の語り手として知られる。

【啓民可汗】
6C末-7C初、東突厥の可汗。父は沙鉢略可汗。兄の都藍可汗と対立し隋の文帝に接近し597年公主を娶った。99年兄の攻撃に大打撃を受け隋に帰順し新たに義成公主を娶る。その後も隋の支援を受けた。607年高句麗の嬰陽王が彼に使者を送り第2次高句麗遠征の契機となる。

【頡利可汗】
7C、東突厥の可汗。第一可汗国最後の可汗。父は啓民可汗。隋から父に降嫁した義成公主を娶る。622年から唐に攻勢をかけ長城を越えて略奪。29年大雪に見舞わるなか李靖率いる唐軍の攻勢を受け30年捕縛され東突厥はいったん滅亡した。唐で官位を得て余生を送った。

【懐仁可汗】
8C前、回鶻(ウイグル)可汗国の初代可汗。骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)。ヤグラカル氏。742年頃、他部族と協力して東突厥第二可汗国に反乱し自立、唐の玄宗に朝貢し冊封を得た。45年には東突厥を滅ぼし領土を拡大、満州からアルタイ山脈に至る遊牧大帝国を築いた。

【王玄策】
7C唐からインドに派遣された使節。643年太宗からヴァルダナ朝のハルシャ・ヴァルダナへの使節団に加わる。47年正使として渡航するが、ハルシャ王が死去。チベット(吐蕃)とネパールの援助でヴァルダナ朝の反乱を鎮圧した。田中芳樹の小説「天竺熱風録」にこの冒険が描かれる。

【文成公主】♀
7C唐の皇女。「チベット仏教の母」。640年技術者集団をともなって吐蕃のグンソングンツェン王に降嫁。42年夫が急死。服喪後復位した父王ソンツェン・ガンポと再婚。中国の文物をチベットに伝えたがとりわけ仏教を崇拝しラサにラモチェ寺を建立。チベット仏教成立に寄与した。

【ティデ・ツグツェン】
8C、吐蕃の王(位705-55)。父王が南詔遠征で戦死したため乳児の時に即位し祖母のチマルが補佐。708年唐の武則天に公主降嫁を申し入れ10年中宗の養女である金城公主を7歳で迎えた。唐や西域から僧を招き寺院を建築して仏教を広めた。最期は近衛兵により暗殺。

【道綽】
6C後-7C前、唐の僧。浄土教。元々は戒律と禅定による成仏を目指していたが、609年48歳で曇鸞の碑文に触れて自力修行の道を捨て、如来の本願にすがる浄土教に帰依した。「観無量寿経」の講義を行い、注釈書「安楽集」を著す。小豆を数えながらひたすら念仏を唱えることを説いた。

【神秀】
7C-8C初、唐の禅僧。禅宗六祖。北宗の開祖。五祖弘忍の弟子で、慧能の兄弟子。701年95歳で上京し武則天、中宗、睿宗の「三帝の国師」となる。死後、荷沢神会から彼の思想が慧能の見性成仏と対称的な「漸悟」であると批判されたが実際には彼も心の観察(観心)による成仏を説いた。

【慧能】
7C-8C前、唐の禅僧。第六祖。弘忍の弟子。神秀は兄弟子。段階的な悟り(漸悟)を否定し人が本来持つ仏性を開くことを説く(見性成仏)。死後弟子の荷沢神会が神秀の北宗を批判する中で彼の説法集「六祖壇経」を編纂。後の禅宗の基盤となる。弟子は他に青原行思、南嶽懐譲、南陽慧忠。

【長孫無忌】
7C、唐の外戚。太宗李世民の皇后の兄。太宗の信頼が厚く、唐の建国に貢献した凌煙閣二十四功臣の筆頭に列せられた。立太子を後押しした高宗即位後も実権を握る。「永徽律疏」の編纂を主導し唐の律令を完成させた。武則天の立后に反対して立場が悪化し659年失脚、配流先で自殺。

【唐の睿宗】
7C末-8C初、唐の第5代、第8代皇帝(位684-90、710-12)。父は高宗、母は則天武后、子は玄宗。20歳で即位したが母;武則天の傀儡であった。則天武后の死後実権を握った韋后一派を子の隆基(のちの玄宗)の活躍で排除して復位。在位3年で玄宗に譲位した。

【李林甫】
8C唐の官僚。玄宗に仕えた。734年から宰相。貴族派の代表として科挙派の張九齢らと抗争して勝利。様々な謀略によって政敵を追放したため、玄宗に諫言する官僚がいなくなった。節度使に安禄山、高仙芝ら異民族の蕃将を用いることを献策。753年楊国忠に追い落とされ失脚。

【楊国忠】
8C唐の官僚。楊貴妃の親族で、楊貴妃の姉・虢国夫人の愛人であった。玄宗に評価され751年宰相となる。財政に明るい一方南詔遠征の失敗を隠すなど専横が目立った。節度使の安禄山と対立。755年安禄山が楊国忠排除を掲げて安史の乱を起こす。皇帝につき従い逃亡中に兵士に殺された。

【安慶緒】
8C後、唐の武将。安禄山の次男。安史の乱のさなか父が建国した燕の皇太子に立てられるが757年父が廃嫡をほのめかしたため誅殺を恐れて反撃し父を暗殺、長安で燕の皇帝に即位。同年唐・ウイグル連合軍に敗北を重ね洛陽に敗走。59年父の盟友だった史思明に見限られ殺害された。

【史朝義】
8C後、唐の軍人。史思明の子。父を補佐して安禄山の挙兵に従軍。759年父が安慶緒を殺し安禄山が建国した燕の皇帝となるが61年その父を殺して自ら燕の皇帝に即位。62年回鶻の牟羽可汗と同盟を結ぶが唐側に覆され唐・回鶻連合軍に洛陽を陥され敗走、63年自殺(安史の乱終結)。

【唐の徳宗】
8C末-9C初、唐の皇帝(位779-805)。父代宗が即位すると大元帥に任じられ、安史の乱の終息に務めた。即位後は唐の財政再建に尽力し、宰相楊炎の進言により建国以来の均田制・租庸調制を廃し、資産に応じて課税する両税法を施行した。節度史の抑制を試みたが失敗。

【唐の憲宗】
9C前、唐の皇帝(位805-20)。父は順宗、子は穆宗、宣宗。節度使の抑制に務め、河南二鎮を滅ぼし河朔三鎮を従わせた。長男の死後は仏教に傾倒し盛大な仏舎利奉迎を行った。これを諌めた韓愈の「論仏骨表」は名高い。次第に精神に異常をきたし最期は宦官に暗殺された。

【菩提僊那】
8C唐から日本に渡った僧。ボーディセーナ。インドのバラモン階級に生まれたがヒマラヤ山脈を越えて入唐し長安で活動していた。遣唐使副使中臣名代らの要請により仏哲、道璿と共に736年来日。行基が迎えた。751年東大寺盧舎那仏像(大仏)の開眼供養の導師をつとめた。

【如宝】
8C-9C初、唐から日本に渡った僧。中央アジア出身のソグド系とも。孤児であったが鑑真に拾われて弟子となり、鑑真と共に苦難の末754年日本に渡る。763年の鑑真死後は唐招提寺で伽藍の整備や律宗の発展に寄与した。唐に渡る前の空海は度々彼を訪ねたという。

【恵果】
8C-9C初、唐の密教僧。不空金剛に師事。8C前に金剛智と善無畏が伝えた二系統の密教を統合。瑜伽などの実践(事相)と経典の理解(教相)による成仏を説いた。長安青龍寺に住して代宗・徳宗・順宗の帰依を受ける。諸国からの留学僧に奥義を伝える。806年空海に全てを伝授して死去。

【洞山良价】
9C、唐の禅僧。曹洞宗の開祖。川に映った自分の姿を見て大悟を得たという。会昌の廃仏の難を逃れ、晩年に江西省高安の洞山に普利院を開いた。「正位」(実在)と「偏位」(現象)のあり方を説く五位思想を確立。詩に優れ、「宝鏡三昧」が知られる。弟子は雲居道膺、曹山本寂ら。

【臨済義玄】
9C、唐の禅僧。臨済宗の開祖。黄檗希運に師事し「黄蘗三打」の問答で大悟した。河北省の臨済寺に住み多くの弟子を育てて北方に信徒を広げ、会昌の廃仏により衰退した禅宗を復興した。「喝」を多用する峻烈で激しい禅風で、修行を通じて感覚的に弟子に悟りを伝える。語録は「臨済録」。

【布袋】
9C後-10C前、唐末-後梁時代の僧。本名:釈契此。寺を持たず明州で袋を持って托鉢活動をして高名となる。死後弥勒菩薩の化身として伝説化し、太鼓腹に袋を持った姿が水墨画好んで描かれた。日本では福の神として七福神に組み入れられ、袋は勘忍袋として寛容性の象徴となった。

【孟浩然】
8C前、唐の詩人。田園山林題材にした詩を得意とし、「春眠暁を覚えず」で始まる五言絶句「春暁」が最もよく知られる。江南各地を放浪し、義侠の振る舞いで人々と交流。王維、李白、宰相の張九齢とも親交があった。李白は「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」を残す。

【李徳裕】
9C前、唐の宰相。穆宗、敬宗、文宗、武宗、宣宗に仕えた。門閥派の代表格。裴度らと組んで科挙進士派の李逢吉・牛僧孺らと激しい権力闘争を展開した(牛李の党争)。42年強大化する仏教僧院の管理を提言しこれが45年会昌の廃仏に発展。公文書集「会昌一品集」が名高い。

【牛僧孺】
9C前、唐の宰相。李逢吉・李宗閔らと結んで科挙進士派(牛党)を形成し李徳裕ら門閥派(李党)と激しい権力闘争を展開した(牛李の党争)。武宗の時代には李党が権力を握ったため左遷されたが、846年に宣宗が即位すると政権を奪還。直後に死去した。伝奇小説の執筆でも知られる。

【李商隠】
9C、唐の官僚、詩人。李義山。牛李の党争の最中、処世のために牛李両党間を渡り歩き変節奸の謗りを受けて出世の道が閉ざされた。幻想的で官能的な詩風で、恋愛や青春の追憶を主題とした。僻典を多用し古今の書物を並べて詩作したことから獺祭魚を名乗った。宋代の西崑体の範となる。

【杜牧】
9C、唐の詩人。宰相の牛僧孺に仕えた時期もあったが牛李の党争以降相次ぐ政変で出世できず。「阿房宮賦」で敬宗の奢侈を諌めた剛直な正義感と「江南春」などの七言絶句に見られる無情、風流、艶麗の詩風を併せ持つ。項羽を悼む「烏江亭」の中で「捲土重来」の語を生んだ。

【温庭筠】
9C、唐の詩人。温飛卿。宋代以降大流行する詞(楽曲に合わせた歌詞)のジャンルを確立した先駆者。遊郭通いでも知られ、恋愛や女性美、性交を歌った艶麗な詩風であった。恵まれた才能を持ちながら尊大かつ素行不良で、奇食した恩人にも愛想を尽かされ、放浪の末不遇のうちに没した。

【陸羽】
8C-9C初唐代の文筆家。孤児として苦学を重ね顔真卿に詩集編纂への協力を求められるようになった。当時の茶に関する知識を網羅した「茶経」で知られる。これは飲茶の普及を助長し、茶商人からは「茶伸」と崇められた。岡倉天心は彼を茶道の元祖とする。

【唐の武宗】
9C唐の第18代皇帝(位840-46)。李徳裕を宰相に起用し宦官や藩鎮の抑制に努めた。道教を尊ぶ一方で三武一宗の廃仏の中でも最大とされる会昌の廃仏を行った。肥大化した教団から荘園を没収し、貨幣用の銅が仏像に使われることを防いだとの説も。唐代三夷教も弾圧され消滅した。

【僖宗】
9C後、唐の皇帝(位873-88)。12歳で即位。政治は宦官に任せてポロなどの道楽にふけった。治世2年目の875年黄巣の乱が発生。長安を占領されて蜀に逃れ沙陀族の李克用に救援を要請。84年乱を鎮圧し長安に帰還するが地方には軍閥が割拠し唐は決定的に衰退した。

【唐の哀帝】
10C初唐朝最後の皇帝(位904-07)。即位時には最大藩鎮の朱全忠がすでに権力を握っており、904年に父帝の昭宗が殺され、12歳で即位した。907年に既定路線通りに朱全忠に禅譲し、唐朝は滅亡した。翌年、後梁の太祖となった朱全忠によって毒殺。享年17。

【義慈王】
7C、百済最後の王(位641-60)。扶余豊璋、百済王善光の父。642年高句麗の淵蓋蘇文と約1世紀ぶりに麗斉同盟を結び新羅の善徳女王、真徳女王を攻めるがこれは660年の唐・新羅同盟を招き計18万の連合軍に敗れ降伏した(百済の滅亡)。長安に連行されまもなく死去。

【百済王敬福】
8C日本で生まれた百済の亡命王族。東大寺大仏に塗布する黄金が求められていた折、749年陸奥守在任時に陸奥国小田郡から黄金が発見され聖武天皇を狂喜させた。彼の配下の百済系鉱山師による発見ではないかと言われる。橘奈良麻呂の乱や藤原仲麻呂の乱の鎮圧にも功績があった。

【善徳女王】♀
7C前、新羅の女王(位632-47)。王族の金春秋(後の武烈王)や忠臣の金庾信に補佐されたが、麗済同盟による孤立の中、高句麗、百済に攻め込まれた。数々の予知を行った逸話が残り、シャーマン的女王であったと考えられる。多くの留学生を唐に送り、文化の吸収に務めた。

【毗曇】
7C前、新羅の貴族。骨品は真骨。上大等(宰相)として善徳女王に仕えたが、百済との熾烈な抗争の中643年唐が援軍の条件として女王の廃位を求めると親唐派を糾合して女王に反乱を起こした(毗曇の乱)。反乱は王族の金庾信によりすぐに鎮圧され彼は殺されたが善徳女王はこの間に死去。

【武烈王】
7C新羅の王(位654-61)。金春秋。太宗。文武王の父。即位前には高句麗、唐、日本に使節として渡った。金庾信と協力し、真徳女王死去後に即位。麗済同盟に対抗して唐の高宗と同盟。660年唐と連合して百済を滅ぼした。王権を強化し、貴族合議制から世襲王政に転換した。

【金庾信】
7C新羅の朝鮮半島統一に貢献した武将。647年義兄の金春秋と共に真徳女王を立てこれを補佐。54年金春秋が武烈王として即位し宰相。60年に麗済同盟に対抗して唐と同盟。唐の強大な軍事力を利用して60年に百済、68年に高句麗を滅ぼし、63年の白村江の戦いでは倭国も撃退した。

【文武王】
7C後、新羅の王(位661-81)。 武烈王(金春秋)の長子。唐との友好を維持し金庾信の補佐を受けて統一戦争を進めた。663年白村江の戦いで倭の水軍を撃退。668年高句麗を滅ぼす。その後羈縻政策を目論む唐と戦い撃退。76年統一を完成。旧三国の一体化を進めた。

【義湘】
7C-8C初、新羅の僧。海東華厳宗の祖。650年陸路唐を目指すが高句麗兵に阻まれ失敗。61年海路で入唐。華厳宗第二祖智儼に学ぶ。71年帰国。76年浮石寺を建立。義湘十哲と言われる門弟を輩出。文武王にも助言した。日本では鎌倉時代の絵巻物「華厳宗祖師絵伝」で知られる。

【元暁】
7C、新羅の僧。華厳宗。新羅浄土教の先駆者。650年義湘と共に陸路唐に渡ろうとしたが高句麗兵に捕らえられ失敗。661年再び義湘と共に海路で唐に渡ろうとするが真理は遠方ではなく心にあると悟り国内で活動。240巻もの著作を成した。日本でも奈良の諸寺を中心に厚く尊崇される。

【慧超】
8C、新羅の僧。幼い頃に唐に渡り広州で金剛智に密教を学ぶ。722年海路インドに渡りインド各地を旅行し中央アジアを経て27年唐に戻り訳経に従事。87年唐で没した。著作の「往五天竺国伝」は1908年ポール・ペリオが敦煌莫高窟で発見。イスラム勢力進出期のインド記録として貴重。

【栄留王】
7C前、高句麗の王(位618-42)。建武王。618年唐の高祖李淵に朝貢し隋の高句麗遠征時の捕虜1万人を送還し冊封されるが関係は次第に悪化し31年から千里長城を建設。それでも対唐宥和路線を堅持したため42年強硬派の将軍淵蓋蘇文のクーデタで打倒され殺された。

【淵蓋蘇文】
7C高句麗末期の宰相、将軍。642年クーデタを起こして栄留王をはじめ対唐宥和派を殺戮し、宝蔵王を擁立して政権を掌握。対外強硬策を取り、新羅の金春秋(後の武烈王)の救援要請も拒否した。644-45年と661年の唐の大規模遠征を撃退した。天武天皇と同一視する俗説もある。

【宝蔵王】
7C高句麗最後の王(642-68)。淵蓋蘇文主導のクーデタで擁立されたが、彼に実権はなかった。668年唐の3度目の高句麗遠征で平壌が陥落(高句麗滅亡)、唐に連行され官職を与えられた。677年唐が遼東地域を慰撫するために派遣されると靺鞨と通じて高句麗復興を企てるが失敗。

【大武芸】
8C前、渤海の第2代王(位718-37)。大祚栄の子。父の建国事業を引き継ぎ領土を拡張。唐からの自立を図り契丹への挟撃要請を拒否。国内の反対論を抑えて唐の同盟部族であった北方の黒水部に出兵。唐や新羅を牽制するため10世紀まで続く遣日本使を初めて派遣した(渤海使)。

【大欽茂】
8C、渤海の第3代王(位727-93)。文王。大武芸の子。唐との良好な関係を維持し国内を整備する文治政治を行い唐風の中央集権体制を築いた。55年上京龍泉府に遷都。日本にも十数回の遣使を行い交易で莫大な利益を得た。安史の乱に際しても賢明な行動を取り国際的地位を維持した。

【大光顕】
10C前、渤海の王子。926年契丹の侵攻によって祖国が滅亡し父王が捕縛されると契丹人の傀儡国家東丹国に抵抗し朝鮮半島北東部に自立。満州に依拠する叔父の王弟大某(名不詳)と抗争。34年定安を建国する豪族の烈氏に敗れて高麗に亡命。太祖王建により封土を与えられた。

【恵恭王】
8C後、統一新羅の王(位765-80)。8歳で即位。母后が摂政となった。治世中は開明的な律令派と復古的な貴族連合派の党争が激しく反乱が頻発。 上大等(宰相)で王族の金良相(宣徳王)のクーデタで打倒された。7Cから続く武烈王の王統は途絶え新羅の上代は彼で終わるとされる。

【宣徳王】
8C後、統一新羅の王(位780-85)。金良相。上大等(宰相)を務めた有力王族ではあったが王位継承者ではなかった。律令派と貴族連合派の党争を収集するためクーデタで恵恭王を打倒して即位。治世5年で死去したため政治的混乱は収まらず王位簒奪が続き、彼以降を新羅の下代という。

【哀荘王】
8C末-9C初、統一新羅の王(位800-09)。金清明。13歳で即位。叔父の金彦昇(後の憲徳王)が摂政として補佐した。801年耽羅国(済州島)から朝貢を受ける。02年海印寺を創建。03年約20年ぶりに日本との国交を再開。09年叔父のクーデタで殺された。

【憲徳王】
9C前、統一新羅の王(位809-26)。金彦昇。祖父の元聖王、兄の昭聖王、甥の哀荘王に仕えたがクーデタで甥を殺害して即位。治世中は飢饉と反乱が続発して治安は崩壊し唐や日本へ難民が流出。王権は弱体化し地方は貴族の支配に任され、治安維持は花郎集団が担った。

【張保皐】
9C前、統一新羅の軍人。鎮海将軍。奴隷貿易をしていた海賊を海運業、造船業に従事させる懐柔策で平定。唐の新羅人居留地を結ぶ一大海上勢力を張り交易を支配した。新羅王位を左右できるほどの実力を持ち、846年文聖王に反乱するが刺客により暗殺。日本の僧:円仁の唐留学を支援。

【崔致遠】
9C後、統一新羅の文人。海雲。朝鮮漢文学の祖。唐に留学中は科挙に及第し黄巣の乱の討伐軍に加わった。帰国して官職に就くが乱世になり詩作しながら各地を放浪。後世神格化され孔子とともに文廟に祀られた。詩文集「桂苑筆耕集」が現存。唐末の状況を知る貴重な資料でもある。

【甄萱】
9C末-10C前、朝鮮後三国時代の群雄で後百済の建国者。892年新羅に反乱。全州を拠点に自立し百済王を名乗り唐にも遣使した。弓裔の建てた後高句麗、王建の建てた高麗と抗争。927年新羅の景哀王を打倒し敬順王を擁立。長男の甄神剣と対立した末幽閉され高麗に投降した。

【弓裔】
9C末-10C前、朝鮮後三国時代の群雄で後高句麗の建国者。一目大王。隻眼。盗賊出身。893年世界を救済する弥勒菩薩を自称して新羅に反乱。901年開城を拠点に後高句麗を建国。11年国号を泰封に改称。やがて狂信的で粗暴になり18年王建(高麗の太祖)のクーデタで打倒された。

【敬順王】
10C前、新羅最後の王(位927-35)。金傅。景哀王を殺した後百済の甄萱に擁立され即位。高麗と後百済の抗争になすすべなく35年群臣会議を開いて高麗への投降を決定。太子は投降を拒否し金剛山にこもり隠遁し麻衣太子と呼ばれた。高麗では太祖王建に厚遇され姻戚関係を結んだ。

【高麗王穆宗】
10C末-11C初、高麗王(位997-1009)。王訟。即位後も実権は母の千秋太后こと献哀王太后とその愛人であった金致陽が握った。1009年顕宗を擁立した武将の康兆によるクーデタで打倒された(康兆の変)。この混乱は1010年の遼による第2次侵攻を招いた。

【高麗王顕宗】
11C前、高麗の王(位1009-31)。王詢。穆宗を打倒した康兆に擁立され即位。1010年遼の聖宗の侵攻を受け奮戦するが敗れて翌年屈辱的な講和。その後は面従腹背の外交で遼に対応。18年にも大規模な侵攻を受けるが姜邯賛の活躍で撃退。係争地の江東6州を死守した。

【姜邯賛】
10C後-11C前、高麗の重臣。朝鮮の民族的英雄。顕宗に仕えた。科挙に合格した文官だったが1018年71歳のとき遼の聖宗が派遣した蕭排押率いる第5次侵攻の迎撃を指揮。要所に伏兵を仕掛けて奇襲するゲリラ戦術で遠征軍を疲弊させた上で亀州平原で総攻撃し大勝した(亀州大捷)。

【高麗王文宗】
11C、高麗最盛期の王(位1046-83)。父は顕宗。子は順宗、宣宗、粛宗の他、入宋した僧の義天。治世は対外関係が安定し制度の整備が完成、中央集権化が進み経済と文化が繁栄した。1079年病を患い日本に医師の派遣を要請。丹波雅忠の派遣が検討されるが実現しなかった。

【紀男麻呂】
6C、倭の豪族。562年欽明天皇により任那を滅ぼした新羅の討伐に大将軍として派遣された。薦集部登弭の情報漏洩もあり調伊企儺を捕縛されるなど不発に終わる。87年丁未の乱では蘇我馬子に従って物部守屋を討った。91年にも任那復興遠征を準備するが崇峻天皇暗殺により頓挫。

【東漢駒】
6C、飛鳥時代の倭の刺客。姓(カバネ)は直。東漢氏。592年崇峻天皇による誅殺を恐れた蘇我馬子の命により儀式の席で崇峻を暗殺。直後に崇峻の女御であった河上娘との密通が発覚したとして馬子に処刑されたが、口封じとみられる。これは日本史上唯一の臣下による天皇暗殺。

【来目皇子】
6C-7C初、倭の皇族。父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女、兄は聖徳太子。602年征新羅大将軍に任命され2万5000の兵を与えられるが筑紫国島郡(糸島半島)で病に倒れ翌年死去した(第2次新羅征討計画)。親新羅勢力であった蘇我氏による暗殺説は絶えない。

【観勒】
6C-7C初、百済出身の渡来僧。602年推古朝の倭に渡来。仏教だけでなく天文、暦本、陰陽道を伝える。624年ある僧の不祥事を機に僧官の整備を進言し僧正・僧都の制が定められると初代の僧正となった。飛鳥池工房遺跡から彼の名を記した木簡が出土しており飛鳥寺に住したとみられる。

【曇徴】
7C前、高句麗出身の渡来僧。「日本書紀」によると710年推古朝の倭に渡来。仏教だけでなく儒学の五経に通じ、絵の具、紙墨の製作に優れたという。従来製紙法を伝えた人物と考えられていたが近年否定されている。さらに水力を利用して粉を挽く碾磑を伝えたがこれは普及せず。

【橘大郎女】♀
7C前、倭の皇族。聖徳太子の妃。推古天皇の孫。622年に太子が死ぬと推古に「往生した太子の姿を見たい」と願い出て釆女に「天寿国繍帳」を作らせた。縦2m横4mの帳2枚にそれぞれ太子と阿弥陀如来を中央に描いて繋げた天寿国の想像図。ごく一部が現存。

【紀広純】
8C後、奈良時代の日本の武将、公卿(参議)。光仁天皇期以降の奥羽北部の蝦夷征討(三十八年戦争)の初期に従軍。鎮守将軍・大伴駿河麻呂の下で活躍。774年から鎮守将軍として戦争を指揮。80年俘囚の伊治呰麻呂の裏切りに遭い殺され、多賀城が陥落する大反乱となった(宝亀の乱)。

【大伴弟麻呂】
8C後-9C初、奈良時代-平安時代の日本の武将、公卿。藤原不比等は母方の祖父。791年から征夷大使。794年桓武天皇から史料に見える最初の征夷大将軍として節刀を賜る。副将軍の坂上田村麻呂が戦果を挙げたが翌95年節刀を返上。征夷大将軍は田村麻呂が引き継ぐ。

【文室秋津】
9C前、平安時代の日本の公卿。嵯峨、淳和、仁明朝に仕えた。武蔵、甲斐で国司を勤め勅旨牧の開発を指揮。その後中央で出世し835年記録に見える最初の検非違使別当となる。皇太子恒貞親王の春宮大夫を兼ねていたため42年承和の変で処罰され出雲に左遷。43年配所で死去。

【藤原良相】
9C、平安時代の日本の公卿、右大臣。藤原北家。父は左大臣で歌人の藤原冬嗣。兄は摂政・藤原良房。仏教を篤く信仰し度量が広く、人望を集めて兄から警戒された。一族の困窮者のために延命院、崇親院を建立。2012年彼の邸宅跡から最初期の平仮名が墨書された土器が発見された。

【源護】
10C前、平安時代の日本の豪族。筑波山西麓に広大な所領を持った。高望王の子平国香らと姻戚関係を結ぶ。平真樹との境界紛争から平将門と対立。935年将門との合戦に敗れ3人の子が戦死し国香は焼き討ちで焼死(平将門の乱開始)。翌年将門らを告訴するが朝廷は私闘とみて介入せず。

【紀淑人】
10C、平安時代の日本の貴族。朱雀天皇に仕えた。愛媛県の日振島を拠点に活動していた海賊鎮圧のため936年伊予守兼南海道追捕使に任ぜられると海賊に田畑と種籾を与える懐柔策に成功。前線で鎮圧に当たった藤原純友との関係は不明。結局純友は39年海賊と結んで反乱を起こした。

【橘遠保】
10C前、平安時代の日本の武人。940年平将門の乱の防戦に活躍。41年伊予国警固使として藤原純友の追討に当たり博多湾の戦いで追捕使小野好古、源経基らに敗れ逃れていた純友を伊予でついに捕縛。その功により宇和郡に所領を得た。楠木正成ら多くの武士が彼の末裔を名乗った。

【菅原文時】
10C、平安時代の貴族、文人。祖父は菅原道真。朱雀天皇、村上天皇、冷泉天皇、円融天皇に仕えた。漢文の名手。954年村上天皇が諸臣に政治に関する意見を求めた際、贅沢の禁止、売官の禁止、鴻臚館の再建の三箇条を故事を引用しながら建白(「意見封事三箇条」)。

【藤原千晴】
10C、平安時代の日本の貴族、武人。藤原北家。父は鎮守府将軍藤原秀郷。969年安和の変で左大臣源高明らに連座して隠岐に配流。彼のライバルであった清和源氏(密告した源満仲と捕縛した検非違使の源満季の兄弟)と左大臣を排斥したい北家嫡流との結託による陰謀とみられる。

【丹波康頼】
10C、平安時代の日本の宮中医官、鍼博士。日本最古の医学書「医心方」全30巻を編集し984年朝廷に献上。唐から伝来した文献を基に医師の倫理、各種疾患と療法、保健衛生、予防法、房中術などを網羅する体系書。この功績により丹波宿禰姓を賜り子孫に多くの医家を輩出した。

【藤原伊尹】
10C、平安時代の日本の公家、太政大臣、摂政(位971-72)。藤原北家。弟は藤原兼通、藤原兼家。妹は藤原安子。娘は藤原懐子。冷泉天皇、円融天皇は甥にあたり天皇の外戚として権勢を誇ったが孫の花山天皇即位前に死去。「梨壺の五人」による「後撰和歌集」編纂を統括。

【源為憲】
10C後-11C前、平安時代の日本の文人。三河、伊賀、美濃、遠江で国司を歴任。三十六歌仙の源順に師事。歴史、漢文、漢詩、和歌に秀で「本朝文粋」「拾遺和歌集」に掲載される。984年20歳で出家した円融天皇妃尊子内親王のために絵入りの仏教説話集「三宝絵詞」を選集。

【藤原彰子】♀
10C末-11C、平安時代の日本の一条天皇の皇后(中宮)。上東門院。父は藤原道長、弟は藤原頼通、子は後一条天皇、後朱雀天皇。女房に女流文人の紫式部、和泉式部、赤染衛門。999年入内。1011年夫の崩御、16年父の引退後は摂関政治を統率。74年没。享年87。

【藤原伊房】
11C、平安時代の日本の公家。白河天皇に仕えた賢臣として大江匡房、藤原為房とともに「前の三房」と称され順調に出世。歌人・書家としても高く評価されたが1094年大宰権帥の職権を利用して遼と密貿易を行ったことが発覚し処分を受けた。書跡は「藍紙本万葉集」など。

【安倍宗任】
11C-12C初、平安時代の日本の武将。奥州安倍氏。父は安倍頼時、兄は安倍貞任。前九年の役で父・兄とともに戦う。1059年に一族は滅ぶが彼は源義家に捕縛され伊予国に配流。67年筑前大島に再配流。1108年77歳で没。「平家物語」に残る故郷の梅を詠った和歌が名高い。

【清原武則】
11C、平安時代の日本の武将。出羽清原氏。子は清原武衡ら。奥州安倍氏との関係は良好であったが前九年の役に際し源頼義の要請で中立を破り鎮圧に加勢。するとわずか1月で安倍氏は滅び役は終結。この功績により俘囚として初めて鎮守府将軍となり奥羽の大豪族となった。

【平直方】
11C、平安時代の日本の武将。桓武平氏の当主で関白藤原頼通に仕えた。鎌倉に初めて居を構えた武将。1028年平忠常の乱に際し中原成道とともに追討使に任命され鎮圧に向かうが苦戦。30年召還された。乱で房総三カ国は荒廃したがこれは彼が兵糧米徴収権を濫用したためと見られる。

【高階為家】
11C後-12C初、平安時代の日本の官吏。祖母は紫式部。白川上皇の近臣であり関白藤原師実にも重用された。1093年南都興福寺の衆徒が春日大社の神人を彼が暴行したとして強訴。要求に従い一時土佐に配流となった。一説によるとこのとき初めて春日神木を掲げた強訴が行われた。

【李克用】
9C後-10C初、唐末五代の軍閥。隻眼。突厥沙陀族。子は五代後唐の初代皇帝李存勗。882-84年唐の僖宗の命で黄巣の乱を鎮圧。大軍閥に成長し95年晋王となる。宿敵の朱全忠と激しく抗争したが唐滅亡の翌908年病死。異名は独眼龍で伊達政宗は自ら彼になぞらえたとの説も。

【李存勗】
10C前、五代十国時代の五代後唐の初代皇帝(位923-26)。荘宗。突厥沙陀族。父は李克用。太祖朱全忠暗殺後の混乱に乗じて923年後梁を滅ぼし洛陽を都として後唐を建国。演劇に溺れ治世は国民にも武将にも評判が悪く反乱が頻発。26年李嗣源によるクーデタで殺害された。

【石敬瑭】
10C五代後晋の初代皇帝(位936-42)。高祖。ソグド系突厥。建国期から活躍した後唐の節度使であったが、契丹の力を借りて皇帝を名乗り、後唐を滅ぼして後晋を建国した。契丹に燕雲十六州を献上し、さらに毎年多額の歳幣を贈って臣従した。燕雲十六州は長年に渡り係争地となる。

【劉昫】
10C前、五代十国時代の後唐、後晋に仕えた官僚、歴史家。後晋の石重貴(出帝)の命で「旧唐書」200巻の編纂を指揮し945年成立。先行諸史料の摘録であり宋代に「新唐書」が成立すると軽視されたが散逸した史料を忠実に伝える貴重な史書として清代に二十四史に数えられた。

【劉知遠】
10C前、五代十国時代の五代後漢の建国者、初代皇帝(位947-48)。高祖。突厥沙陀族出身。後唐の明宗李嗣源、後晋の高祖石敬瑭に仕えた。燕雲十六州の遼への割譲に反対。946年後晋の出帝石重貴が遼に降伏し連行されると皇帝に推挙され947年開封で即位するが翌年死去。

【劉承祐】
10C、五代十国時代の五代後漢の第2代皇帝(位948-51)。隠帝。父は高祖劉知遠。父の死後17 歳で即位。郭威ら実力のある家臣の専横を抑えることができず反乱が頻発。加えて蝗害や水害に見舞われ後漢は悲惨な状況となった。郭威が挙兵すると混乱の中で殺された。享年21。

【郭威】
10C後、五代十国時代の五代後周の初代皇帝(位951-54)。太祖。劉知遠の重臣として五代後漢の建国に貢献。948年劉承祐が隠帝として即位すると対立。クーデタを起こして即位。国号を周とし都は引き続き開封に置いた。内政の充実に尽力。外戚の柴栄を養子とし後継者とした。

【柴栄】
五代後周の第2代皇帝(位954-59)。世宗。後周の建国者郭威(太祖)に外戚として仕え、嗣子がなかった郭威の後継者となる。54年北漢・契丹連合軍の侵入を撃退。殿前軍を編成し節度使の弱体化と皇帝権の強化を進めた。十国の後蜀、南唐にも勝利。「三武一宗の廃仏」を行った一人。

【宋の真宗】
北宋の第3代皇帝(位997-1022)。太宗の子。太宗の方針を受け継ぎ、文治主義を推進。1004年遼の聖宗の進軍に対して親征、澶州で遼軍を食い止め、澶淵の盟を結んだ。軍事的緊張緩和により北宋の経済発展の基礎を築いた。道教を尊崇し、08年宋代唯一の封禅を行った。

【寇準】
11C初北宋の宰相(任1004-06、17-20)。皇帝に対しても直言する諫臣として知られる。1004年遼が聖宗の親征により軍を南下させると王欽若らの南遷論を退け真宗を鼓舞し親征を主張。 遼軍を澶州で食い止め、澶淵の盟が結ばれた。これは北宋の安定的発展の基礎となった。

【宋の仁宗】
北宋の第4代皇帝(位1022-63)。真宗の子。12歳で即位し1033年から親政。宰相に呂夷簡を起用した治世で社会は安定し(「慶暦の治」)、優れた文人が多数登場した。西夏や遼に対する歳幣や常備軍の強化により財政の悪化が表面化した。63年嗣子が無いまま病死。

【范仲淹】
11C北宋の政治家、文人。1038年西夏建国後、44年の慶暦の和約まで国境を防備した。43年から副宰相として仁宗として「慶暦の治」に貢献した。「岳陽樓記」の中に「先憂後楽」の言葉を残し、後世に士大夫の理想像として仰がれた。宗族互助のための義荘を初めて設立(范氏義荘)。

【儂智高】
11C、宋代のチワン族の反乱指導者。チワン族の民族的英雄。父も宋に反乱したが失敗。1041年広西でチワン族と一部漢族も糾合して宋に反乱し大暦国を建国。ベトナムの李朝とも敵対。徐々に領域を拡大し皇帝を名乗った。52年広州を包囲するが失敗。53年宋の追討軍に鎮圧された。

【趙允譲】
11C、宋の皇族。生前は汝南郡王、没後は濮王。祖父は太宗、子は英宗。1059年没。従弟の仁宗に実子がなく63年英宗が即位したが皇帝の実父である彼を祭祀上皇帝格として扱うか否かで欧陽脩ら執政系官僚と司馬光ら言職系官僚が激しく対立(濮議)。新法・旧法の争いの前触れとなる。

【宋の英宗】
11C北宋の第5代皇帝(位1063-67)。先代の仁宗に嗣子がなかったため養子となり帝位を継承したが在位4年で病没した。実父である趙允讓に対する祭祀上の扱いをめぐって韓琦ら執政系官僚と司馬光ら言職系官僚が論争し、新法・旧法の争いに先駆けて深刻な党争となった(濮議)。

【宋の哲宗】
11C北宋の第7代皇帝(1085-1100)。神宗の子。徽宗の兄。9歳で即位すると1093年までは英宗の皇后だった宣仁太后高氏の垂簾政治が行われた。このとき20年余り実施された新法が全廃され大混乱が起こった。親政後は章惇が新法を復活するが混乱は止まず。24歳で崩御。

【畢昇】
11C北宋の発明家。沈括の「夢渓筆談」によると、膠泥活字を用いた活版印刷術を発明した。土を膠で固めた上に字を刻んで焼き固めた活字を鉄板上に配列した組版を用いた。木版印刷がすでに普及していたため膠泥活字は普及しなかったが、活版印刷としては先駆的。

【蔡京】
12C初北宋末期の宰相(任1103-26の間断続的)。徽宗の信任を得て権力を掌握。反対勢力を弾圧し、民衆に重税を課した。16年頃から実権を失い、25年靖康の変で失脚。書道の達人でもあった文化的才人で、風流天子;徽宗と馬が合った。のち「水滸伝」の描写で悪人の評価が確立。

【方臘】
12C前北宋末期の反乱指導者。漆園の経営者でマニ教系の秘密結社「喫菜事魔」の指導者であったが、花石綱事件をはじめとする徽宗の政治に対する不満を背景に1120年江南地方で反乱を起こした。北宋は遼攻撃を延期して禁軍を派遣し鎮圧した。「水滸伝」の登場人物としてもしられる。

【宋江】
12C前、北宋末の反乱指導者。江南の方臘の乱の最中1120年反乱を起こし華中を席巻。同年鎮圧されるが彼の36人の将軍が官軍を苦しめた。彼らをモデルに山東省の大沼沢梁山泊を巣窟とする36人の盗賊団の伝説が生まれ明代「水滸伝」が成立。同作では朝廷に投降後遼や方臘軍と戦う。

【遼の興宗】
11C、遼の全盛期の皇帝(位1031-55)。耶律只骨。父は聖宗。即位当初は母の欽哀蕭皇太后が摂政。衰退していた軍事力を再建。西夏への対応に苦慮する宋への圧力を強めて澶淵の盟を改定し歳幣を増額させた。西夏へも軍を送り朝貢させる。宋から豊かな文物が流入し国は繁栄。

【呉乞買】
12C前、金の皇帝(位1123-35)。太宗。太祖阿骨打の弟。領土を満州から華北、モンゴル高原にまで拡大した。1125年遼を滅ぼす。同盟国の宋が金を牽制する動きを見せると激怒し、27年開封を攻めて徽宗、欽宗を含む宋の支配層を金に拉致した(靖康の変)。

【王重陽】
12C金の道士。道教を革新した全真教の開祖。前半生は放蕩無頼の生活を送っていたが、1159年48歳のときに「甘河の偶仙」と呼ばれる隠者に口伝を受け、道士となった。儒教、仏教、道教の「三教一致」を標榜。「七真人」と呼ばれる高弟らの布教により同世紀中に金朝が全真教を公認。

【陸游】
12C-13C初、南宋の官僚、詩人。陸放翁。南宋四大家の1人。強硬な対金強硬論者で、中央での任官と蜀地方での隠棲を繰り返した。詩風には、愛国的な詩と田園生活を詠じた詩の二つの側面がある。「入蜀記」は紀行文の圧巻とされる。現存する詩は約9200首を数える。朱熹とも親交。

【無学祖元】
13C南宋から鎌倉時代の日本に渡った臨済宗の僧。1279年執権北条時宗に蘭渓道隆の後継として招かれ来日。弘安の役の際には時宗を精神的に支えた。時宗が元寇の戦没者慰霊のために建立した円覚寺の開山となる。円覚寺開山堂には彼の坐像が安置されている。

【蘭渓道隆】
13C南宋から鎌倉時代の日本に渡った臨済宗の僧。大覚禅師。執権北条時頼の帰依を受け、1253年に時頼が鎌倉に円覚寺を建立すると開山となる。1274年文永の役の際密偵の疑いをかけられる。78年に没し、代わって無学祖元が招かれる。

【賈似道】
13C南宋末期の軍人。理宗の寵妃であった姉;賈貴妃の縁故で出世し、国境防備を指揮。1258-60年モンゴル帝国の総攻撃を撃退した。この功績で宰相となり、理宗・度宗・恭帝の3代16年間政権を握り、改革により南宋の再建を図るが、75年元軍に大敗し失脚。流罪地で暗殺された。

【文天祥】
13C南宋末期の軍人。モンゴル帝国軍との戦いに活躍するが賈似道とは対立。臨安陥落後もゲリラ的に抵抗を続けた。1278年に捕えられて大都へ連行。クビライはその才を惜しんだが宋朝への忠節を守ったため83年処刑された。後世忠臣の鑑として称えられ、日本の尊王思想にも好まれた。

【ボルテ】♀
12Cモンゴル帝国のチンギス・カンの皇后。コンギラト部族の族長の娘。子はジョチ、チャガタイ、オゴデイ、トルイ。ジョチを産む直前にメルキト部族に拉致・強制結婚させられており、ジョチの実父はテムジンではないとする説が当時からある。

【ジョチ】
13C前モンゴル帝国初期の王族。チンギス・カンの長男でバトゥの父。ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の始祖。オイラト、キルギスの征服、金への遠征、中央アジア遠征で活躍し、カザフ草原に所領(ウルス)を築いたが、1225年病没。チンギス・カンの実子ではないとの説がある。

【グユク】
13C第3代モンゴル帝国皇帝(位1246-48)。第2代皇帝オゴデイの長子。父帝の時代にバトゥの欧州遠征に参加。41年父帝が死去。46年母ドレゲネの尽力によりクリルタイで皇帝に選出。母の死後、色目人のアブドゥッラフマーン罷免など粛清を断行。48年征西の途上で死去。

【モンケ】
モンゴル帝国の第4代皇帝(位1251-59)。チンギス・ハーンの末子トルイの長男でクビライの兄。1248年グユクが死ぬとバトゥの支持を受けてク即位。オゴデイ家やチャガタイ家の反対派を粛清。フレグを中東に派遣し58年アッバース朝を滅ぼす。自ら南宋遠征に出たが四川で病没。

【耶律楚材】
13C前、モンゴル帝国に仕えた契丹人の官僚。遼の王族出身。1214年金に侵攻したモンゴル帝国軍の捕虜となるが、占星術に通じたためチンギス・カンの側近となる。後継のオゴデイにも重用され、華北の漢人統治に携わった。ムスリム系官僚が台頭すると、税方式をめぐって対立した。

【ラッバーン・バール・サウマ】
13Cウイグル人のネストリウス派僧侶。大都近郊で活動後弟子のラッバーン・マルコス(のちネストリウス派総主教)とエルサレム巡礼に出立。イルハン朝アルグンの外交使節として欧州に派遣され各国君主や教皇と面会したがマムルーク朝挟撃の軍事同盟の締結は失敗。

【蒲寿庚】
南宋末元初の貿易商、軍人。アラブ系イスラム教徒。泉州で貿易商として大船団を率い、それを転用した福建水軍の司令官となる。南宋首脳部は彼を頼り泉州遷都を検討するが結局元に寝返り、南宋の再興は絶望的となった。元朝でクビライの海上進出に協力。泉州の空前の繁栄を導いた。

【王実甫】
元代中国の劇作家。元曲作家の代表者。詳細な経歴不明。元稹による唐代の短編伝奇恋愛小説「鶯鶯伝」を戯曲にした「西廂記」が北曲の傑作とされる。原作では悲恋に終わる主人公とヒロインが「西廂記」ではラストで結ばれる。儒教の封建的道徳に抗い自由を求める人々の姿を描いたとも。

【馬致遠】
13C末-14C初、元の劇作家。元曲四大家の1人。号は東籬。代表作は王昭君を主題とした雑劇「漢宮秋」で、「元曲選」の巻頭を飾る。元帝が雁の声に王昭君への思慕の情を募らせるシーンで知られる。「任風子」「岳陽楼」「黄梁夢」には仙人奇跡が登場し、彼の超世思想を示す。

【玉澗】
13C南宋末元初の画僧。浙江省金華出身。出家後杭州上天竺寺書記となる。各地を歴訪して山水画を描く。唐の画風を伝えるラフスケッチのように粗放な破墨を得意とした。代表作は洞庭湖を描いた「瀟湘八景図」で、三品が日本に現存する。日本では水墨画のみならず庭園造りにも影響を与えた。

【曲承裕】
9C末-10C初、ベトナム北部の豪族。海陽を拠点に頭角を現し交州(ハノイ)を占領。906年唐末の混乱に乗じて静海軍節度使を自称して自立し隋唐帝国によるベトナムの第3次北属期を終わらせた。彼の地位は子の曲顥、孫の曲承美へと世襲され930年まで自立を維持した(曲氏政権)。

【丁部領】
10C後、大瞿越(北ベトナム)丁朝の創始者、初代皇帝(位968-79)。十二使君の乱に際して各地の豪族を次々に打倒し北ベトナムを統一して王朝を樹立。元号の制定、貨幣の鋳造、文武僧道の人事など中国式の国内制度を整備した。973年宋に朝貢。最期は暗殺され翌年王朝は滅亡。

【黎桓】
10C後-11C初、大瞿越(北ベトナム)前黎朝の創始者、初代皇帝(位980-1005)。丁朝の将軍であったが979年丁部領の死後クーデタで実権を掌握。宋の侵攻を受けたが撃退し93年には冊封された。82年チャンパに侵攻し従属させる。統治には圧政を敷いたため反乱が頻発した。

【李公蘊】
11C初、大越(北ベトナム)李朝の創始者、初代皇帝(位1010-28)。李太祖。閩南民系の漢族。前黎朝の黎桓に仕えるがその死後帝位を奪って王朝を樹立。昇龍(ハノイ)へ遷都。宋から冊封。前黎朝末期の苛烈な統治を改め周辺民族と和平を推進したがムオン族には苦戦。仏教を奨励。

【李常傑】
11C-12C初、李朝大越の武将。ベトナムの民族的英雄。宦官。1069年チャンパに侵攻し王を捕縛、3州を奪う。75年宋の王安石の大越侵攻計画を察知し宋に侵攻。反撃に侵攻してきた宋軍を迎撃。戦争は泥沼化して78年以降段階的に和議が成立。戦後は宰相として内政も指揮した。

【陳興道】
13C大越陳朝の王族。英雄的軍人。叔父にあたる陳太宗に仕え、1257年モンゴル軍の侵攻撃退に活躍。82年元の侵攻に際し総司令官としてゲリラ戦を繰り広げて元軍に大勝。87-88年3度目の侵攻もチャンパとの共同戦線を張り、退却する元軍を白藤江の戦いで撃滅した。

【ヤショヴァルマン1世】
9C後-10C前、クメール王朝の王(位889-910)。父王が建設を進めていたヒンドゥー教寺院ロレイを完成させた。内乱を避けアンコールに新都を建設し遷都。近郊に東バライ(大規模な貯水池)やプノン・バケン寺院を建設した。最期はハンセン病により死去。

【スーリヤヴァルマン2世】
12C、クメール王朝の王(位1113-50)。シャム人、モン人、チャンパ王国と戦い領土を拡張。ヒンドゥー教寺院建築に熱心で、大伽藍と精緻な浮き彫り彫刻を備えるアンコール・ワットの他、トマノン、バンテアイ・サムレ、タイのピマーイ遺跡を建築。

【ジャヤーヴァルマン7世】
12C末-13C初、クメール王朝最盛期の王(位1181-1218頃)。チャンパとの戦争に勝利し城砦都市アンコール・トムを建設。敬虔な仏教徒で寺院の他多数の病院を建設した。三島由紀夫が戯曲「癩王のテラス」にハンセン病患者として描いたがフィクションである。

【アラー・ウッディーン・ハルジー】
13C末-14C前、デリー・スルタン朝のハルジー朝のスルターン(位1266-1316)。伯父である建国者ジャラールッディーン・ハルジーを打倒して即位。チャガタイ・ハン国やイルハン国の侵入を撃退。財宝と家畜を求めて度々南インドに侵入した。

【クロタール2世】
7C前、メロヴィング朝フランク王国第3代の王(位613-29)。クロタール1世の孫。584年北西部のネウストリア王となる。北東部のアウストラシア、南東部のブルグントを支配していた同族を打倒して祖父の死後分裂していたフランク王国を再統一した。分王国に宮宰を導入。

【ダゴベルト1世】
7C前、メロヴィング朝フランク王国の王(位629-639)。父はクロタール2世。631年スラブ人を糾合したサモの王国と戦う。32年異母兄弟が承継していたアキタニア(アキテーヌ地方)を併合して王国を統一。彼の死後王国はまたも分国に分かれ王朝は決定的に衰退した。

【ピピン2世】
7C後-8C前、フランク王国の宮宰(任680-714)。中ピピン。カール・マルテルの父。王国東部のアウストラシアを拠点に西部のネウストリアの宮宰エブロインと抗争。エブロインの死後ネウストリアと南部のブルグントにも支配を拡大し王国内に一族の支配権を確立した。

【聖ボニファティウス】
8C、イングランド出身、フランク王国で活動したキリスト教の宣教師。「ドイツ人の使徒」。宮宰カール・マルテルの庇護を得て北ゲルマン諸部族の改宗を進めたが「トールのオーク」伐採をはじめゲルマン信仰の聖所破壊を伴った。754年北海沿岸でフリース人に殺害され殉教。

【アウストラシア宮宰カールマン】
8C前、フランク王国の宮宰(位741-47)。カロリング家。父はカール・マルテル、弟はピピン3世。父の死後弟と王国を分割し南部のアウストラシアを支配。743年メロヴィング家のキルデリク3世を王位につける。47年突然修道院に隠棲し弟が全土を支配。

【ステファヌス3世】
8C後、ローマ教皇(位752-57)。2世と呼称する場合もある。フランク王国との接近を進め、754年ピピン3世と2人の子(カールマンとカール大帝)を聖別。56年見返りとしてランゴバルド王国を滅ぼしたピピン3世からラヴェンナ地方の寄進を受けた(ピピンの寄進)。

【フランク王カールマン】
8C後、カロリング朝フランク王国の王(位768-71)。父はピピン3世、兄はカール大帝。父の死後王国を兄と分割して相続し、南東部のブルグントと南西部のアウストラシアを領有した。兄とは不仲であり、彼の死後妻子はランゴバルド王国に逃亡。王国は兄が相続した。

【ヴィドゥキント】
8C後-9C初、ザクセン人の首領。772年から聖木を伐採して侵攻したフランク王国のカール大帝にゲリラ戦で抵抗(ザクセン戦争)。86年降伏しカトリックに改宗。ザクセン公に封じられ修道院で余生を送った。彼の改宗はカトリックの勝利の象徴として絵画や彫刻に描かれた。

【フランク王ルートヴィヒ1世】
9Cカロリング朝フランク王国の王(位814-40年)。敬虔王。カール大帝の子。817年父から継いだ広大な帝国を部族の伝統に従い帝国を分割相続する取り決めを行う。彼の死後長男ロタール1世、三男ルートヴィヒ2世、四男シャルル2世により帝国は分割された。

【ロタール1世】
9Cフランク王(840-43)、中フランク王(43-55)。カール大帝の孫、ルートヴィヒ1世の長男。弟である東フランク王ルートヴィヒ2世と西フランク王シャルル2世に敗れ、845年ヴェルダン条約で帝国を3分。死の直前3人の子に分割相続し中フランク王国はさらに分裂。

【東フランク王ルートヴィヒ2世】
9Cカロリング朝東フランク王国の初代王(位843-76)。ドイツ人王。ルートヴィヒ1世の三男。弟シャルル2世と結んで兄ロタール1世に対抗(ストラスブールの誓約)。843年のヴェルダン条約で東フランク王国を形成、70年メルセン条約で領土を拡張した。

【シャルル2世】
9C西フランク王国の初代国王(位843-77)。禿頭王。父ルートヴィヒ1世(敬虔王)の死後次兄ロタール1世と結んで長兄ルートヴィヒ2世と争い、843年ヴェルダン条約で王国を3分した。70年にはメルセン条約でイタリアを除く中フランク王国を分割、フランスを形成した。

【西フランク王ルイ3世】
9C後、西フランク王国の王(位879-82)。カロリング家。祖父は禿頭王シャルル2世。弟はカルロマン2世。父王の死後弟王と共同統治。880年リブモント条約でロートリンゲン西部を東フランク王国に割譲、これが中世の独仏国境となる。81年ノルマン人を破る。

【カルロマン2世】
9C後、西フランク王(位879-84)。カロリング家。祖父は禿頭王シャルル2世、兄はルイ3世。父王の死後兄王と共同統治。ボソの反乱にみまわれる。82年兄の死により単独統治。84年狩猟中に事故死。王国は東フランク王カール3世が承継し一時的に東西フランク王国統一。

【フランク王カール3世】
9C、フランク王(位884-87)。肥満王。父は東フランク王ルートヴィヒ2世。2人の兄の死により82年東フランク王となる。84年西フランク王カルロマン2世の死により東西フランク王国を一時的に再統一。ノルマン人、イスラム勢力の侵入に対処できず87年退位。

【ステファヌス5世】
9C前、ローマ教皇(位816-17)。カール大帝に戴冠した先代のレオ3世の路線を継承してフランク王国への接近を推進した。816年アルプス山脈を越えランスで大帝の子ルートヴィヒ1世に戴冠。翌年ローマに帰還後まもなく死去。

【ローマ教皇レオ4世】
9C、ローマ教皇(位847-55)。847年ボルゴ地区で起った火災を鎮火する奇跡を起こしたという。ムスリム艦隊の侵入に対しイタリア諸都市の同盟軍を結成し49年オスティアの海戦で勝利。2つの出来事は16Cにラファエロ・サンティの弟子がバチカン宮殿に描いた。

【ローマ教皇ヨハネス8世】
9C後、ローマ教皇(位872-88)。875年西フランク王シャルル2世、81年フランク王カール3世をそれぞれローマ皇帝に戴冠した。スラヴの使徒メトディオスの宣教を支援し典礼でのスラヴ語使用を認めた。東方教会と和解しフォティオスの分離を解消。

【東フランク王アルヌルフ】
9C後、東フランク王(位887-99)。カロリング家。子はルートヴィヒ4世。叔父のフランク王カール3世の廃位後東王国を継承。891年ノルマン人に勝利。東方のモラヴィア王国とも戦う。96年イタリアに侵攻。教皇フォルモススによってローマ皇帝に戴冠される。

【グイード・ダ・スポレート】
9C後、イタリア王(位889-94)。イタリア中部のスポレート公国の君主だったがフリウーリ辺境伯ベレンガーリオ1世とイタリア王位を争い勝利。91年教皇ステファヌス6世からローマ皇帝に戴冠される。同年以降東フランク王アルヌルフの侵攻を受けた。

【ベレンガーリオ1世】
9C後-10C前、イタリア王(位888-924)。北東部のフリウーリ辺境伯だったがフランク王カール3世の廃位後諸侯・司教会議でイタリア王に選出。グイード・ダ・スポレート、プロヴァンス王ルイ3世らと抗争。915年ローマ皇帝に戴冠。軍の主力はハンガリー人傭兵。

【西フランク王ウード】
9C末、ロベール家の西フランク王(位888-898)。カロリング家以外から初めての王。パリ伯であったが886年にパリを包囲したノルマン人を撃退し英雄となる。888年有力な諸侯・聖職者推されて即位。カロリング家のシャルル3世と争うが、和睦して後継に指名した。

【西フランク王シャルル3世】
9C末-10C前、カロリング家の西フランク王(位893-922)。単純王。ノルマン人、イスラム勢力、マジャル人の侵入が続く中、ウードと王位を争い、その死後王位に就く。ノルマン王ロロと和睦しノルマンディー公に封じた。ウードの弟ロベール1世に敗れ廃位。

【リシャール1世】
10C、ノルマンディー公(位942-96)。無怖公。祖父はロロ。娘はエマ・オブ・ノーマンディー。父公の死後10歳で公位を継ぐ。公国は西フランク王ルイ4世に占領されるが947年までに撃退。ユーグ大公と結んで安定を確保し公国内に封建制を導入し国力を充実させた。

【西フランク王ロテール】
10C後、西フランク王(位954-86)。カロリング家。子はルイ5世。神聖ローマ皇帝オットー2世とロレーヌ地方をめぐって抗争するが980年講和し同地方を放棄。これにより同地方は13Cまで神聖ローマ帝国に帰属。台頭するユーグ・カペーとは次第に対立した。

【西フランク王ルイ5世 】
10Cカロリング朝最後の西フランク王(位986-87)。怠惰王。即位後1年で事故死。継嗣はなく、カロリング朝は断絶。彼と対立していたロベール家のユーグ・カペーが王位に就き、14Cまで続くカペー朝がされる。これ以後西フランク王国はフランス王国と呼ばれる。

【東フランク王ルートヴィヒ4世】
9C末-10C初、カロリング朝最後の東フランク王(位899-911)。小児王。6歳で即位し17歳で死去。有力な貴族や聖職者が摂政団を形成し政治を代行した。在位中はマジャル人の侵入が続いた。嗣子はなく、東フランク王国のカロリング朝は断絶。

【東フランク王コンラート1世】
10C初、東フランク王(位906-11)。小コンラート。911年東フランクのカロリング朝が断絶するとフランケン公から貴族による選挙で王に選ばれた。死に際して宿敵であったザクセン公ハインリヒ1世を後継に指名した(ザクセン朝の創始)。

【ローマ教皇ヨハネス12世】
10Cローマ教皇(位955-64)。周辺諸侯と戦った際、東フランク王国のオットー1世に救援を要請。見返りとして962年オットーに対し「ローマ皇帝」の帝冠を与えた(神聖ローマ帝国成立)。まもなくオットーと対立し廃位された。教皇の権威は急落(鉄の時代)。

【ブルグントのアーデルハイト】♀
10C神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世の皇后。973年の夫の死後、子のオットー2世が帝位を継ぐと母后として政治を補佐。ビザンツ帝国皇族出身のテオファヌが皇后となると対立。991年からは孫のオットー3世の政治も補佐した。クリュニー修道院を支援。

【オストマルク辺境伯ゲロ】
10C、神聖ローマ帝国の辺境伯。オットー1世の下で帝国の東方に広大な領地を獲得(ゲロ辺境伯領)。先住のザクセン人やソルブ人に苛烈な支配を行った。嗣子はなく、死後領地はノルトマルク、ザクセンのオストマルク、マイセンなど6つの辺境伯領に分割された。

【シュヴァーベン大公リウドルフ】
10C、神聖ローマ帝国の大公。神聖ローマ皇帝オットー1世の子。父の皇帝戴冠前の953年義弟のロートリンゲン公コンラートとともに父に反乱を起こした。ハンガリー人と手を結んだことが不評で味方が離反し翌年降伏。57年イタリア遠征中父に先立って死去。

【ロートリンゲン公コンラート】
10C、ロートリンゲン大公(位944-53)。赤毛公。ザーリアー家。義父は初代神聖ローマ皇帝オットー1世。953年義父の実子シュヴァーベン大公リウドルフとともに義父に反乱。54年の帝国会議で和解。55年マジャル人を迎撃したレヒフェルトの戦いで戦死。

【神聖ローマ皇帝オットー2世】
10Cザクセン朝の神聖ローマ皇帝(973-83)。オットー1世の子。妻は東ローマ帝国の皇族であるテオファヌ。子はオットー3世。バイエルン公ハインリヒ2世の反乱を鎮圧。イタリア遠征を行ったがイスラム軍に敗れた。最期はマラリアで死去。享年28歳。

【オットー3世】
10C末-11C初の神聖ローマ皇帝(位983-1002)。3歳で王位を継承。母テオファヌや祖母アーデルハイトが摂政を執った。996年(14歳)から親政。古代ローマ帝国の復興と神権政治を企図。師のジェルベールを教皇に立てた(シルウェステル1世)。21歳で病没。

【神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世】
11C、ザクセン朝最後の神聖ローマ皇帝(位1002-24)。カトリックの聖人。1002年前帝オットー3世が21歳で急逝すると各地の実力者が帝位を狙ったが、バイエルン大公だった彼が帝位についた。教会の刷新に尽力し、結果的に帝国教会体制が強化された。

【神聖ローマ皇帝コンラート2世】
11C前、ザーリアー朝初代の神聖ローマ皇帝(位1027-39)。ザクセン朝の断絶により1024年の国王選挙で諸侯からドイツ国王に選出。26年からイタリアに遠征し翌年教皇から戴冠される。ブルグント王国を帝国領に加える。シュパイアー大聖堂の建設者。

【ヨハネス19世】
11C前、ローマ教皇(位1024-32)。20世とも。元来聖職者ではなかったが兄のローマ教皇ベネディクトゥス8世のあとを継いで教皇に選出。1024年サン・ピエトロ大聖堂でコンラート2世を神聖ローマ皇帝に戴冠。求心力は低く聖職叙任権は皇帝に握られた。

【神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世】
11C、ザーリアー朝第2代の神聖ローマ皇帝(位1039-56)。黒王。ハインリヒ4世の父。1046年スートリ公会議で鼎立していた3人の教皇を廃して以降ドイツ人の教皇を次々に擁立し、皇帝権の最盛期をなした。賢明な教養人で学問を奨励した

【アグネス・フォン・ポワトゥー】♀
11C、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の皇后。子は神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世。1056年夫の死後子が6歳で即位すると62年まで摂政として実権を握った。諸侯との関係に苦慮しつつ帝国を維持。教皇庁と対立し61年対立教皇ホノリウス2世を擁立。

【ローマ教皇レオ9世】
11Cローマ教皇(位1049-54)。クリュニー修道院の影響を受け教会改革を行い、聖職売買と聖職者妻帯を厳に戒めた。教皇首位権を巡ってコンスタンディヌーポリ総主教ミハイル1世と対立。53年イタリア半島南部のノルマン人と自ら戦うが捕虜となり翌年獄死。

【対立教皇クレメンス3世】
11C後、ローマ教皇グレゴリウス7世、ウルバヌス2世ら4代に渡る対立教皇(位1080-1100)。叙任権闘争でグレゴリウス7世と対立する神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世とドイツの司教たちに擁立される。84年ローマに入りハインリヒ4世に改めて戴冠。

【マティルデ・ディ・カノッサ】♀
11C-12C初トスカーナ辺境女伯。1077年神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と対立していた教皇グレゴリウス7世を所領のカノッサ城に招いた際、窮地に陥った皇帝が城の前で皇帝に許しを請うた(カノッサの屈辱)。その後も教皇派としてハインリヒ4世と戦う。

【ロベルト・イル・グイスカルド】
11C南イタリアのプッリャ・カラブリア伯。ノルマン人。シチリア伯ルッジェーロ1世の兄。傭兵出身。南イタリアでアラブ人や東ローマ帝国と戦い広大な所領を得る。1084年神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世に包囲されたローマ教皇グレゴリウス7世を救出。

【神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世】
11C末-12C初、ザーリアー朝最後の神聖ローマ皇帝(位1099-1125)。ハインリヒ4世の次男。叙任権闘争の決着を図り1111年教皇を屈服させるが、逆に破門される。結局22年ヴォルムス協約で教皇の叙任権を認め、神権的な皇帝権は失われた。

【神聖ローマ皇帝コンラート3世】
12Cホーエンシュタウフェン朝初代の神聖ローマ皇帝(位1138-52)。1138年の皇帝選挙で選出。1147年第2回十字軍に参加。ザクセン・バイエルン公のハインリヒ尊大公・獅子公親子と対立した。死に際しては甥のフリードリヒ1世を後継に指名。

【ザクセン公ハインリヒ3世】
12C神聖ローマ帝国の領邦君主。獅子公。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の従弟。対立していた従兄が帝位に着くと和解して武勲をあげる。リューベック、ミュンヘンを建設し、東方植民に尽力した。英国やビザンツ帝国とも手を結んだが、従兄に危ぶまれ追放された。

【デンマーク王ヴァルデマー1世】
12C後のデンマーク王(位1157-82)。大王。フランス王妃インゲボルグの父。スヴェン3世、クヌーズ5世との王位継承戦争に勝利して内乱を収束。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に臣従を誓い、叙任権闘争においても皇帝派を支持した。

【神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世】
12C後、ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝(位1191-97)。父はフリードリヒ1世、子はフリードリヒ2世。ザクセン公ハインリヒ獅子公やイングランド王リチャード1世と対立。1194年シチリア征服。国王選挙廃止・世襲制確率を企図したが失敗。

【神聖ローマ皇帝コンラート4世】
13Cホーエンシュタウフェン朝最後の神聖ローマ皇帝(位1250-54)。父はフリードリヒ2世。母はエルサレム女王イザベル2世。在位4年で死去。残された一族はシチリア王カルロ1世に滅ぼされ、ホーエンシュタウフェン朝は断絶。帝国は大空位時代を迎える。

【ノルウェー王ハーラル1世】
9C後-10C前、ノルウェー最初の統一王(位872頃-930頃)。美髪王。オスロ・フィヨルド付近出身のヴァイキングだが統一戦争を展開し885年までに沿岸部を統一した。サガによるとトランス状態で戦うベルセルク(狂戦士)による親衛隊を組織したという。

【レイフ・エリクソン】
10C末-11C初、グリーンランドのヴァイキング。赤毛のエイリークの子。「サガ」によると、グリーンランドから西へと航海し、1000年に豊かな「ヴィンランド」を発見し、入植した。入植地はその後放棄されたが、カナダのニューファンドランド島に定住地跡が残る。

【スウェーデン王オーロフ】
10C末-11C前、スウェーデン王(位992-1022)。課税王。ユングリング家。1000年頃デンマーク王スヴェン1世と連合してノルウェー王オーラヴ1世の遠征を撃退。1008年キリスト教に改宗し司教座を置く。これは北欧で最も遅いキリスト教化。

【ノルウェー王オーラヴ2世】
11C前のノルウェー王(位1015-28)。聖王。キリスト教の聖人。子はマグヌス1世。ノルマンディ滞在中にキリスト教に改宗。ノルウェーのキリスト教化に尽力したが、北欧信仰の祭司を務める諸侯はこれに反発した。デンマークのクヌート大王の侵攻を受け廃位。

【ベーダ・ヴェネラビリス】
7C後-8C前、七王国時代のイングランドのキリスト教聖職者。教会博士。尊者ベーダ。ギリシア・ローマの古典に通じ、多岐にわたる著作を残した。主著は「イングランド教会史」で、史料としても文学としても名高い。特にカトリックとケルト系キリスト教の軋轢を詳述。

【エゼルレッド2世】
10C後-11C前、イングランド王(位978-1016)。無思慮王。王妃はエマ・オブ・ノーマンディー、子はエドワード懺悔王。デーン人の侵入に貢納で対処したが1013年デンマーク王スヴェン1世に王位を奪われる。翌年復位。その後は大王クヌート1世の侵入に苦慮。

【エマ・オブ・ノーマンディー】♀
11C、イングランド王妃。父はノルマンディー公リシャール1世。最初の夫はエゼルレッド2世で間の子はエドワード懺悔王。2番目の夫は大王クヌートで間の子はハーデクヌーズ。クヌートの前妻の子ハロルド1世の治世時には故郷のノルマンディーに亡命していた。

【スヴェン1世】
10C後-11C前、デンマーク王(位985-1014)。ノルウェー王を兼ねる。双叉髭王。イェリング朝。子は大王クヌート1世。たびたびイングランドを攻撃し1013年エゼルレッド2世を破ってついにイングランド王位に就き北海帝国の先駆けをなすが翌年急死。

【エドワード懺悔王】
11C中サクソン系のイングランド王(位1042-66)。デーン人の支配を逃れ、1013年から28年間を亡命先のノルマンディーで修道士としてすごしたため結婚後も童貞を守り、子はいなかった。ロンドンにウェストミンスター寺院を建設。のちに聖人として理想化された。

【フェルナン・ゴンサレス】
10C、カスティーリャ伯。当初は宗主国のレオン王国と協力して後ウマイヤ朝に対するレコンキスタに身を投じるが次第に独立志向を強めレオン王国に反抗し961年事実上独立。この抗争によりキリスト教国は後ウマイヤ朝との戦いで劣勢に立たされる。武勲詩が名高い。

【ナバラ王サンチョ3世】
11C前、イベリア半島北東部のナバラ王国の王(位1004-35)。大王。積極的な婚姻外交により1029年カスティーリャ、34年レオンの王位を取得し半島北部のキリスト教国を支配下に置いた。レコンキスタには消極的で国内の充実を優先。欧州との交易が活発化した。

【アラゴン王ラミロ1世】
11C、アラゴン王国の初代王(位1035-63)。父はナバラ王サンチョ3世。異母弟はカスティーリャ王フェルナンド1世ら。父の遺領のうちアラゴンを相続したことで王国を創始。弟たちと領土を争う。1063年サラゴサとカスティーリャの連合軍に敗れ戦死。

【カスティーリャ王フェルナンド1世】
11C、カスティーリャ=レオン王国の初代王(位1035-65)。大王。父はナバラ王サンチョ3世。後ウマイヤ朝滅亡後のイスラーム諸王国(タイファ)の内乱につけこんでレコンキスタを進めバダホス、トレド、サラゴサ、セビリアの各王国を臣従させた。


【コンスタンス2世】
7C、東ローマ皇帝(位641-68)。ポゴナトス。ヘラクレイオス王朝。イスラーム勢力のジハードが第一次内戦で停滞した隙に西方遠征を敢行し663年にはローマ市を訪問。シチリア島を拠点に地中海からジハードに反撃する構えを見せたが反対する軍部に暗殺された。

【ダマスコのイオアン】
8C前、キリスト教聖職者。ギリシャ教父の1人。シリアのダマスコ出身でイスラーム勢力の支配下で活動した。東ローマ皇帝レオーン3世の聖像破壊運動(イコノクラスム)に国外から反対。その後エルサレムの修道院に隠棲。正教会の教会音楽の基礎を成す八調を体系化した。

【コンスタンティノス5世】
8C、東ローマ帝国皇帝(位741-75)。レオーン3世の子。イサウリア朝。皇帝直属の常備軍タグマを整備。北西のブルガリア帝国と優位に戦い、ウマイヤ朝からも一部領土を奪回。父の始めたイコノクラスム(聖像破壊運動)を強引に推進し反対派を大弾圧した。

【東ローマ皇帝エイレーネー】♀
8C末-9C初、東ローマ皇帝(位797-802)。帝国初の女帝。イサウリア朝。夫はレオーン4世、子はコンスタンティノス6世。アテネ出身。780年夫の死後子が9歳で即位すると摂政。97年子を追放して即位。ニケフォロス1世のクーデタで打倒された。

【東ローマ皇帝ニケフォロス1世】
9C前、東ローマ皇帝(位802-11)。女帝エイレーネーの下で財務長官を務めたが他の官僚や近衛隊と共謀してクーデタを起こし即位。財政再建のために厳しい課税を行った。811年ブルガリアに侵攻するが奇襲を受けて敗北し戦死(プリスカの戦い)。

【レオーン5世】
9C前、東ローマ皇帝(位813-20)。アルメニア人の軍人出身。ブリガリア皇帝クルムに敗れたミカエル1世ランガベーから譲位された。14年クルムの子オムルタグと講和。15年27年ぶりにイコノクラスムを再開。20年重臣であったミカエル2世のクーデタで打倒された。

【ミカエル3世】
9C、東ローマ皇帝(位842-67)。2歳で即位。855年クーデタで母を追放して親政を開始。キュリロスとメトディオスをモラヴィアに派遣。「フィリオクェ問題」やフォティオスの総主教任命をめぐってローマ教皇と対立。最期はバシレイオス1世のクーデタで打倒された。

【コンスタンディヌーポリ総主教フォティオス1世】
9C、東ローマ帝国の聖職者。858年学者、官僚出身ながら皇帝ミカエル3世によりコンスタンディヌーポリ総主教に任命され反対意見が噴出。ローマ教皇ニコラウス1世が介入し東西教会が対立した(フォティオスの分離)。古典文芸の復興に尽力。

【スラヴの使徒キュリロス】
9C、東ローマ帝国のキリスト教神学者。ラスチスラフ王の要請によりモラヴィア王国に兄メトディオスとともに派遣された。聖書を古代教会スラヴ語に翻訳するためグラゴル文字を考案。これを弟子が改良したのがスラブ諸語を表記するキリル文字で、その名は彼にちなむ。

【スラヴの使徒メトディオス】
9C、東ローマ帝国のキリスト教聖職者。ラスチスラフ王の要請によりモラヴィア王国に弟メトディオスとともに派遣された。弟の考案したグラゴル文字で聖書を古代教会スラヴ語に翻訳。869年弟の死後もローマ教皇ハドリアヌス2世の支援でスラヴ地域に布教。

【バシレイオス1世】
9Cビザンツ帝国皇帝(位867-86)。アルメニアの農民の子から出世し、867年ミカエル3世を暗殺して帝位を奪い、11Cまで続くマケドニア朝を創始した。キプロス島や南イタリアをめぐってイスラーム勢力と抗争。フォティオス1世を罷免してローマ教会と和解を図った。

【ニケフォロス2世フォカス】
10C後、東ローマ皇帝(位963-69)。軍人出身。即位前の961年海賊の巣窟となっていたクレタ島をイスラム勢力から奪回し東地中海の制海権を回復。69年にはアンティオキアを奪回。しかし内政は不評で甥のヨハネス1世ツィミスケスのクーデタで打倒された。

【アトスのアサナシオス】
10C、東ローマ帝国の修道士。コンスタンティノープルで名声を得るが飽き足らず958年聖母マリアの聖地ギリシャのアトス山に入る。63年メギスティス・ラヴラ修道院を設立し皇帝ニケフォロス2世フォカスから免税特権を得る。以後同地は正教会の一大中心地となる。

【ヨハネス1世ツィミスケス】
10C後、東ローマ皇帝(位969-76)。マケドニア王朝。軍人出身。叔父であるニケフォロス2世フォカスをクーデタで打倒して即位。各地に遠征し領土を拡大。キエフ大公国を撃退、第1次ブルガリア帝国に侵攻、中東にも遠征しファーティマ朝からシリアを奪った。

【ミカエル・プセルロス】
11C、東ローマ帝国の官僚、哲学者、歴史家。ミカエル7世ドゥーカスの家庭教師であった。この時期頻発した皇帝の交代に黒幕として関与。主著は同時代の皇帝たちの伝記を綴った「年代記」。その他多数の著作を残し古典文化を復興。悪魔についての研究でも知られる。

【バシレイオス2世】
10C後-11C前、東ローマ皇帝(位976-1025)。マケドニア王朝。1014年クレディオンの戦いで大勝し第1次ブルガリア王国との抗争に決着をつけ約400年ぶりにバルカン半島全域の支配を回復。常に戦場におり東方はシリア、西方は南イタリアにまで領土を拡大。

【新神学者シメオン】
10C後-11C前、東ローマ帝国の神学者、修道士、神秘思想家。修道を進めることで神と霊的に一致し精神的静寂を得られる神秘体験を説いて名声を得るが批判も浴びた。多くの著作を残し神秘的修道運動(ヘシカズム)に影響を与えるとともに正教会の教義確立に貢献した。

【ロマノス4世ディオゲネス】
11C後、東ローマ皇帝(位1068-71)。ドゥーカス朝。軍人出身で女帝エウドキア・マクレンボリティサと結婚して即位。ペチェネグ族やノルマン人を傭兵として雇いセルジューク朝に対抗。1071年マラズギルトの戦いで決戦を挑むが大敗し捕縛された。

【ブルガリア皇帝クルム】
9C前、第一次ブリガリア帝国のハーン(位803-14)。衰退した北方のアヴァール人の領土を奪う。南方の東ローマ帝国にも侵入し反撃されるが811年プリスカの戦いで勝利しニケフォロス1世を殺害。13年ヴェルシニキアの戦いにも勝利し東ローマを追い詰めるが急死。

【ボリス1世】
9C後、第一次ブルガリア帝国のハーン(位852-89)。ミハイル。大帝シメオン1世の父。864年先住民の南スラヴ人との融和を図るためブルガール人の伝統信仰を棄ててキリスト教に改宗し正教会に帰依。モラヴィアを追放されたスラヴの使徒メトディオスの弟子を受け入れた。

【シメオン1世】
9C末-10C前、第一次ブルガリア帝国の最盛期の皇帝(位893-927)。大帝。父はボリス1世。東ローマ帝国をたびたび攻撃し領土と貢納を得た。マジャル人も攻撃しハンガリー平原に追いやる。スラブの使徒メトディオスの弟子を保護し、彼の治世下にキリル文字が成立した。

【ブルガリア皇帝サムイル】
10C末-11C前、第1次ブルガリア帝国の皇帝(位997-1014)。マケドニア伯の子だったが969年に帝国が東ローマ帝国に滅ぼされると反乱を起こし帝国を復興。東ローマ皇帝バシレイオス2世と抗争するが1014年クレディオン峠の戦いで大敗。

【キエフ大公オレグ】
9C後-10C前、ルーシ族の王族(位879-912)、初代キエフ大公。リューリクの死後幼いイーゴリ1世に代わって実権を握る。ドニエプル川沿いに進撃し882年キエフを陥落させノヴゴロドから遷都。911年ルーシ・ビザンツ条約を締結、通商路を支配して繁栄した。

【イーゴリ1世】
10C前、キエフ大公国の大公(位913-45)。父はリューリク(異説あり)。大公妃はオリガ。「原初年代記」によると摂政オレグの死後実権を握り周辺部族を服属させた。東方の遊牧民ペチェネグ人と抗争。最期は巡回徴貢(ポリュージエ)に反発したドレヴリャーネ族に殺された。

【キエフ大公妃オリガ】♀
10C、キエフ大公イーゴリ1世の妃。大公スヴャトスラフ1世の母。夫の死後息子の成人まで摂政。夫を殺したドレヴリャーネ族に対する凄惨な報復譚が伝わる。ポリュージエ(巡回徴税)を改めポゴスト(貢税所)を設置。キリスト教に改宗するが息子や臣下は追随しなかった。

【スヴャトスラフ1世】
10C、キエフ大公(位945-72)。父はイーゴリ1世、母はオリガ、子はウラジーミル1世。幼少時は母が摂政。親政後はドルジーナ(従士団)を率いて遠征を繰り返した。965年ハザール・カガン国を征服。西方では第1次ブルガリア帝国、東ローマ帝国にも侵攻した。

【ヤロスラフ1世】
11C、キエフ大公(位1016-54)。賢公。リューリク朝。父はウラジーミル1世。ポーランド王ボレスワフ1世と結んだ兄スヴャトポルク1世と激しく争った末に即位(ルーシ内戦)。ルーシの慣習法を成文化(ルースカヤ・プラウダ)。キエフの聖ソフィア大聖堂を建立。

【ミェシュコ1世】
10C初代ポーランド公(位963-92)。ボレスワフ1世の父。クヌート大王の祖父。ポーランドを統一し13Cまで続くピャスト朝を創始した。異教討伐を掲げる神聖ローマ帝国の侵入を食い止めるため966年ギリシア正教からカトリックに改宗。国民のカトリック化を促した。

【ポーランド王ボレスワフ1世】
10C末-11C初ポーランド初代国王(位992-1025)。勇敢王。強力な騎兵隊を編成して広大な領土を征服し、ポーランドを公国から王国に昇格させた。ビザンツ帝国や後ウマイヤ朝から文化を吸収。グニェズノに大司教座を置く。デンマーク王クヌート1世は甥。

【アールパード】
9C末-10C初、マジャル人の大首長でアールパード朝ハンガリー大公国の初代大公(位896-907)。ハンガリーの民族的英雄。ヴォルガ川南岸にいたマジャル人を率いていたがペチェネグ族に追われてバルカン半島を経てハンガリー平原に移住した。ヨーロッパ各地に遠征。

【イシュトヴァーン1世】
10C末-11C前、初代ハンガリー王(位997-1038)。聖王。マジャル人の大首長としてハンガリーの統一とキリスト教化を進め、1000年ローマ教皇から戴冠されハンガリーは大公国から王国になる。現存する聖イシュトヴァーンの王冠でも知られる。

【アレクシオス1世コムネノス】
十字軍戦争時代のビザンツ皇帝(位1081-1118)。東からルーム・セルジューク朝、西からはノルマン人に包囲された危機的状況で即位した。ローマ教皇ウルバヌス2世に傭兵の提供を要請したが、これが1096年の第1回十字軍を招いたのは彼の想定外だった。

【ゴドフロワ・ド・ブイヨン】
11C末-12C初、ロレーヌ地方の諸侯で第1回十字軍の伝説的英雄。初代エルサレム王ボードゥアン1世の兄。指導者としてファーティマ朝軍と戦い、1099年のエルサレム攻囲戦に活躍。エルサレム王になることを拒否し聖墳墓守護者を名乗った。翌1100年に死去。

【エルサレム王ボードゥアン1世】
11C末-12C初、初代エルサレム王(位1100-18)。ゴドフロワ・ド・ブイヨンの弟。第1回十字軍に参加。1098年アルメニア人居住地に最初の十字軍国家エデッサ伯国を樹立。1100年兄の死後エルサレムに入り王国樹立。地中海東岸一帯に領土を拡張。

【隠者ピエール】
11C末-12C初、フランス北部アミアンの司祭。1095年クレルモン教会会議後、民衆に十字軍参加を呼びかけた。民衆十字軍は第1回十字軍に先駆けてエルサレムを目指すが、セルジューク朝領内のニカイア付近で壊滅。彼は1099年まで十字軍に同行。死後伝説化した。

【アリエノール・ダキテーヌ】♀
12C-13C初、フランス王ルイ7世の王妃、次いでイングランド王ヘンリー2世の王妃。イングランド王リチャード1世、ジョンの母。「ヨーロッパの祖母」。1147年前夫と第2回十字軍に参加。54年後夫の即位により自らの所領と合わせアンジュー帝国を形成。

【エンリコ・ダンドロ】
12C末-13C初、ヴェネツィア共和国元首(任1192-1205)。盲。80代で元首に。1201年フランス諸侯の第4回十字軍の輸送を引き受け自らも参加。東ローマ帝室の内紛に介入し03年コンスタンティノープルを攻略。ラテン帝国を建てアドリア海の制海権を得た。

【アル=カーミル】
13C前、アイユーブ朝のスルタン(位1218-38)。建国者サラーフッディーンの甥。第5回十字軍を撃退したが、モンゴルの脅威や国内情勢に鑑み第6回十字軍を率いたフリードリヒ2世と和睦。エルサレム周辺を十字軍側に返還した。フリードリヒ2世との深い友情で知られる。

【イッズッディーン・アイバク】
13C中エジプト、マムルーク朝の建国者(位1250-57)。テュルク系のマムルークで、アイユーブ朝の親衛隊長だったたが、アイユーブ朝の女性スルターン;シャジャル・アッ=ドゥッルと結婚し、スルタン位の禅譲を受け、カリフにも承認された。

【サアディー】
13Cイランの詩人。ハーフェズとともにイラン2大詩人とされる。1226年から托鉢をしながら各地を遊学。56年からイルハン朝支配下のシーラーズで詩作を始める。代表作は「果樹園」「薔薇園」。人生訓に満ちた散文詩で、世界中で愛読され、西洋文学にも大きな影響を与えた。

【オルジェイトゥ】
14C前、イルハン朝のハン(位1304-16)。アルグンの子、ガザン・ハンの弟。兄のイスラム化政策を引き継ぎシーア派に改宗。ラシードゥッディーンを引き続き宰相として起用し「集史」編纂を完成させた。新都ソルターニーイェと高さ50mの巨大ドームを備える墓廟を建設。

【ミーラーン・シャー】
14C後-15C初、ティムール朝の王族。ティムールの三男。ハリール・スルタンの父。ムガル帝国皇族の先祖に当たる。父の遠征に何度も参加。1399年領地のアゼルバイジャンで父に反乱。父の死後息子たちと連携し即位を目指すが失敗。領地も黒羊朝に奪われる。

【ハリール・スルタン】
15C初、ティムール朝の第2代君主(位1405-09)。ティムールの孫。ティムール晩年の遠征に参加。1405年ティムール死後、ピール・ムハンマド・ジャハーンギールを後継指名した遺言を無視してサマルカンドを占領し即位。シャー・ルフと対立し、09年打倒された。

【シャー・ルフ】
15C前、ティムール朝第3代君主(位1409-47)。ティムールの四男。1401年アンカラの戦いに参加。05年父の死後ヘラートを拠点に自立。09年ハリール・スルタンを打倒して即位。領土は縮小したがヘラートは繁栄し文化の中心地となった。明の永楽帝と交流。

【アブドゥッラティーフ】
15Cティムール朝の第5代君主(位1449-50)。ウルグ・ベクの子。1449年父に反乱を起こして勝利。ハッジに出立した父を暗殺して即位。自由で享楽的な文化人だった父と異なり敬虔なムスリムで、スーフィズムを保護した。即位1年ほどで父の忠臣により暗殺。

【ティムール朝のアブドゥッラー】
15Cティムール朝第6代君主(位1450-51)。ティムールの四男で第3代君主であったシャー・ルフの孫。先代のアブドゥッラティーフにより投獄されていたが、先代暗殺の首謀者たちに支持され即位。翌年アブー・サイードに敗れ処刑された。

【ティムール朝のアブー・サイード】
15C後、ティムール朝第7代君主(位1451-69)。ティムールの曾孫。ウズベク族の支援を受け1451年アブドゥッラーを倒しサマルカンドに政権を樹立。黒羊朝と同盟してサマルカンドも占領し帝国を再統合。最後は白羊朝のウズン・ハサンに敗れた。

【フサイン・バイカラ】
15C後-16C初、ティムール朝の君主(位1469-1506)。ティムールの玄孫に当たる。白羊朝のウズン・ハサンと戦い1470年ヘラートを占領。ヘラートの宮廷は建築、ペルシア語およびチャガタイ語の文学、ミニアチュール、書道、音楽など文化の中心地となった。

【ムラト2世】
15C、オスマン帝国第6代皇帝(位1421-44、46-51)。メフメト2世の父。軍事的には東ローマ帝国を圧倒したが、滅ぼすには至らず。ハンガリー貴族フニャディ・ヤーノシュ率いるキリスト教救国軍の侵入を1444年と48年の2度に渡り撃退した。

【コンスタンティノス11世】
15C東ローマ帝国最後の皇帝(位1449-53)。オスマン帝国のメフメト2世とは当初友好を維持したが、敵対的な工作を行ったため1452年から攻撃を受けた。西欧諸国に援軍を求めたが実現せず、53年コンスタンティノープルが陥落し戦死(東ローマ帝国滅亡)。

【ジェム・スルタン】
15C後、オスマン帝国の皇族。父はメフメト2世、兄はバヤズィト2世。父帝の死後兄と帝位を争い領土の分割を提案するが拒否され亡命。マムルーク朝、聖ヨハネ騎士団を経て欧州に渡り各国を流転。外交カードとして利用される。1495年死去。一部の子孫はキリスト教に改宗。

【アラー・ウッディーン・ハルジー】
13C末-14C前、デリー・スルタン朝のハルジー朝のスルターン(位1266-1316)。伯父である建国者ジャラールッディーン・ハルジーを打倒して即位。チャガタイ・ハン国やイルハン国の侵入を撃退。財宝と家畜を求めて度々南インドに侵入した。

【イングランド王スティーブン】
12Cのイングランド王(位1135-54)。先王の娘マティルダを女王として認めず、諸侯の支持を得て即位。しかしマティルダ側の反撃で内戦が続き、「無政府時代」となる。結局和議によりマティルダの子ヘンリー2世の即位を認めた(プランタジネット朝成立)。

【トマス・ベケット】
12C英国の聖職者。カンタベリー大司教。教会自治をめぐりヘンリー2世と 対立し1164年フランスに亡命。70年和解し帰国するが国王派の騎士により大聖堂で暗殺。彼の殉教によりカンタベリー大聖堂は欧州の主要な巡礼先となり、14Cには「カンタベリー物語」が生まれる。

【エロイーズ】♀
12Cフランスの修道女で、神学者ピエール・アベラールの妻。叔父のフュルベールを介して二人は知り合い結婚したが、アベラールとフュルベールは感情的に対立し、アベラールの男性器切除事件に発展した。修道士・修道女となった二人の文通が「愛の往復書簡」として知られる。

【ヒルデガルト・フォン・ビンゲン】♀
12C、ドイツの修道女、神秘思想家、作曲家。ベネディクト会所属。教会博士。幻視による預言で知られ、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世にも謁見。人工言語リングア・イグノタを創作。「聖三位一体のために」など77曲の賛美歌が残る。医学・薬草学にも功績。

【ピーター・ワルドー】
12C-13C初フランスの宗教家。リヨンの商人から巡回説教者となりワルドー派を形成した。清貧を旨とし、聖書を重視。原始教会への回帰を目指した。1184年教皇により異端宣告される。彼の死後ワルドー派はカトリックに迫害されるが後にプロテスタントの先駆とされる。

【ジェフリー・オブ・モンマス】
12C、イングランドの聖職者、歴史家。ウェールズ出身。代表作は「ブリタニア列王史」。歴史書の体裁をとるが、ウェールズ人の祖先ブリトン人の伝説を創作を交えまとめたもの。ここにアーサー王伝説の原型があり、ラテン語の本書を通じて伝説は西欧全体に伝播した。

【ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス】
13C後-14C初、スコットランド出身の神学者、スコラ哲学者、フランシスコ会の修道士。「精妙博士」。トマス・アクィナス同様アリストテレスを重視したが、直感ではなく自由意志によって神を愛することを説き、近代主体主義のルーツとなった。

【ラモン・リュイ】
13C-14C前、マヨルカ島出身のキリスト教神学者、哲学者、神秘思想家、宣教師。島にはアラブ人が多く、アラビア語とアラビア文化を学び北アフリカに宣教。回転円盤を用いて神意を得る卜占「ルルスの術」が知られる。ラテン語ではなく母語のカタルーニャ語で著述した。

【トマス・ア・ケンピス】
15Cドイツ出身の修道士、神秘思想家。聖アウグスチノ修道会所属。1418年霊的直観と神秘体験を通して神と合一する道を説く「キリストに倣いて」を著す。これは信仰的営み(ディヴォーション)のテキストとして聖書に次いでクリスチャンに最も読まれた書といわれる。

【フランス王ルイ7世】
12Cカペー朝のフランス王(位1137-80)。若年王。子はフィリップ2世。1147年第2回十字軍に参加。妻の再婚相手でありアンジュー伯・ノルマンディー公からイングランド王になったヘンリー2世と争う。ヘンリー2世の迫害を受けたトマス・ベケットを保護。

【ルイ8世】
13C前、カペー朝のフランス王(位1223-26)。獅子王。父はフィリップ2世。子はルイ9世。王太子時代の1216-17年父王の反対にも関わらずイングランドの第一次バロン戦争に介入。アルビジョア十字軍に乗じて南仏の神聖ローマ帝国領を攻撃、26年アヴィニョンを占領。

【ブランシュ・ド・カスティーユ】♀
13C、カペー朝フランス王ルイ8世の王妃。ルイ9世の母。カスティーリャ王妃出身。1200年夫と結婚。26年夫の死後12歳で即位した息子の摂政となる。反逆貴族やイングランド王ヘンリー3 世の侵入を撃退。29年アルビジョワ十字軍を完遂。

【ジャック・ド・モレー】
13C後-14C初、テンプル騎士団最後の総長。団の対仏債権の帳消しと莫大な財産没収を目論んだフランス王フィリップ4世により異端審問にかけられ、1314年パリで火刑に処された。同年フィリップ4世と教皇クレメンス5世が急死したため彼の呪いとして語り継がれた。

【シャルル4世】
14Cカペー朝最後のフランス王(位1322-28)。妹イザベラの夫であるイングランド王エドワード2世と争い、27年イングランドの反王派諸侯と結んで殺害した。28年死去したが男子がなく、軍功のあったヴァロワ伯シャルルの子フィリップ6世が王位を継いだ(ヴァロワ朝)。

【フランス王ジャン2世】
14C百年戦争期のヴァロワ朝のフランス王(位1350-64)。善良王。父はフィリップ6世。子はシャルル5世。1356年ポワティエの戦いでエドワード黒太子率いるイングランド軍に敗れ捕虜となる。彼がイングランドで死去するまでシャルル5世が摂政として統治した。

【シャルル5世】
14C百年戦争中のフランス王(位1364-80)。賢明王。56年父王ジャン2世が捕虜となると摂政。58年のジャックリーの乱とパリ市民の抵抗を鎮圧。名将ベルトラン・デュ・ゲクランを起用して百年戦争の劣勢を挽回。臨時徴税を頻発し官僚と常備軍を用いた絶対王政の先駆。

【ギヨーム・カルル】
14Cフランスの反乱指導者。 退役軍人であったが、1358年北東部でジャックリーの乱が発生すると指導者となる。当時摂政だったシャルル5世に反抗していたパリ市長エティエンヌ・マルセルと連携した。ナバラ王カルロス2世に敗れ処刑。反乱はまもなく鎮圧された。

【ベルトラン・デュ・ゲクラン】
14C百年戦争初期のフランスの英雄的軍人。「鎧を着た豚」。シャルル5世に王軍司令官として仕え、エドワード黒太子、ジョン・オブ・ゴーント兄弟率いるイングランド軍と戦い、失地の再征服を進めた。会戦を避け、ゲリラ攻撃や焦土作戦を多用した。

【シャルル6世】
百年戦争中のフランス王(位1380-1422)。狂気王。12歳で即位。88年から親政。国内の安定に努めたが、92年寵臣暗殺や93年「燃える人の舞踏会」の事故を機に精神を病む。宮廷は忠臣のアルマニャック派と親英のブルゴーニュ派が対立、イングランドの介入を許した。

【ルイ11世】
15Cフランスの王(位1461-83)。慎重王。ヴァロワ朝。シャルル7世の子。父の中央集権政策を受け継ぎ、養蚕や鉱業などの産業を育成。百年戦争で荒廃したフランスを復興した。シャルル勇胆公と戦い、ブルゴーニュの大半を王領とする。国内教会への支配も強めた。

【シャルル勇胆公】
百年戦争末期、最後のブルゴーニュ公(位1467–77)。ルイ11世の王権強化に対抗し反国王貴族を糾合。イングランド王エドワード4世の妹マーガレット・オブ・ヨークと結婚したが男子はなく、死後ネーデルラントはハプスブルク家領に、ブルゴーニュはフランス王に帰属した。

【フランソワ・ヴィヨン】
15C、フランスの詩人。パリで放蕩無頼の生活を送り何度も投獄されながら近代的な詩作を残し、最初の近代詩人と言われる。処刑を覚悟した際の「吊るされ人のバラード:ヴィヨンの墓碑銘」が名高い。1463年パリを追放されその後の消息は不明。作品集は「遺言詩集」他。

【ウィリアム・ウォレス】
13C末-14C初、スコットランドの騎士。民族的英雄。イングランド王エドワード1世の苛酷な支配に抵抗。1297年スターリング橋の戦いに勝利。98年フォルカークの戦いで敗北。その後もゲリラ的に抵抗するが1305年捕縛、処刑。映画「ブレイブハート」の主人公。

【イングランド王エドワード2世】
14C前プランタジネット朝のイングランド王(位1307-27)。エドワード1世の子。王妃はイザベラ・オブ・フランス。ピアーズ・ギャヴィストンやディスペンサー父子などの寵臣に政治を主導させ、諸侯と対立。1326年王妃が起こしたクーデタで打倒された。

【イザベラ・オブ・フランス】♀
14Cイングランド王エドワード2世の王妃。フランス王フィリップ4世の子。子はエドワード3世。1327年夫に反発する諸侯の支持を得てクーデタで夫を打倒し息子に譲位させた。愛人ロジャー・モーティマーとともに実権を握るが30年息子に打倒され幽閉された。

【イングランド王リチャード2世】
14C百年戦争期のプランタジネット朝最後のイングランド王(位1377-99)。父はエドワード黒太子。10歳で王位を継ぐ。1381年ワット・タイラーの乱。幼時はジョン・オブ・ゴーントが実権を握ったが成長すると対立。その息子ヘンリー4世に敗れ廃位。

【ヘンリー4世】
14C末-15C初ランカスター朝最初の英国王(位1399-1413)。ジョン・オブ・ゴーントの子。1399年従兄のリチャード2世を打倒しロンドン塔に幽閉。議会の承認を得て即位した。父が保護したジョン・ウィクリフを奉ずるロラード派を弾圧。百年戦争の休戦は維持した。

【イングランド王ヘンリー5世】
15C前、百年戦争期のランカスター朝のイングランド王(位1413-22)。ヘンリー4世の子。1415年フランス国内の内紛に乗じて休戦中であった百年戦争を再開、アジャンクールの戦いで大勝。20年トロワ条約でフランス王位継承権を得るが直後に病死。

【イングランド王ヘンリー6世】
15Cランカスター朝最後のイングランド王(位1422-61、70-71)。ヘンリー5世の子。カレーを除くすべての大陸領土を失い百年戦争に敗北。これに不満を持つ諸侯の支持するヨーク公リチャード・プランタジネットと対立、内戦となる(薔薇戦争)。

【リチャード3世】
15Cヨーク家の英国王(位1452-85)。甥のエドワード5世を打倒して即位。85年ボズワースの戦いでランカスター派のヘンリー・テューダー(ヘンリー8世)に敗れ戦死。テューダー朝が創始され薔薇戦争は終結。ウィリアム・シェイクスピアの史劇で悪役の印象が定着。

【イングランド王エドワード4世】
15C薔薇戦争期のヨーク朝最初のイングランド王(1461-83)。薔薇戦争を引き起こしたヨーク公リチャード・プランタジネットの子。リチャード3世とマーガレット・オブ・ヨークの兄。テューダー家と協力しランカスター派を破りヘンリー6世を廃位して即位。

【神聖ローマ皇帝ルドルフ1世】
13Cハプスブルク家として最初の神聖ローマ皇帝(位1273-91)。スイスの諸侯だったが1273年の皇帝選挙で選帝侯は彼を御し易い人物として選出。ドイツに安定をもたらし大空位時代を終わらせるとともにオーストリアを獲得し一門の拠点をウィーンに移した。

【神聖ローマ皇帝アルブレヒト1世】
13C末-14C初、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝(位1298-1308)。隻眼公。ルドルフ1世の子。父の死後ナッサウ伯アドルフに帝位が移るが、選帝侯の支持を回復し帝位に。諸侯への対抗上都市の自治を拡大。甥のヨーハン・パリツィーダにより暗殺。

【神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世】
14Cルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝(位1312-13年)。アルブレヒト1世暗殺後、1308年選帝侯に推されて即位(戴冠は12年)。11年ボヘミア王位を獲得。イタリア遠征中マラリアで死去。ダンテ・アリギエーリは「帝政論」で彼を名君としている。

【ドイツ王フリードリヒ3世】
14Cハプスブルク家のオーストリア公で、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の対立王。美王。アルブレヒト1世の子。ルートヴィヒ4世と激しく争い、妥協によりドイツ王位を得る(位1314-30)が帝位は奪えず、以後100年ほどハプスブルク家は帝位から遠ざかる。

【神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世】
15Cハプスブルク家の神聖ローマ皇帝(位1452-93)。マクシミリアン1世の父。対オスマン帝国戦の指揮を期待され皇帝選出。53年の長期在位となり、ハプスブルク家の帝位世襲を確立した。ハンガリー王マーチャーシュ1世に一時オーストリアを奪われる。

【神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世】
15Cハプスブルク家の神聖ローマ皇帝(位1438-39)。1404年からオーストリア公。1422年神聖ローマ皇帝ジギスムントの娘エリーザベト・フォン・ルクセンブルクと結婚。ジギスムントの死後に即位するが、オスマン帝国との戦争中の赤痢で死去。

【ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン】
14C中世セルビア王国最盛期の王、皇帝(位1331-55)。父王を廃して即位。東ローマ帝国の内紛に乗じてアルバニアとマケドニアを奪取。皇帝を称して東ローマ帝国征服を企図した。1349年ドゥシャン法典を制定。セルビア主教を総主教に格上げ。

【ヴワディスワフ2世】
14C後-15C前リトアニア・ポーランドの王(位1377–1434)。中世後期東欧の大国ヤギェウォ朝の創始者。85年12歳のポーランド女王ヤドヴィガと結婚し、カトリックに改宗。異教討伐の大義を失ってなお侵入するドイツ騎士団を破り、欧州最大版図を実現した。

【ポーランド王カジミェシュ3世】
14Cポーランド王(位1333-70)。大王。農民王。ヴワディスワフ1世とヤドヴィガの子。西方の神聖ローマ帝国、ドイツ騎士団、ボヘミアと和睦する一方、東方に進出しウクライナを征服した。貴族を抑えて農民を保護。ユダヤ人を受け入れて商業を発展させた。

【ヴラド・ツェペシュ】
15Cワラキア公。串刺し公。大貴族を抑えて中央集権化を推進。オスマン帝国のメフメト2世への臣従を拒否し、ゲリラ的に抵抗した。一時ハンガリー王マーチャーシュ1世に幽閉される。反逆者や敵兵を串刺し刑にすることで恐れられ、吸血鬼・ドラキュラ伯爵のモデルとなった。

【イヴァン1世】
14Cのモスクワ大公(位:1325-40)。キプチャク・ ハン国による「タタールのくびき」の下、トヴェリ公国との争いに勝利してウラジーミル大公位を得、徴税利権を利用してロシアの諸侯国を支配下におさめた。正教会の支援も獲得し、主教座をモスクワに移した。

【ドミートリー・ドンスコイ】
14C第4代モスクワ大公(位1359-89)。1380年クリコヴォの戦いでルーシ諸侯を率い、ママイが率いるジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)とその同盟国であったリトアニア大公国に勝利。「タタールのくびき」脱出の端緒となり、民族的英雄となる。

【マルグレーテ1世】♀
14C末-15C初、北欧3王国が連合したカルマル同盟の実質的女王(位1397-1412)。デンマーク王の娘、ノルウェー王の妻だったが幼い息子や親族のエーリク7世を両国の王位につけ摂政として実権を握る。1389年スウェーデンを破ってカルマル同盟を成立させた。

【ルカ・デッラ・ロッビア】
15Cルネサンス期の彫刻家。フィレンツェ出身。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のの「カントリア」など数多くの装飾レリーフを手がけた。それまでの大理石像やブロンズ像に加え、陶器の技術を彫刻に応用し琺瑯細工を加えた彩釉テラコッタ芸術を創始した。

【フィリッポ・リッピ】
15Cルネサンス期の画家。フィレンツェ派の巨匠。サンドロ・ボッティチェッリの師。宗教画でありながら世俗的で甘美な表現が特徴。修道士であったが美貌の修道女ルクレツィア・ブーティに恋し、子を成して還俗。妻子をモデルにした「聖母子と二天使」が名高い。

【ジョヴァンニ・ベリーニ】
15C-16C初、ルネサンス期の画家。ヴェネツィア派第一世代の巨匠。柔和な表情と華麗な色彩が特徴。ヴェネツィア共和国元首レオナルド・ロレダンの肖像の他「牧場の聖母」「神々の祝祭」など。「聖なる寓意」の主題は今も論争がある。カクテルのベリーニは彼に由来。

【ジョルジョーネ】
15C後-16C初、ルネサンス期の画家。ヴェネツィア派の巨匠。現存する作品はわずかに8点であるが、いずれも絵画史上の傑作とされる。「眠れるヴィーナス」「ユディト」「ラウラ」で堂々たる女性美を描く一方、「テンペスト」は西洋絵画最初の風景画とも。ペストにより夭折。

【イザベラ・デステ】♀
15C後-16C前イタリアのマントヴァ侯妃。妹はミラノ公妃のベアトリーチェ・デステ。摂政として国政を担う。芸術家を保護し、ティツィアーノ・ヴェチェッリオによる肖像画とレオナルド・ダ・ヴィンチによるスケッチが残る。ルクレツィア・ボルジアとの確執でも知られる。

【ベアトリーチェ・デステ】♀
15C後、ミラノ公妃。夫はミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァ。姉はマントヴァ侯妃イザベラ・デステ。夫ともに多くの芸術家を支援するが22歳で早逝。レオナルド・ダ・ヴィンチの「ミラノの貴婦人の肖像」のモデルを彼女とする説もある。

【ルドヴィーコ・スフォルツァ】
15C後-16C初のミラノ公。1482-99年フィレンツェのロレンツォ・デ・メディチの紹介で知ったレオナルド・ダ・ヴィンチをパトロンとして保護した。イタリア戦争では皇帝側に就くがスイス人傭兵に裏切られフランス軍に捕縛された(ノヴァーラの裏切り)。

【ハンス・メムリンク】
15C、初期フランドル派の画家。ベルギーの港町ブルッヘで活動した。宗教的な主題を華麗な色彩と徹底した写実表現で描く。代表作は三連祭壇画の「最後の審判」。大天使ミカエルが人々を地獄と天国に振り分ける迫力の場面であるが、人物は柔和な表情で描かれる。

【ヒエロニムス・ボス】
15C-16C初、初期フランドル派の画家。オランダのスヘルトーヘンボスで活動。作品はスペイン王フェリペ2世に愛好された。怪物が登場する幻想的で不気味な作風が特徴。代表作は地獄絵図や快楽に耽る裸体の群像の中に多彩な寓意を含む異端の祭壇画「快楽の園」。

【トゴン・テムル】
14C元朝最後の皇帝(位1333-70)。順帝。7歳で即位。天災と疫病が蔓延する中で軍閥のバヤンやトクトと対立。48年塩の専売を強化すると51年紅巾の乱が発生。68年朱元璋の北伐軍に追われてモンゴル高原に逃れた。風流人で南宋朝の血をひくとの伝承がある。

【韓山童】
14C元朝末期の農民反乱;紅巾の乱の指導者。白蓮教団の布教活動を通じて江淮平原に勢力を伸ばし、元朝打倒を訴えた。1351年宋朝の末裔を名乗って、黄河の土木工事に徴用されていた人夫達を扇動して反乱を企てたが、事前に発覚し処刑された。反乱は劉福通と子の韓林児が引き継いだ。

【韓林児】
14C元朝末期の農民反乱;紅巾の乱の指導者。韓山童の子。1351年父が反乱計画の失敗により処刑されると、門人の劉福通は逃れた韓林児を救出し、宋朝の末裔として皇帝に擁立した。58年一時的に開封に入る。63年劉福通が敗死。朱元璋を頼るが、66年に船が転覆し溺死。

【朱標】
14C明朝の皇太子。洪武帝の長男で、建文帝の父、永楽帝の兄。父帝の粛清を諌めていたが1392年父に先立って38歳で病死。不安を強めた父帝は粛清と一族による支配を強化。父帝の死後彼の弟である燕王(永楽帝)が彼の子である建文帝を打倒する靖難の変が起こった。

【鄧茂七】
15C明の農民反乱指導者。福建省の佃戸。当時福建の農村では都市に住む不在地主との倉庫に佃戸が5-6割の小作料を運んでいた。1448年、小作料の減免を求めて蜂起。銀山の工夫や流民も加わり、数十万の大反乱に膨れあがった。49年鎮圧。明末清初以降の抗租運動の先駆。

【景泰帝】
15C、明朝第7代皇帝(位1449-57)。代宗。父は宣徳帝。兄は英宗。1449年土木の変で兄帝がオイラトの捕虜となると于謙に擁立され即位。于謙に指揮を任せオイラトの侵攻を撃退。50年講和し兄を奪還。57年病臥すると兄が重祚し帝位を追われた(奪門の変)。直後に死去。

【成化帝】
15C後、明朝第9代皇帝(1464-87)。憲宗。父は英宗。自身の乳母で19歳年上の宮女である万貴妃を寵愛。万貴妃の専横で朝政は混乱した。特務機関西廠を設立して宦官を重用。反対する臣下を弾圧した。1487年万貴妃を追うようにして死去。治世中国内は比較的安定していた。

【ツォンカパ】
14C後-15C初、チベット仏教の学僧でゲルク派(黄帽派)の開祖。40歳の頃文殊菩薩の啓示を受けたという。既存のチベット仏教の堕落を批判してラサ近郊にガンデン寺を開いて厳格な戒律の道場とし、多くの信奉者を集めた。彼の弟子が初代のダライ・ラマとパンチェン・ラマ。

【羅貫中】
14C元末明初の文人で、「三国志演義」の作者とされる人物。経歴はほとんど不詳。元代に成立した説話本「三国志平話」から荒唐無稽な部分を排し、陳寿の「三国志」などの歴史書に即して大河小説に再構成した。他に「平妖伝」など。「水滸伝」の共同作者とも。いずれも懐疑的な説あり。

【高明】
14C元末明初の詩人、劇作家。元朝に仕えるが、元末の混乱で退き、寧波の有力者沈氏が保護した文学サークル「櫟社」に参加し創作に専念。代表作は後漢の蔡邕の妻が琵琶を弾きながら夫を探して放浪を続け、ついに夫と再会する「琵琶記」。豪奢を好む蔡邕の姿は士大夫への風刺と言われる。

【沈周】
15C-16C初明代中期の文人、画家。呉派の創始者。「明四大家」の一人で詩書画三絶の芸術家。山水画の他動物画も得意とした。蘇州の農村で文芸に耽り、その文房は有竹居と呼ばれ文人や好事家が千客万来した。弟子に唐寅、祝允明、文徴明。代表作は「滄州趣図」「廬山高図」など。

【恭譲王】
14C末、事実上最後の高麗王(位1389-92)。前代の王昌を殺害した李成桂に擁立され即位。1392年、李成桂に高麗王位を譲る。94年、配流先で子供とともに殺害。

【朝鮮王定宗】
14C末、李氏朝鮮第2代国王(位1398-1400)。永安君李芳果。太祖李成桂の子。第3第国王太宗(靖安君李芳遠)の兄。父王の建国事業に武将として貢献。第一次王子の乱で弟に擁立されたが実権は弟が握り、第二次王子の乱で弟に譲位。上王として悠々自適の余生を送った。

【朝鮮王文宗】
15C李氏朝鮮第5代国王(位1450-52)。第4代国王世宗の子。第6代国王端宗の父。第7代国王世祖の兄。1442年から摂政として病床の父王を補佐。在位2年でハンセン病とみられる病で死去。

【朝鮮王端宗】
15C、李氏朝鮮第6代国王(位1452-55)。父は第5代国王文宗。11歳で即位。翌1453年叔父の首陽大君(第7代国王世祖)が宮廷クーデタを起こし実権を掌握(癸酉靖難)。55年叔父に譲位して上王となる。56年「死六臣」による復位計画が失敗。57年賜死。享年16。

【朝鮮王世祖】
15C後、李氏朝鮮第7代国王(位1455-68)。首陽大君。父は第4代国王世宗。第5代国王文宗の弟。1453年癸酉靖難を起こし実権を掌握。55年甥の第6代国王端宗を廃位して即位。56年端宗復位を図った「死六臣」を処刑。57年端宗を毒殺。最期はハンセン病で死去。

【朝鮮王睿宗】
15C後、李氏朝鮮第8代国王(1468-69)。父は第8代国王世祖。兄は懿敬世子。1468年父王の忠臣だった南怡の謀叛事件。在位1年余りで死去。

【懿敬世子】
15C李氏朝鮮の王族。桃源君李暲。第7代王世祖の長男。第8代王睿宗の兄。19歳で早世。父王が癸酉靖難で打倒した第6代王端宗の母顕徳王后の亡霊を見て錯乱したという伝承がある。弟王の子が皆早世したため、彼の子が第9代王成宗として即位した。

【朝鮮王成宗】
15C後、李氏朝鮮第9代国王(位1469-94)。懿敬世子の子。廃妃尹氏との子が第10代国王燕山君。貞顕王后との子が第11代国王中宗。士林派を登用し善政を敷いた。治世は「文化の黄金期」と呼ばれ、法典「経国大典」、地理書「東国輿地勝覧」、歴史書「東国通鑑」を編纂。

【廃妃尹氏】♀
15C後、李氏朝鮮第9代国王成宗の王妃。第10代国王燕山君の生母。1473年入宮し王に愛され王妃となる。宮廷内では不評で、79年呪詛の疑いで廃位。82年賜死。最も強く彼女を排斥したのは仁粋大妃。1504年真相を知った燕山君は母を排斥した関係者を大弾圧(甲子士禍)。










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