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2018.02.26 (Mon)

Q1.国風文化はいつから始まるのですか?
A.10世紀です。8世紀末に平安時代が始まって概ね100年後から始まります。

Q2.国風文化の前の平安時代の文化はどのようなものでしたか?
A. 弘仁・貞観文化です。最澄、空海、円仁、橘逸勢、小野篁ら遣唐使船で唐に渡って帰国した者が中心となり、唐風の文化が重んじられつつも摂取・消化されていった時代です。天台宗と真言宗を中心に密教が栄えた時代でもありました。

Q3.国風文化はいつ頃終わるのですか?
A.12世紀になると、政治・社会状況の変化とともに国風文化とはやや性格の異なる文化が現れます。これを院政期文化と言います。つまり、平安時代の文化は概ね

9世紀=弘仁・貞観文化
10世紀・11世紀=国風文化
12世紀=院政期文化

となります。

Q3.国風文化はいつ頃終わるのですか?
A.12世紀になると、政治・社会状況の変化とともに国風文化とはやや性格の異なる文化が現れます。これを院政期文化と言います。つまり、平安時代の文化は概ね

9世紀=弘仁・貞観文化
10世紀・11世紀=国風文化
12世紀=院政期文化

となります。

Q4.国風文化がそれまでの日本の歴史的文化と大きく異なる特徴はなんですか?
A.飛鳥文化以降の日本の文化が中国の直接的な影響を強く受けたものであったのに対して国風文化は唐文化の消化・吸収が進行し、日本在来の文化との融合が進んだ点です。

Q5.国風文化は中国文化の影響を脱した日本の文化と言えるのでしょうか?
A.いいえ。例えば「古今和歌集」には「万葉集」には見られない花の香りの賛美が盛んに見られます。これは漢詩の影響によるものです。国風文化はあくまでも中国文化の影響を消化・吸収した文化と言えます。

Q6.遣唐使の停止は国風文化に影響を与えたのでしょうか?
A.はい。遣唐使停止は894年菅原道真の建白によるものですが最後の派遣は838年です。遣唐留学生の帰国者という文化の担い手が9C後半には途絶えたことは国風文化成立に影響を与えたと思われます。

Q7.遣唐使の停止によって中国文化の流入が途絶えたから国風文化が生まれたのでしょうか。
A.いいえ。遣唐使の停止前の9Cから海上商人が多数渡航し文物の輸入が行われていました。10C初頭の唐滅亡後も中国・朝鮮半島との交易は行われ文物の流入は続き日本の文化に影響を与えます。

Q8.対外関係の変化の他に、国風文化が生まれる契機となった要因はありますか。
A.仮名文字の発達です。平仮名は8世紀末、片仮名は9世紀初めにその起源が見られ国内で独自に発達しました。これが日本独自の文学、国文学の成立を可能にしました。

Q9. 中国語の文書の流入が途絶えたから日本独自の文字が生まれたのではないのですね。
A.はい。国風文化の時代も中国語の文書の流入は続いており、盛んに読まれていました。

Q10.国風文化は一種の民族意識を含むのでしょうか。
A.はい。もちろん近代的なナショナリズムとは異なりますが当時の貴族の中で民族や国家の意識は強まっていました。9世紀後半には日本の領土的範囲が公式に定められ10世紀には外交的孤立主義がとられたことも関係します。

Q11.国風文化の担い手はどんな人達ですか?
A.主に貴族です。藤原摂関家を頂点に貴族は官職を通じて全国の富を平安京に集めました。摂関家ら上級貴族は文人の保護者となり建築や彫刻、絵画を職人に発注し国風文化を経済的に支えました。貴族は文化の担い手となりうる教養を十分に備えていました。

Q12.その他の階級の人々は国風文化に関与していないのでしょうか。
あまり関与していません。特に文学はまだ庶民が文字を読めなかったので書く人も読む人も貴族でした。作品に登場する人物も貴族中心で様々な階級の人々が生き生きと活躍する説話文学はまだ生まれていません。

Q13.国風文化は主にどのようなジャンルが盛んだったのですか?
A.まず何と言っても文学です。他に宗教、絵画、彫刻、建築、書道、工芸、音楽、服飾、食文化など多岐に渡ります。

Q14.仮名文字ができるまでは、日本語を漢字だけでどのように表していたのですか?
A.基本は漢文です。最初は漢文を中国語の発音で読んでいましたが次第に日本語で読むことができるようになりました。これが国語の漢文の授業で習う訓読です。訓読により日本語を漢文で表すこともできるようになります。

Q15.平仮名と片仮名は日本で最初の表音文字ですか?
A.いいえ。日本の最初の表音文字、つまり仮名文字は万葉仮名です。これは表意文字である漢字を意味とは無関係に表音文字として借用して使用したものです。固有名詞の表記や和歌の表記に使われていました。

Q16.今で言う「夜露死苦」のような当て字ということですか?
A.はい。

Q17.平仮名はどのように成立したのですか?
A.漢字の字画を大きく省略した草書体がありますね。8世紀(奈良時代)の末には万葉仮名を草書体で書く草仮名が成立します。これが9世紀に急速に広まり10世紀の前半には今の平仮名とほぼ同じ字体が用いられるようになりました。

Q18.草仮名が用いられている最も古い文書は何ですか?
A. 正倉院万葉仮名文書です。762年の工事関係帳簿の裏に万葉仮名をかなり崩した文字が書かれていました。草仮名の代表作は和歌48首が書かれた「秋萩帖」ですが、正確な年代は不明です。

Q19. 正倉院万葉仮名文書が帳簿の裏に書かれていたのはなぜでしょうか?
A.紙が貴重だったので、裏紙として再利用したのです。まず万葉仮名文書が書かれそれが東大寺に渡り東大寺は裏紙として帳簿に用い保存されたものと思われます。このような古文書を紙背文書と言います。

Q20.平仮名が書かれた最も古い文書は何ですか?
A.2013年に平安京の藤原良相の邸宅跡から発見された土器です。藤原良相が死去した867年前後のものとみられます。約20個にたくさんの平仮名が書かれていますが、文書の内容は不明です。

Q21. 藤原良相とはどのような人物ですか?
A.兄である摂政・藤原良房とともに藤原北家の中心にいた人物で右大臣を務めました。大変な教養人で人望も厚く兄からはライバルとして警戒されました。土器に書かれた平仮名は彼の家に集った文人たちが斬新な草仮名として書いたものかもしれませんね。

Q22.公式の文書で初めて平仮名が書かれたのは何ですか?
A.905年に完成した「古今和歌集」ですが、当時の本は現存せず、どのような文字で書かれていたかはわかりません。

Q23.10世紀前半の平仮名が書かれた現存する文書はありますか?
A.935年、紀貫之は「土佐日記」を平仮名で書きました。紀貫之自筆の本は残っていませんが、鎌倉時代に藤原定家が字形を真似て書く臨書をした本が現存します。これを見ると当時既に現在とほぼ同じ平仮名になっているのがわかります。

Q24.片仮名はどのように成立したのですか?
A.9世紀初め、奈良の学僧たちが経典を訓読するために経典の行間に万葉仮名の字画を省略したものを記載そたのが始まりです。行間の小さな余白に書くため大胆な省略が行われたのです。次第に一般にも漢字仮名交じり文に使用されるようになりました。

Q25.平仮名も片仮名も漢字から自然発生的に変化したのですね。
A.はい。契丹文字、西夏文字、ハングルなどは王朝が国策として制定した文字です。それに対し平仮名と片仮名は貴族や僧が勝手に使用しはじめそれを追認する形で公文書にも使用されます。同様の例にベトナムのチュノムがあります。

Q26.文字の歴史の中で仮名文字の特徴は何ですか?
A.仮名文字は表音文字の中でも母音と子音に分かれておらず、母音が同じ文字、子音が同じ文字同士に字形の関連性がない音節文字です。音節文字は他にクレタ島の線文字Bや中国四川省・雲南省の少数民族イ族の言語を表すロロ文字などがあります。

Q27.仮名文字が広く使われるようになると、漢文は使われなくなっていったのですか?
A.いいえ。仮名文字の普及後も江戸時代まで公文書は漢文で書かれていました。次第に日本語の文法が交じった変体漢文となっていきますが近代に至るまで漢文の読み書きができることは支配層・知識人の絶対条件でした。

Q28.だから国語の授業で漢文を習うのですね。
A.はい。漢文は日本語の最も古い表記方法であり江戸時代まで日本語の公式の表記方法でした。国語で漢文を習うのは当然のことです。できれば漢文で作文できるようになるといいのですが初歩として論語や漢詩などの中国の古典を読むのです。

Q29.現代の漢文の教材には訓点がついていますが、昔の知識人は訓点なしで漢文を訓読したのですか。
A.はい。ただし訓点は8世紀末からありました。訓点がつけられた漢文の本を点本と言います。平安初期から広く使われた訓点がヲコト点です。

Q30.漢文訓読の文法は平安時代には確立していたのですか?
A. 漢文訓読の文法は紀伝道(史学)、明経道(儒学)、明法道(法学)など学科や学派によって流儀が異なりました。また経典の訓読も宗派によって異なり他派に秘密にするため暗号化した訓点をつけることもありました。

Q31.国風文化の漢文の代表作は何ですか?
A. 藤原公任が漢詩・漢文・和歌を集めた「和漢朗詠集」です。また藤原実資「小右記」や藤原道長「御堂関白記」のような公家日記、源信「往生要集」のような仏教書、慶滋保胤「日本往生極楽記」や三善為康「拾遺往生伝」のような往生書も漢文で書かれています。

Q32.「和漢朗詠集」を編纂した藤原公任とはどのような人物ですか?
A.国風文化の最盛期である10世紀後半から11世紀前半を生きた藤原北家の中心人物で藤原道長政権を支えた「四納言」の一人です。和歌と漢詩に長け、様々な伝説的逸話を残す天才文人です。晩年は出家し1041年に76歳で死去しました。

Q33. 藤原公任の天才伝説をいくつか教えてください。
A.勅撰和歌集に通算88首が入選し小倉百人一首にも選ばれています。三十六歌仙を選んだのも彼です。同い年の藤原道長もその才を認め三隻の船に漢詩、和歌、管弦の天才を乗せる舟遊びをした際に公任にはどれに乗るか選ばせたそうです。

Q34.「和漢朗詠集」はどのような経緯で編纂されたのですか?
A. 藤原公任の娘が藤原道長の五男・藤原教通と結婚した際に公任が祝いの引き出物として編纂したものです。同じ四納言の一人で書の大家・藤原行成に清書を依頼し美しい唐紙の粘葉本に装幀し硯箱に入れて贈られ大変な評判を呼びました。

Q35.「和漢朗詠集」にはどんな詩歌が選ばれているのですか?
A.当時盛んに朗詠されていた漢詩・漢文588句と和歌216首が108項目のテーマ別に掲載されています。最も多いのは当時平安京で大流行していた白居易の漢詩です。日本人の漢文は菅原道真、菅原文時、大江朝綱、源順、紀長谷雄らによるものです。

Q36.「和漢朗詠集」は後代にどんな影響を与えましたか?
A.多くの写本、注釈書が出され知識人の必修テキストとして読まれた他、朗詠を通じて幅広い階層の人々に浸透して後代の文学に計り知れない影響を与えました。

Q37.漢詩文の朗詠は訓読で行われたのですか?
A. はい。

Q38.「和漢朗詠集」に漢詩文が掲載された菅原文時とはどんな人物ですか?
A.10世紀に活躍した公卿で、菅原道真の孫です。957年に村上天皇の募集に応じて「意見封事三箇条」を提出し平安京の鴻臚館の復活などを主張しました。中国の故事を引用し漢文の名文として知られています。

Q39.「和漢朗詠集」に漢詩文が掲載された大江朝綱とはどのような人物ですか?
A.9世紀に活躍した公卿です。漢詩文の名手としてだけでなく書家としも知られました。百人一首に入選している歌人の大江千里は叔父に当たります。

Q40.「和漢朗詠集」に漢詩文が掲載された源順とはどんな人物ですか?
A.10世紀に活躍した公卿で三十六歌仙の一人です。博学の上に漢詩文・和歌ともに優れた秀才として名高く、「梨壺の五人」の一人として「万葉集」の解読や「後撰和歌集」の編纂を行いました。「和名類聚抄」の編纂も偉業です。

Q41.「和名類聚抄」とはどのような書物ですか?
A. 辞書です。勤子内親王の命で源順が930年代に編纂しました。テーマ別に漢語を並べて万葉仮名で和名を示し漢文で説明を加えています。百科事典に近い内容と、反切ではなく仮名で和訓を示した点で画期的です。国風文化の大きな成果の一つと言えます。

Q42. 反切とは何ですか?
A. 中国で後漢の時代から用いられている漢字の発音表記方法です。対象となる漢字とは別の二つの漢字を用いて子音と母音を表します。9世紀末に編纂された日本最古の漢和辞典とされる「新撰字鏡」は反切で和訓を示していました。

Q43.「和名類聚抄」の編纂を命じた勤子内親王とはどんな人物ですか?
A. 醍醐天皇の皇女で花のような美人と讃えられました。藤原師輔と密通し後に結婚を勅許され記録上初めて皇族ではない臣下と結婚した皇女となりました。源順は縁者でしたが「和名類聚抄」の編纂を命じた経緯はわかっていません。

Q44.「御堂関白記」とはどのような書物ですか?
A.藤原道長の日記です。政権を獲得した995年から。晩年の1021年まで断続的に書かれています。漢文で書かれていますが正規の文法とはかなり異なる独特の漢文で書かれています。当時の宮廷の様子を知る重要な史料であることは言うまでもありません。

Q45.藤原道長は関白になっていないと思うのですがなぜ「御堂関白記」という題なのですか?
A.藤原道長は左大臣時代に内覧という関白に近い権限を得、公務引退後も絶大な権力を行使しました。このため後世の人から関白と誤解され建立した法成寺の「御堂」と合わせ「御堂関白」と呼ばれたのです。

Q46.「小右記」とはどのような書物ですか?
A. 右大臣藤原実資の日記です。藤原北家小野宮流出身の右大臣だったので「小右記」と名付けられました。978年から1032年までの長期にわたって書かれています。藤原道長に対する批判的な記述が知られています。やはり自己流の漢文で書かれています。

Q47.藤原公任、藤原実資を輩出した藤原北家小野宮流について教えてください。
A.10世紀前半に政権を争った藤原北家の兄弟のうち、兄・実頼の子孫が小野宮流、弟・師輔の子孫が九条流です。公任、実資は実頼の孫です。藤原道長は師輔の孫に当たり九条流です。流派の名称由来は屋敷のあった場所です。

Q48.国風文化の時代の勅撰和歌集を教えてください。
A.八代集と呼ばれる鎌倉時代初期までの勅撰和歌集を覚えてしまいましょう。

905年 古今和歌集
957-959年 後撰和歌集
1005-07年拾遺和歌集
1086年 後拾遺和歌集
1126年 金葉和歌集
1151年頃 詞花和歌集
1188年 千載和歌集
1205年 新古今和歌集

Q49.覚え方はありますか?
A.五七五のリズムで覚えてください。

「古今より 後撰 拾遺に 後拾遺や 金 詞 千載 新古今なり」

Q50.「古今和歌集」が編纂された経緯を教えてください。
A.醍醐天皇は「万葉集」に続く和歌集の編纂を紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の四人の撰者に命じました。905年「古今和歌集」は醍醐天皇にいったん奏上されました。ただしこれで完成ではなくその後も新たな和歌が収録されています。

Q51.「古今和歌集」の撰者の筆頭に挙げられている紀友則とはどのような人物ですか?
A.紀貫之のいとこにあたる歌人です。自ら編纂した「古今和歌集」に45首、その後も通算64首の和歌が勅撰和歌集に入選しており小倉百人一首にも採用されています。907年「古今和歌集」の完成を見ることなく没しました。

Q52.「古今和歌集」の撰者の一人、凡河内躬恒とはどんな人物ですか?
A.宇田法皇に重用された宮廷歌人です。自ら編纂した「古今和歌集」に58首、その後も通算194首が勅撰和歌集に入選しており、小倉百人一首にも採用されています。

Q53.「古今和歌集」の撰者の一人、壬生忠岑とはどんな人物ですか?
A.身分の低い下級武官でしたが優れた歌人で撰者に異例の抜擢をされました。自ら編纂した「古今和歌集」に34首、その後も通算81首が勅撰和歌集に入選しています。

Q54.「古今和歌集」に収録されている和歌はすべて「五七五七七」の短歌なのですか?
A.いいえ。1111首のうち「五七五七五七…」の長歌が5首、「五七七五七七」の旋頭歌4首含まれます。それ以外はすべて短歌です。「万葉集」の短歌の割合は約93%ですから和歌といえば短歌という認識は強まっていますね。

Q55.「古今和歌集」はどのような構成になっていますか?
A.平仮名の和文で書かれた「仮名序」と漢文で書かれた「真名序」の2つに序文が付されています。全20巻で季節やシチュエーションなどのテーマ別に1111首が収録されています。

Q56.「古今和歌集」の「仮名序」「真名序」とはどのような文章ですか?
A.「仮名序」は紀貫之が書いた史上初の和歌論です。和歌のあり方や分類、過去の偉大な歌人について述べ最後に「古今和歌集」の編纂経緯と位置づけを述べます。「真名序」は紀淑望という文人が「仮名序」を漢文にしたものです。

Q57.「古今和歌集」の収録歌数は1100首とも聞きますが?
A.巻末に「墨滅歌」11首が収録されており、それを除くと1100首、含めると1111首です。

Q58.「墨滅歌」とは…放送禁止歌のようなものでしょうか?
A.いいえ。ただ単に最終的に撰に漏れた歌、ということのようです。鎌倉時代に藤原定家が「古今和歌集」の伝本を書写した際、墨で印をつけて除外している11首の和歌を見つけ、巻末にまとめて書写し後世に伝わっています。

Q59.「古今和歌集」において収録和歌数の多い歌人は誰ですか?
A.「古今和歌集」収録和歌の4割は詠人知らずです。四人の撰者自身の和歌は244首で2割を超えます。紀貫之が絶賛する9世紀後半の「六歌仙」は計67首、他に多いのは素性、伊勢、藤原興風、清原深養父、在原元方、大江千里です。

Q60.六歌仙に数えられている歌人を教えてください。
A. 僧正遍昭、「伊勢物語」の主人公とされる在原業平、文屋康秀、喜撰法師、絶世の美女とされる小野小町、大伴黒主の六人です。いずれも9世紀後半に活躍しました。

Q61.小野小町はやはり美人だったのですか?
A.小野小町は素性のほとんどわからない歌人です。紀貫之は「古今和歌集」の「仮名序」で小町の“歌風を”記紀神話に登場する伝説の美人・衣通姫になぞらえました。ここから後世の人々は絶世の美女のイメージを膨らませ様々な伝説を作っていきます。

Q62.六歌仙の筆頭に挙げられている僧正遍昭とはどんな人物ですか?
A.9世紀に活躍した歌人です。俗名を良岑宗貞といい、桓武天皇の孫に当たります。仁明天皇に重用されますがその崩御に伴い出家しました。勅撰和歌集には通算35首が入選し小倉百人一首にも採用されています。子は歌人の素性です。

Q63.百人一首の僧正遍昭の和歌は特に印象的ですよね。どのような状況で読まれたのですか?
A. 天つ風
雲の通ひ路
吹きとぢよ
をとめの姿
しばしとどめむ

宮中行事後の宴会で行われた少女達の舞踊を見た嘆賞です。
舞姫たちを「雲の通ひ路」を通って天に帰ってしまう天女になぞらえているんですね。

Q64.キモいですね。僧正がこんな歌詠んでいいんですか?
A.もちろん俗人時代の歌です。百人一首のかるたでは高齢の僧の姿で描かれているのでどうしてもエロ坊主に見えてしまいますが…。江戸時代にもあなたのような感想を抱いた人がいて

遍昭は
乙女になんの
用がある

という川柳が残っています。

Q65.「をとめ」ということは処女ですか?
A.はい。今のアイドルと同じで、処女の清純さと華麗な舞踊の美が人々を引きつけたんでしょうね。

Q66.キモいです。
A.そうですか。

Q67.六歌仙の一人、文屋康秀は晩年小野小町を妻としたのですか?
A.親交は深かったようですが、可能性は低いと思われます。「古今著聞集」「十訓抄」に文屋康秀が三河国に赴任する際に小野小町を誘い、小町が思わせぶりな返歌を返した話が載っていますが、説話に過ぎません。

Q67.六歌仙の一人、文屋康秀は晩年小野小町を妻としたのですか?
A.親交は深かったようですが、可能性は低いと思われます。「古今著聞集」「十訓抄」に文屋康秀が三河国に赴任する際に小野小町を誘い、小町が思わせぶりな返歌を返した話が載っていますが、説話に過ぎません。

Q69.「古今和歌集」の「仮名序」で紀貫之が挙げていた偉大な歌人が六歌仙ということでしたが、一首しか入選していない喜撰法師が入っているのが不思議ですね。9世紀の歌人でもっと入選している人もいると思うのですが。
A.そこは一つの謎ですね。なぜこの六人が記載されたのかについては諸説あります。

Q70.どのような説ですか?
A.六歌仙は清和天皇と皇位を争う関係にあり、優れた歌人でもあった惟喬親王と親しかったという説があります。親王の母は紀氏です。不遇な晩年を送った親王と六歌仙の鎮魂のために紀貫之が「仮名序」に六歌仙を載せた、という説です。

Q71.「伊勢物語」は六歌仙の一人である在原業平の実録なのですか?
A.いいえ。本作に付されている209首の和歌のうち業平作は35首にすぎません。他は「万葉集」や勅撰和歌集からとられています。おそらく最初は業平の逸話と和歌で構成されていたものに様々な説話と和歌が増補されていったのでしょう。

Q72.六歌仙の一人であり「伊勢物語」の主人公ともなった在原業平とはどのような人物ですか?
A.桓武天皇の孫にあたる皇族でしたが、臣籍降下し仁明天皇、清和天皇に仕え晩年は惟喬親王に仕えています。勅撰和歌集には通算87首が入選しています。

Q73.紀氏に縁のある惟喬親王と在原業平が親しかったということは、やはり紀貫之が業平をヒーローに仕立てたのでしょうか?
A.その可能性はあります。業平は妻も紀氏の女性で六歌仙の中でも特に紀氏との関係が深い歌人でした。初期の「伊勢物語」の著者を紀貫之とする説もあります。

Q74.「伊勢物語」の他に国風文化の時代の歌物語はありますか?
A.「大和物語」です。統一的な主人公のいないオムニバス形式ですが、「伊勢物語」とよく比較されタイトルも「伊勢」に対抗して「大和」と名付けられたようです。前半は平安京の皇族貴族の逸話ですが後半は民間伝承の説話集です

Q75.国風文化を代表する物語文学を教えてください。
A. 現存する最古の仮名の物語である「竹取物語」、遣唐副使・清原俊蔭とその子孫を主人公とした「うつほ物語」、「シンデレラ」と通ずる継子いじめ譚「落窪物語」、そして紫式部の「源氏物語」です。

Q76.「うつほ物語」の「うつほ」とはなんですか?
A.「うろ」とも呼ばれる樹木にできる空洞のことです。遣唐副使・清原俊蔭の娘は貧しく、うつほで息子を育て、父から授かったペルシア琴を教えます。本作はこのペルシア琴を軸に俊蔭のひ孫の代までのドラマを描く長編物語です。

Q77.国風文化を代表する仮名書きの日記文学・随筆を教えてください。
A. 紀貫之の「土佐日記」、藤原道綱母の「蜻蛉日記」、「和泉式部日記」、「紫式部日記」、藤原道綱母の「枕草子」、菅原孝標女の「更級日記」です。

Q78. 紫式部と清少納言は不仲だったのですか?
A.清少納言が中宮定子に仕えたのは993年から1000年、紫式部が中宮彰子に仕えたのは1007年から1012年頃で、二人に面識はなかったはずです。しかし「紫式部日記」には年上の清少納言を知ったかぶりであるかのように辛辣に批判している部分があります。

Q79.中宮彰子と中宮定子の対抗関係が紫式部の清少納言に対する批判につながっているのでしょうか?
A.定子は1000年に崩御しています。「紫式部日記」が書かれたのは1008年頃ですが清少納言が残した「枕草子」は人々に亡き定子を偲ばせていました。これは彰子の側には不都合だったのかもしれません。

Q80.紫式部は藤原道長の愛人だったのですか?
A.その可能性があります。「源氏物語」が評判となっていた紫式部を娘である中宮彰子の女房に抜擢したのは道長です。「紫式部日記」では自ら関係を否定していますが鎌倉時代の系図集「尊卑分脈」にははっきりと道長の妾と記載されています。

Q81.一条天皇は定子と彰子のどちらをより愛していたのでしょうか?
A.一条天皇は13歳の時に結婚した3歳年上の中宮藤原定子を深く愛し一男二女をもうけました。1000年定子が崩御します。悲しむ一条天皇を彰子は献身的に愛し1008年になってようやく懐妊し結局二人の天皇の母となりました。

Q82.中宮彰子の女房であった女流文人を教えてください。
A.紫式部、和泉式部、「栄花物語」正編の作者とされる歌人の赤染衛門、続編の作者とされる出羽弁、勅撰和歌集に通算51首が入選した歌人の伊勢大輔です。出羽弁以外の4人が小倉百人一首に採用されています。

Q83.「蜻蛉日記」の作者と「更級日記」に作者は親戚なのですか?
A.はい。「蜻蛉日記」の作者・藤原道綱母の異母妹の娘の夫が常陸国国司・菅原孝標で、その娘が「更級日記」の作者・菅原孝標女です。伯母・姪の関係となります。

Q84.「更級日記」はどのような作品ですか?
A.日記と言っても日々綴ったものではなく、作者・菅原孝標女が夫の死後、少女時代からの半生を振り返って書いた自叙伝です。父の赴任先の上総国から京へ戻る場面に始まり皇女に仕えた青春時代、結婚、出産を経て信仰に傾倒する現在までを綴っています。

Q85.国風文化の宗教面での特徴を教えてください。
A.①天台・真言両宗の国家仏教としての伸張
②本地垂迹説による神仏習合の進行
③故人の霊を畏れる御霊信仰の流行
④浄土教の流行と念仏の浸透
などです。

Q86.国風文化の時代の天台・真言両宗の代表的な僧を教えてください。
A.天台宗では荒廃していた比叡山延暦寺を再興した慈恵大師こと良源、真言宗は修験道を取り入れて醍醐寺を開き宇多天皇の厚い帰依を受けた理源大師こと聖宝です。良源はおみくじの創始者とも言われます。

Q87.本地垂迹説とはなんですか?
A.神道の神祇は大乗仏教の諸仏や護法善神が仮に日本の地に姿を現した「権現」であるという考えです。以下のように仏号が割り当てられました。

垂迹神→本地仏
天照大神→ 大日如来、十一面観音
応神天皇(八幡神)→ 阿弥陀如来
スサノオ→ 牛頭天王、薬師如来

Q88.御霊と怨霊は違うのですか?
A.表裏一体の存在です。強い怨みを持って非業の死を遂げた者は蔑ろにすれば人々に災いをもたらす怨霊になる一方神として祀れば鎮護の神として平安をもたらしてくれる御霊になると考えられました。

Q89.平安時代の人物で御霊になった者を教えてください。
A. 菅原道真の他に伊予親王の変で自害した伊予親王と藤原吉子、承和の変で配流の護送中に没した橘逸勢、薬子の変で射殺された藤原仲成、謀反の冤罪をかけられた文室宮田麻呂、呪詛の疑いをかけられた井上内親王などです。

Q90.平安時代の浄土教の代表的な僧を教えてください。
A.遣唐使船で留学し天台宗に浄土教を持ち込み、観相念仏行を普及させた円仁、社会事業をしながら諸国を旅して阿弥陀信仰と「南無阿弥陀仏」を唱える称名念仏を庶民に広めた市聖こと空也、「往生要集」を著した恵心僧都こと源信です

Q91.「往生要集」とはどんな書物ですか?
A.源信が多くの経典から極楽往生に関する記述を集めた漢文の仏教書です。現世を否定的に位置付ける「厭離穢土」にある地獄・極楽を含む六道の強烈なイメージは貴族たち、のちに絵解きによって庶民にも広まり日本人の世界観に多大な影響を与えました。

Q92.他に国風文化の時代の宗教に関する重要な書物はありますか?
A.極楽往生した人物の伝記集である往生伝です。代表は儒学者で浄土教に帰依し出家した慶滋保胤の「日本往生極楽記」で、聖徳太子に始まり皇族、僧、貴族、庶民にいたる45人の伝記を漢文で記しています。

Q93.浄土教は彫刻の分野にはどんな影響を与えましたか?
A.当初は下級貴族に広まった浄土教は藤原道長の帰依を受け大量の仏像が作られました。仏師の定朝は大量生産のため寄木造の造仏技術を完成させました。現存する作品は平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像のみです。

Q94.浄土教は建築の分野にはどんな影響を与えましたか?
A.池を中心とした浄土式庭園の正面に阿弥陀堂を配置する寺院建築が生まれました。藤原道長が建立した法成寺が知られましたが現存する代表は藤原頼通が建立した平等院です。鳳凰堂と呼ばれる阿弥陀堂には定朝の阿弥陀如来像が安置されています。

Q95.浄土教は絵画の分野にはどんな影響を与えましたか?
A.阿弥陀仏が往生する人を迎えに来る来迎図が盛んに描かれました。高野山霊宝館に所蔵されている阿弥陀聖衆来迎図は著名です。浄土教関連ではありませんが高野山金剛峯寺所蔵の仏涅槃図も国風文化の仏教美術の傑作です。

Q96.平等院の設計は貴族の邸宅建築の寝殿造に似ていますね。
A.はい。中央に寝殿、周囲に対と呼ばれる建物を配置してそれらをつなぐ渡殿や廊で池を備えた庭園を囲む寝殿造は、寝殿を阿弥陀堂に置き換えて寺院建築に応用されました。平安貴族にとって浄土とは自邸に近いイメージだったの

Q97.国風文化の工芸技術はどんなものですか?
A.漆器に金銀粉を蒔く蒔絵の技術が生まれました。現存する最高傑作は空海の写経「三十帖冊子」を入れた仁和寺所蔵の箱です。また日本刀の技術が確立し安綱、三条宗近などの伝説的な刀工の作品が現存しています。

Q98.国風文化の書道はどんなものですか?
A. 小野篁の孫の小野道風、藤原北家小野宮流の藤原佐理、四納言の一人で世尊寺を創建し世尊寺流書道の祖となった藤原行成が三跡と呼ばれました。いずれも真跡が残っています。道風はあきらめない蛙を見習った逸話も有名です。

Q99.国風文化の服飾はどんなものですか?
A.貴族男性の正装は束帯です。下襲、袍などを重ね着して石帯というベルトを締め、冠を被り笏を持ちました。これを簡略化した勤務服が衣冠です。普段着は直衣、狩衣で現在の神主さんは狩衣を着用しています。女性の正装は袿を重ね着していく十二単です。

Q100.国風文化の食文化はどんなものでしたか?
A. 貴族の食事は米を蒸した強飯、炊いた姫飯を主食とし干魚やキジ、鴨などの肉、山菜や野菜、お吸い物、みかんなどの果物、酒などが食事の内容でした。一見豪華そうですがビタミンに乏しく脚気で命を落とす人が続出したそうです。
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